2116話 旅行記を考える 3

 たぐいまれなる文章力がないライターなら、調べて、考えて、文章にするしかない。ところが、旅本の世界に反知性主義のようなものがあるような気がしてならない。数十年前の旅行記には、調べたり考えたりしたものがいくらでもあったが、海外旅行が大衆化してから、旅行記の書き手は反知性主義になったのではないだろうかという気がしている。調べて、考えて、観察して、話を聞いて書くような文章を嫌う人たちが多いような気がする。

 かつて、旅行者に好奇心が満ち溢れていた時代があった。福沢諭吉の『福翁自伝』のアメリ旅行記部分など、好奇心の塊だ。昭和戦前期の東南アジア旅行記や滞在記を読んでいてつくづく感じたのは、著者たちの好奇心だ。例えば『東印度の土俗』(三吉朋十、日本公論社、1943)、『南方の衣食住』(三吉朋十、朝日新聞社、1942)や『馬来語大辞典』(武富正一、旺文社、1942)、『南洋の生活記録』岡野繁蔵、錦城出版社、1942))など、いくらでもその例を挙げることができる。何でも知りたいという好奇心に満ちた人たちが書いた本だ。

 アジア文庫店主の大野さんが言っていたことだが、1990年代前半ころまでは、「アジアのことが知りたい」という読者の要望に応えた本が数多く出ていてある程度売れていたが、実際にアジアに出かける人が増えると、アジアの小説類も含めて、そういう本は売れなくなり、アジア文庫の売り上げが落ちて来たという。アジアに出かける日本人が増えると、アジア関連書籍の売り上げが落ちたのだ。

 タイに行く人が10倍に増えたからといって、タイ関係書が10倍の売上げになるとは思っていないが、ガイド以外の本が、まさか今までよりも売れなくなるとは思わなかったという。「知りたい!」が、一気に「行ったど~!」に変わったのだ。

 韓国に出かける日本人が急激に増えていることに対して、ある人は「今の日本人は過去の日韓関係にこだわることなく、韓国に出かけて行くのはすばらしい」と語っていたが(同じ発言は少なくない)、「過去の日韓関係」をよく知らないのだから、こだわりようがない。そして、日本人が「過去にこだわらず」などと言ってはいけないということもわかっていない。

 もうだいぶ前の話だが、韓国旅行をした大学生が旅の感想を言った。

 「驚いたのは、日本語がじょうずなお年寄りがいるんですね。日本語学校に通っているのかもしれませんが、発音などちゃんとしていて、驚きました。みなさん、熱心に勉強なさっているようです」

 韓国の年寄りがなぜ日本語をしゃべるのか、その理由を知らない。こういうのも、「過去にこだわらず」と言うのか。