2103話 若者の世界旅行 欧米編 29 ビートジェネレーション 2

 前回からの年表の続き。

 1949 バロウズ、麻薬と拳銃の不法所持で逮捕。メキシコに渡り、メキシコ・シティー大学で学ぶ(52年に、危険外国人としてメキシコから追放される)。

 1953  バロウズ中南米を旅行した後。ロッコに定住。” The Naked Lunch”を書き始める。

 1953 スナイダー、カリフォルニア大学バークレー校に入学。

 1953~54 ギンズバーグ、メキシコ旅行。

 1955 ギンズバーグ、カリフォルニア大学バークレー校に学士入学(3週間で退学)。スナイダーと出会う。

 1956~68 スナイダー、断続的に京都に滞在しを学ぶ。

 1957 ケルアック、“On the Road”出版(日本語版『路上』は1959)。同年“The Dharma Bums”出版(日本語版は『禅ヒッピー』1973)。

 1957 ギンズバーグロッコへ。

 1959 バロウズ“The Naked Lunch”出版(日本語版『裸のランチ』は1965年)。

 1958~66 バロウズパリ、ロンドン、タンジーなどで暮らす。

 1960 ケルアック“The Lonesome Traveler”出版(日本語版は『孤独な旅人』1996)。“The Lonesome Traveller”という表記もある。

 1961~62 ギンズバーグ地中海地域を旅行。

 1962~63 ギンズバーグインドヘ。 

 1970 ギンズバーグ“Indian Journals”出版(日本語版は『インド日記』1980)。

 

 こういう年表を見てすぐにわかることは、全員が戦前生まれで、驚異的な高学歴で、「まじめに」生きていけばエリートコースに乗ることができる学歴なのだが、彼らは道を外れた。ここでも、高等遊民という語が浮かぶ。

 1920年代のロスト・ジェネレーション世代の作家たちは、ヘミングウェイフィッツジェラルドドス・パソスヘンリー・ミラーなどはパリで過ごしたが、ビートジェネレーションはメキシコロッコインドに興味を持った。あとで関連があるので、記憶しておいてください。ちなみに、戦後もジャズミュージシャンはパリに滞在した。映画「ラウンド・ミッドナイト」は、1960年代前半にパリに移住したジャズ・ピアニスト、バド・パウエルの活動にヒントを得て創作された。

 作家ではリチャード・ライトは1946年以降パリに定住した。パリでは、アメリカのような人種差別がないと感じたということが重要なことだ。フランスに人種差別がないわけではなく、「アメリカ人だから」、「ジャズミュージシャンだから」という加点があったからだろうが、同時に、アメリカの黒人差別がすさまじいものだったからという点もある。ジャズ・ドラマ―、アート・ブレイキーは、初来日したとき、差別されないどころか、敬意をもって大歓迎されたことに感激し、以後日本びいきになった。その当時、アメリカでは黒人は演奏できないホールがあった。演奏はできるが、けっして客席には座れないホールもあった。1961年、ジョージア州でのレイ・チャールズコンサートの座席配置が人種差別的だと抗議したら、州内でのコンサート開催が禁止された(1979年に解除)。映画「グリーンブック」も、1960年代のアメリカ南部と黒人ジャズピアニストの話だ。

 そういう点では、ビートジェネレーションのインテリ白人たちは、パリを避難地にする必要がなかった。「あこがれのパリで生活したい」というだけの理由で充分だった。そういえば、ヘップバーンの「パリの恋人」(1957)には、パリのビートニック・ファッションが登場する・・・といった話題には深入りしない。

 詩人、作家、教育者でもあるゲーリー・スナイダーは、京都の相国寺大徳寺で禅の修行をしたり、鹿児島県の諏訪之瀬島のコンミューン(共同体)で生活した。アメリカに帰国後は、ヘンリー・デビッド・ソローの流れを汲み、環境保護活動などをする。そういう点では、ヒッピーの思想的先導者のような存在だ。一般的には、ビート・ジェネレーションの主要人物として紹介されるし、私もここで紹介したが、思想や行動はビートというよりソローやヒッピーに近い。