2115話 旅行記を考える 2

 客観的な「良い旅」とか「悪い旅」とかいうものはない。旅するその人が「良い旅」だと思えば、それがたとえ不道徳であれ違法であれ、その人にとって「良い旅」なのだ。このあたり、幸福感と似ているかもしれない。誰かの旅を、「あんな旅はつまらん」と思っても、自分はそういう旅はしないというだけのことだ。他人の旅を批判する気はないが、それが旅行記・紀行文となれば、不満はある。

 旅行記というのは、基本的には「行ったど~!」という報告文なのだが、それがどのような文章で表現されるかが問題だ。「サハラ横断」とか「極北紀行」といった旅行地の事情は、私にとってどうでもいい。少年期から、いわゆる探検記のタグイを読んでいない。スコットもアムンゼンもリビングストンも読んでいない。「決死の冒険行」というようなものに、そもそも興味がないのだ。その理由は、多分、人が住んでいない地域に興味がないということと、集団移動が好きではないからだろうと推測している。

 旅行先が大阪市生野区でも東京都北区であれ、すばらしい文章でつづられていれば、それでいい。あるいは、それがいい。だから、「行ったど~! 撮ったど~!」だけの旅行記はつまらん。特に非難する理由がなければ、無視するだけだ。

 前回『旅学的な文体』で紹介している本のリストを書きだしたが、それらは、ただの「行ったど~!」という文章ではない。観光名所をバックに記念撮影という旅行記ではない。この本と同じ主旨で、「21世紀に出版された本の中から選べ」という要請があったら、はたしてこれだけの質を保った旅行記を選ぶことができるだろうか。リストにあがった著者のなかで、健在なのはつげ義春(1937年生まれ)だけだ。

 あくまで私の好みの話だが、すばらしい旅行記あるいは滞在記は、「いいなあ」と思える読後感の文章が詰まっているか、情報が詰まっているかのどちらかだ。例えば、妹尾河童の本だ。読もうと思いつつそのチャンスがなかったが、つい先日手に入れた『南インド見聞録』(井生明・春奈+マサラワーラー、阿佐ヶ谷書院、2014)も、その1冊だ。インドといえば、小林真樹さんの本もその仲間に入る。こういう本は、「行ったど~!」だけではとても本にならない。何度も旅して、眺め、見つめ、考え、調べてからでないと本にならない。そういう手間がかかっている本が、私の好みだ。

 文章力という点では、「そりゃー、当たり前でしょ」と言うだろうが、開高健金子光晴三島由紀夫(『アポロンの杯』も収載した『三島由紀夫紀行文集』が岩波文庫になっている)の3人は、ずば抜けている。もちろん、私の好みが基準だが、現代の「文豪」たちは、そのレベルに達している旅行記を書いているだろうか。

 「2時間で読み終える本が、いい本だ」という人もいるだろう。気軽に読める本が好きという人がいるだろう。それは好みの問題だから、私がトヤカクいう筋合いではない。チラチラとテレビを見ながら読んでいても内容がわかる文章というのも、文の芸というもので、誰にでも書けるわけではない。軽い旅行記のように感じる本でも、著者はしっかり基礎知識を頭に入れてから書いているが、その知識を表には出さないという文体の人もいる。

 さまざまな旅行記があってもいいのだが、「みんな同じ」じゃ、つまらんと思うのである。