2351話 マレー紀行 2025 20 Jl.TAR(トゥンク・アブドゥール・ラーマン)通り 2

 インドネシア(という国はまだなく、「オランダ領東インド」だったが)の港町スラバヤで放り出された少年は、乗客の助言で、福建省出身者の互助会である福建会館を訪ねた。同胞からすぐに住み込みの仕事を世話してもらい、そのまま働くことになった。生きていくことに必死で、日本と戦闘状態に入ったシンガポールの姉たちがどうなったのか調べようもなく、ただ時間が過ぎ去った。

 少年は仕事の技術と商売を覚え、ジャカルタに出て製菓業を始めた。立身出世物語になるほどの大成功を収めたわけではないが、広い家に住み、工場を持った。ある程度の財力は身に着けたが、成金風になることは決してなく、いつも白い半袖シャツを着て、工場で油まみれになっている。私と会った結婚式の前も後も、そういう姿だった。

 娘に中国語教育を受けさせようと思ったが、その当時インドネシアで正式に中国語教育が受けられるのは、国立インドネシア大学だけだった。娘は学部を終えて大学院に進み、台湾に留学したところで、日本人に出会い、結婚することになったというわけだ。

 娘は高校時代から、実質的に会社の経営経理を任されて、働いてきた。有能な経営者でもある。だから、日本人と結婚して日本で生活するという選択肢はなかった。夫となった日本人は、仕事をやめてインドネシアに来た。「これから仕事を探すよ。何もやらなくても経済的な心配はないといわれても、『じゃあ、遊んでいるか』というわけにはいかないしね」

 結婚式は、さすがチャイナ・コネクションである。インドネシア国内はもちろん、シンガポールやマレーシア、そして香港などから親族がやって来た。私が比較的よく話をしたのは、マレーシアに住むリム(林)兄妹だった。兄は「中国語学校に行ったから、英語は得意じゃない」といってあまりしゃべらなかったが、妹の方は達者な英語でよくしゃべった。明朗快活な人だった。友人が言う。

 「林小姐(リム・シャオチェー。英語ならミス・リムになる)と結婚して、クアラルンプールでいっしょに食堂をやるというのは、どう? 日本で中国料理をやっていたんだから、マレーシアでやってもおかしくないでしょ。いわゆる「南洋のオヤジ」ってのが、いるでしょ。店の前に椅子を持ち出し、新聞を読んでいるオヤジ。半ズボンでランニングシャツか半袖シャツ。しばらくすると、近所のオヤジが来て、出かける。お茶と点心。街や知り合いの噂話をして、カミさんにガミガミ言われても、また翌日には同じようなことをしているオヤジ。そういう人生も悪くないとは思うよ。どう?」

 「南洋のオヤジ」という人生にも、林小姐と結婚してマレーシアで暮らすということにも魅力は感じなかったが、友人の両親をインドネシアから送りだし、インドネシアの取材を終えたら、いずれマレーシアに行く予定だった。そのころ、東南アジアの食文化の本を書こうと思っていた。林家はクアラルンプールで食堂をやっていて、上の階は宿もやっているという話を聞いたのを幸いに、、クアラルンプールでその店を訪ねてみようと思った。そのころ、のちに『東南アジアの日常茶飯』(弘文堂、1988)としてまとまる食文化の本の取材をしていた。自分の企画で、取材費も自分で作ったのだが、具体的な出版計画はまったく決まっていなかった。知りたいことはいくらでもあり、知っていることはわずかしかなかった。