2108話 若者の世界旅行 欧米編 34 東南アジアルート

 注文していた『コンビニからアジアを覗く』が届く。編著者の「佐藤寛+アジアコンビニ研究会」という名称をよく見て「?」。佐藤寛の名はアジア経済研究所の『イエメンものづくし』の著者かもしれないと調べてみたら、当たり! この本は、ちょっと旅行したことがあるライターのコラム集かもしれないと想像していたのだが、とんでもない。アジアコンビニ研究会とはアジア経済研究所内の本格的研究会だった。メンバーは研究者だから、「おお~!」と声を上げた。今読んでいる『日本語を作った男 上田万年とその時代』を読み終えたら、すぐに読むことにしよう。楽しみだ。

 さて。

 1960年代から70年の前半くらいまではヨーロッパからインド亜大陸を結ぶルートが中心だった。日本人旅行者も同様で、日本から直接インドを目指すか、インドから日本へ飛ぶのが普通で、乗り換えなどでバンコクに寄ることはあっても、東南アジアにはほとんど興味はなかった。あの頃、東南アジアを旅する日本の若者は少なかった。若者の関心は、アメリカでありヨーロッパであり、ごく一部にインドがあった。

 ヨーロッパとインドを結ぶルートに東南アジアが加わるのは、オーストラリアやニュージーランドの若者が登場するからだ。若者の旅行ルートは、オーストラリアやニュージーランドから東南アジアを抜けてインド、そしてヨーロッパに至る(あるいはその逆)のルートに伸びた。移民の子供が、両親の故国を訪ねる。あるいは、イギリスの若者が、移住していった親戚を訪ねる旅をしたいという動機があり(同時に旅行資金を稼ぐという目的もあったが)、その移動ルートにインドがあり、旅心がかりたてられた。インドに行く前か後に、物価が安くビーチがある東南アジアがあった。

 のちにロンリープラネットを創刊するトニーとモーリンのウィーラー夫妻がロンドンを出たのが1972年、オーストラリアに着いたのは73年だった。そして、1970年代後半から旅行ガイドを盛んに出版したことで、オーストラリアやニュージーランドからインドやヨーロッパ方面に旅に出る若者が増えた。

 私の個人的体験なのだが、1974年にバリ島にひと月ほど滞在した時は、クタビーチには十数人ほどの旅行者がいるだけで、日本人旅行者も出会わなかった。よく話をしていたのはアメリカ人とイギリス人とドイツ人だった。クタもウブドも、電気も水道もホテルもない、ランプで暮らす村だった。電気があったのは、デンパサールと一部の高級ホテルだけだったと思う。ウブドには昼間は団体観光客が来るようだったが、宿泊客(民家に泊めてもらう)の姿は見かけなかった。団体観光客はサヌールにいた。

 それが1970年代末になると、クタの道路に土産物やアロハ風シャツを売る売店が並び、大音量でロックが放出されていた。バナナパンケーキ屋ができて、サーファーが歩いていた。「オーストラリアからの観光客が、どーっと来てるんだよ」と店員が言った。

 バックパッカー研究者たちがしばしば参考文献として挙げる『カオサン探検 バックパッカーズ・タウン』(新井克弥、双葉社、2000)には、バンコクのカオサンの北バンランプーにあるViengtai Hotelは、ベトナム戦争当時米兵用のR&R(簡単に言えば、酒と売春のホテル)で、その後バックパッカーが利用するホテルに変身し、カオサン安宿街に発展したと解説されている。このホテルは1953年の創業だから、米兵用に作ったホテルではなく、一階ロビーはオーストラリアの学生組織AUSの事務所になっていたから、若い旅行者がしばしば姿を見せていたというのが、1974年の私の見聞だ。王宮に近く、王族の邸宅や軍施設や役所などが集まっている地区にぽつんと建つホテルが、ジャンキーと酔っ払いと売春を目的にした米兵相手の酒池肉林ホテルであるはずがない。ビエンタイホテルは、おそらく公務員の出張や上流階級の人たちのパーティー会場として使われていたのではないだろうか。

 ここでAUS(Australian Union of Students)についてちょっと解説しておこう。AUSは、1970年から84年まで活動していた学生団体で、そこに旅行部門があった。オーストラリア国内の鉄道や航空券を学割で販売するだけでなく、国際線航空券も学割で買えた。バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも営業所があった。オーストラリア人以外も利用できた。

 学割航空券の話は次回に続く。