2101話 若者の世界旅行 欧米編27  高等遊民のことから 3

 韓国の海外旅行自由化の流れは1393話に書いた。ネットで簡単に手に入る資料だと、韓国で旅行が自由化されたのは、ソウルオリンピックの翌年、1989年だと説明されているが、まだ障害があったという話を書いた。日本の場合、1964年に海外旅行が自由化された。旅行費用が高いという問題はあったが、基本的には誰でも外国に行くことができたが、韓国では違っていた。89年はまだ軍事政権下であり、徴兵制の問題もあり、日本人のように若い男が自由に海外旅行ができる状況ではなかった。93年に文民政権になるが、徴兵制の問題は変わらずある。

 20世紀に入って、ベトナムやスペインで韓国人旅行者に会ったことがあるが、6人とか8人といった団体で、どうやら「卒業旅行のようなもの」だったのかもしれない。

 ある民族や国籍の者たちが利用する宿泊施設は、移民の誕生によって、移住先のある地域に出現する。中国人街のホテルや、日本人街のホテル、インド人街のホテルなどは、同じ言語や文化を共にする者たちの宿だった。かつて日本人が「支那宿」と呼んでいた東南アジアの旅社は、まだわずかに残っている。インド亜大陸系やイスラム教徒用の宿などは増えていると思う。そういう移民用宿とは別に、旅行者用安宿というのもある。元は移民が多く利用したが、のちに旅行者が多く利用するようになる日本人宿といえば、ロサンゼルスのリトル・トーキョーにあったニューヨークホテルを思い出す。1980年にこのホテルに泊まった。その前年に、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんがここに泊まったと知った。妹尾河童氏が泊まったことがあるという記録も読んだことがある。

 私の知る限り、だから大した情報量ではないのだが、日本人宿のごく初期のものは、金子光晴が利用したような、「大東亜共栄圏」時代の東南アジアや中国大陸などの宿を除くと、1970年代のスペインやインドやタイで生まれた日本人宿だろう。旅の孤独に耐えられない日本人旅行者が集まって来て、しばしの時を過ごした。その後も、「日本人のたまり場」と称される安宿が、インドを始め世界各地に生まれていく。1990年代に入って、韓国人宿とイスラエル人宿が生まれてくる。いわゆるバックバッカ―用ではないが、トランクごろごろの中国人旅行者を相手にしたのが中国人用民泊だ。新大久保には、戸建て住宅を利用した韓国人用民泊の看板を見かける。

 1970年代に台湾を旅していて、父親くらいの年齢の人たち(日本語世代だ)からよく言われたのは、

 「ひとりで、寂しくないの? 旅行は友達と行った方が楽しいでしょ」

 「旅行先で、商売になりそうなネタを探せばいいじゃない。『これを日本に輸入したら儲かる…』とか。旅行して、おカネを使うだけ? もったいない」

 80年代半ばにタイの田舎で会った香港の青年。彼は香港から中国を旅して、チベットからネパール、インドと旅して、タイに来たといった。「今回も、前回と同じルートで旅しました。おもしろいんです」

 そこで、私がたずねた。「そういう旅をしていて、家族親族友人知人たちは、なんと言ってるの?」

 ふふっと笑って、言った。「そんなカネがあるなら、投資先を考えるとか、商売を始めるとか、有効な使い方を考えなさい、ですよ。旅は、カネを使うだけですから無駄使いだと思ってますよ。大金持ちなら、何も言われないでしょうがね」

 その後、アジア人旅行者の意識がどう変化しているのか、私は知らない。

 そうそう、韓国の話でちょっと触れたが、若者の旅を考える際に、徴兵制も考慮に入れておかないといけない。「日本は徴兵制度がないんだろ、いいなあ」と、旅行先でいわれたことが何度かある。その地を旅している外国からやって来た若者たちを眺め、たまらなくうらやましそうだった。

 徴兵ではなく志願だが、生活が苦しくて陸軍に入隊するという若者と会ったのは、ミズーリ州のカンサスシティーカンザス州にもカンザスシティーがある)を出たばかりのグレイハウンドバスのなかだった。日本人の目には、実年齢よりもはるかに老けて見えるアメリカの若者だが、彼は子供のように見えた。私は旅行者で、彼は入隊の旅だった。そういえば、グレイハウンドバスでは休暇で帰省する若い軍人とよく乗り合わせた。カネもなければ車も持っていない兵隊は、バスで移動する。