2350話 マレー紀行 2025 19 Jl.TAR(トゥンク・アブドゥール・ラーマン)通り 1

 クアラルンプールの繁華街としてよく知られているのは、ペトロナス・ツインタワーやKLタワーなどがあるKLCC(Kuala Lumpur City Centre)地域や、ブキット・ビンタンあたりで、東京でいえば渋谷、青山、赤坂、六本木といった渋谷区港区あたりの地域だから、私の肌には合わない。高級ショッピングセンターがあり、高級ブランド店巡りなど、まったく興味がない。クアラルンプール市内地図を見ながら、「どこかおもしろい場所はないだろうか」と探していたら、Chow Kit Marketという文字が見えた。高級ショッピングセンターの食品売り場にうんざりしていたから、「市場」発見に心が躍った。場所は、Jl.Tuanku Abdul Rahman。JlはJalan(通りの略語)で、tuankuは「陛下」を意味する敬称。Abdul Rahmanはマレーシアの初代首相の名前である。長い名前なので、省略形はJl.TAR。その通りを北上すれば、市場にたどりつく。

 この長い名前の通りを久しぶりに歩き始めた。かつて、この通りでしばらく過ごしたことがあった。1987年だった。そこでの滞在が始まるまでに、じつに長いプロローグがある。

 話は1970年代半ばから始まる。そのとき私は銀座の中国料理店でコック修行をしていた。同い年の同僚がいて、仲良くしていた。その同僚は以前の勤め先で知り合った男と同居していた。仕事に就いてしばらくすると、彼らのアパートに遊びに行くようになり、同僚が店をやめた後も、その元同居人とのつきあいは続いていた。

 ある時、彼から電話があった。台湾人留学生と知り合ったので、中国語の個人授業を受けることにしたが、1対1だと気づまりがするし、謝礼の負担も大きいので、いっしょに勉強しないかという誘いだった。彼は、中国語に格別の興味があったわけではなく、仕事だけの毎日に刺激と教養を与えようという発想だったらしい。

 そういういきさつで、彼のアパートで毎週日曜日に中国語教室が始まった。2か月くらいやっただろうか。その教室は講師の都合でなくなり、私は中国語の勉強をやめたが、彼は中国語学校に通い勉強に本腰を入れた。それでも満足できず、仕事をやめて台湾に留学した。そのころ私はコックをやめて、旅行者に戻っていた。

 彼が台湾に渡って1年ほど過ぎたころだったか、手紙をもらった。留学生仲間の中国系インドネシア人と結婚することにした。日本の地元でちょっとした結婚式をやったあと、ジャカルタで本格的な結婚式を行なうという計画を聞いた。

 数か月後、ジャカルタから電話が来た。結婚式の日程は決まったのだが、日本の両親がここまで来る手順が両親だけではできないので、悪いが添乗員をやってくれないかという依頼だった。結婚式は3日間続くのだが、新郎は新婦側親族の対応に忙しく、自分の両親の世話をする暇がほとんどない。だから、話し相手や世話係を務めてほしいというものだった。知り合いの旅行社に依頼して、両親の航空券といっしょに私の航空券も購入するので、「よろしく」ということだった。

 ジャカルタでの長く続く結婚式の間にぽっかり空いた時間ができて、新郎となった友人と久しぶりにゆっくり話をした。彼は、「先日、初めて聞いたんだけど、彼女の父は・・・」と義父の話を始めた。

 義父が故郷の中国福建省を出たのは、まだ子供だったころだ。姉ふたりはすでにシンガポールに渡り、仕事をしているから「お前も来い」という。シンガポールの港に迎えに行くから、安心して来いと言われた少年はたったひとりで船に乗った。船に乗っていれば何もしなくてもシンがポールに着き、新しい生活が始まるはずだった。

 船がシンガポールに間もなく着くという時、戦闘が始まった。日本軍がイギリス領になっているシンガポール空爆したのだ。1941年12月だった。船はシンガポールに寄港することができなくなり、海上でようすをうかがっているうちに空襲はひどくなった。ジャカルタへの寄港も危ないという判断で、船はジャワ島のスラバヤを終着港と決めた。福建省から来た少年は、何の縁もないスラバヤで、ひとり放り出されたのである。