2353話 マレー紀行 2025 22 Jl.TAR(トゥンク・アブドゥール・ラーマン)通り 4

 この店は、林(リム)きょうだいの両親が創業したもので、母親の弟が、ジャカルタの友人の義父にあたる。シンガポールで弟が来るのを待っていた姉だ。店の2階はホテルになっていて、当然宿代を払おうとしたが、これまた当然受け取らない。それどころか、友人の義父にとってクアラルンプールに住んでいるもうひとりの姉の長男と次男も、私の接待にやってきて、「今夜は私が夕食に案内します」と連日宿に迎えに来た。

 林家の兄弟は店の仕事が忙しく、日本人の客を接待できないから、いとこに連絡をとったようだ。いとこのふたりとも、ジャカルタで会っているから、初対面ではない。

 友人の妻のいとこは、私とほぼ同じ年齢だ。食事中にいろいろ話したことのひとつは、こういうものだった。。

 「2年前だった。仕事でジャカルタに行ったんだ。昼間は商売の話をして、夜は飲みながら世間話をしていた。その雑談の中で、行方不明になっている母親の弟の話をしたんだ。話相手はみんな福建出身だから、移住の辛さはわかるだろうと考えて話題にしたんだ。すると。『その人物の名前は? いつ中国を出たの? 詳しい出身地は?』という話になった。その翌日に会うと、『あんたのおじさんの住所がわかった。すぐに電話してみたらいい』と、電話番号を渡された。それで、おじさんが生きていたんだとわかり、すぐに電話して、クアラルンプールの姉の息子だと伝え、ウチの電話番号を伝えた。母とその弟は、40年以上たって消息が分かり、話ができたっていうわけさ。生きているとわかっていたら、もっと早く探したのに、どこかで『もう、とっくに・・・』という諦めがあったんだろうな。1930年代末に中国で別れて、それ以後音信不通だったんだから」

 その別離の原因が日本にあると口にした人は、この一族に誰ひとりいない。

 夜は食事をしながら、一族のそういう話や、マレーシアのもろもろの話をした。

 昼間は食文化の調査をやっていた。

 食堂の奥にある厨房で、コメの炊き方を取材した。タイと同じように、コメをゆでて、湯を捨ててそのまま蒸しておくのかと思ったが、違った。コメをゆでて、蒸し器に移してしばらく蒸す。これは中国南部やインドネシアのコメの炊き方でも同じだ。と言っても、地域や民族によっても違いがあるから、これがマレーシア式とかインドネシア式という決まったひとつの炊き方はないようだ。

 厨房でコメを炊いていたのは、インドネシア人のコックだった。炊飯や食材の下ごしらえはインドネシア人スタッフが担当している。

 「インドネシアの自宅では、コメはどうやって炊いているの?」と聞くと、

 「日本人と同じさ」という答えだった。

 「どういうこと?」

 「電気炊飯器さ。ゆでて、蒸してなんて、めんどうなことはやらないよ、もう。ウチじゃあ、スイッチを『ポン』さ。それだけ」