2111話 若者の世界旅行 欧米編 37 英・豪ルートと日本 2

 1978年に横浜からソビエト船で香港に行ったとき、10人ほどいた西洋人はみな観光ビザで不法就労している英語教師たちで、日本のビザを取り直すための日本出国だった。

 香港の安宿のロビーに、日本の仕事情報の英語メモがいくつか貼ってあった。そのなかに、ストリップ劇場のダンサー募集というものもあった。英語教師はしたくない、あるいはできないという旅行者は、日本でモデルになったりホステスで稼ぐ者もいる。旅行者にとって、日本はそういう場所でもあった。1990年代あたりまで、日本は西洋人が簡単に仕事にありつけるほぼアジア唯一の国だった。タイにも、もぐりの英語教師はいた。香港でホステスをやっていたイギリス人も知っているが、全体からみれば少数だ。稼ぐなら、やはり日本だ。そして、「西洋人なら、日本の女はすぐにやらせる」という噂が流布していた。うまくひっかければ、宿・飯・女付きのヒモとして住み着くという手もある。

 1990年前後の数年間、上野公園周辺には、偽造テレフォンカードを売るイラン人が列をなしていた。私は、そこでイラン音楽のCDを買ったことがある。イラン人は日本に仕事を探しに来ていた。ちょうどその時代に、露店で稼ぐ別の外国人たちが多数いた。安物のアクセサリーやインドあたりの雑貨を路上で売っていたのはイスラエル人旅行者だった。イスラエルには男女ともに徴兵制があり、兵役を終えると、貯めた給料を持って戦友たちと旅に出る。東南アジアでは、ラオスカンボジアベトナムにはまだ自由に旅行できなかったし、ミャンマーは短期間しか滞在できない。マレーシアやインドネシアのようなイスラム教国には入国できない。そこで、「入国しやすく、ある程度長期間滞在できて、しかも稼げる」という理由で日本行きを決めたのだろう。

 日本に来る途中で路上で売る商品を仕入れて来たのかと思ったが、どうやら日本に元締めがいて、そこから材料を買って商売していたらしい。ベニヤ板で作った画板のようなものを広げると、偽ブランドの腕時計だったことがある。商品は、たぶんタイか香港から仕入れたのだろう。画板のようなケースに入れていたのは、警察の姿を見たら、画板をたたんですぐに逃げられるようにするためだ。じつは、ヨーロッパをぶらぶらしていた日本人も、こういうテキヤ商売か、針金で名前を書いてブローチにするという商売もあった。通称「針金屋」は、70年代からあった。1975年の那覇の路上で、この針金細工をなりわいにしている若者と知り合った。那覇はまだ針金細工屋がそれほど多くなく、「笑っちゃうほど儲かる」と言っていた。用意した針金はすぐになくなり、日帰りで東京に仕入れに行ったという。この針金細工は、手先が器用な日本人旅行者の専売らしかった。

 1990年代半ばの日本は、バブル崩壊で外国人は仕事が探しにくくなり、入管の規制も厳しくなって、イラン人もしイスラエル人の露店も見かけなくなった。

 ここからは私の想像だが、日本の居心地が悪くなったイスラエル人旅行者は、物価の安いタイで過ごすことにしたのではないか。イスラム教のマレーシアやインドネシアには行けないが、タイだけでも充分楽しめた。そのイスラエル人旅行者たちが、ほかの国の旅行者がいない地区にたむろしたのが、バンコクのカオサン地区ではないか。安宿やイスラエル人用の食堂ができていくというのが1990年代だ。イスラエル人旅行者の基地が日本からカオサンに移動したのではないかというのが、私の想像である。

 ユダヤ人がタイで最初に作った宗教施設は、なぜかカオサンで、1994年だった。以後、タイのユダヤ人コミュニティーはカオサンが中心になる。つまり、カオサン安宿街ができる前に、カオサンは小規模のユダヤ人街になっていて、そこにイスラエル旅行者が安宿とユダヤ教徒用の料理を求めてやって来たというのが、私の想像だ。カオサンを取り上げる観光学者はいくらでもいるようだが、ちゃんと調べた学者はひとりもいない。

 

 長い旅を終えて帰国した者の多くは、髪を切り、ひげをそり、スーツを着てビジネスの世界に戻っていくのだが、なかにはそのまま旅の生活を続けたいと願う者もいる、文字通り、そのまま旅を続ける者もいたがそれは少数で、多くは「旅を感じることができる環境で生きていきたい」と思っていた。輸入業や世界雑貨店、食堂や喫茶店経営、写真家やライターや編集者、デザイナーや出版社経営、旅行社経営、ゲストハウス経営などを手掛けながら、旅を感じている。

 『世界ケチケチ旅行』の編著者は、長い旅行の末に西洋アンティック輸入業者になったという話は前回した。『アジアを歩く』の著者は、ライターの後旅行社を経営した。『旅の技術 アジア篇』の著者のうちふたりは、大学教授になった。さらに言えば、『お前も来るか!中近東 一日一弗の旅』の著者のひとり、森本剛史はガイドブックライターのあとインターネット古書店の経営をやり、大型書店の旅行書担当者を務めた。もちろん、『地球の歩き方』の編集者やライターたちも、「旅行者あがり」だ。