マレーシアを旅していて、「ああ、マレーシアにいるな」と実感するのは、街で”tandas”という表示をよく見るからだ。タンダスはマレーシア語でトイレだが、インドネシア語では”kamar kecil”という。カマル(部屋)クチル(小さな)という意味の婉曲表現だ。もともとこの地域にはトイレなどなく、川や海や林など家の近くで用を足していたのだが、トイレなるものを作るようになって「小さな部屋」という単語が生まれたのだろう。婉曲的な表現では、kamar mandi(水浴び部屋)ともいう。インドネシアでは街での表記に”WC”(ウェーセー)も使う。
WCを、AIは「和製英語」だと知ったかぶりをしているが(誰かが書いた情報をコンピューターが信用したということだろう)、19世紀初めのイギリスでWater Closetの略語として使われ始め、水洗トイレの普及とともにヨーロッパに広がったようだ。
ちょっと解説をしておくと、「ベルサイユ宮殿にはトイレがなかった」という解説をよく見るが、当時のヨーロッパはオマルを使う文化だから、どこに家庭にもトイレはなかったのだ。貴族階級はオマルと同時に、室内便器を衣裳部屋(クローセット)に置いていたから、そこがトイレとしても使うようになった。イギリスで水洗トイレが発明されて、トイレという場所ができた。WC(ウォーター・クローゼット)とはそういう歴史的用語だ。トイレ(toilet)は化粧用の布が転じて化粧台、そして化粧室の意味になっていたフランス語で、のちに英語圏でも「トイレ」の意味として使われるようになった。そして、フランスでは表記としては英語からWCあるいはW.-C(発音はどちらもヴェセ)を使う。
インドネシアの”WC”はオランダ語からの借用で、いまでもオランダでは”WC”という表記を使う。私はイタリアでも見た。日本でも1970年代にはまだ残っていたが、その後はイラストで表記するピクトグラムに変わっていった。
その昔、クアラルンプールでマレーシア映画を見た。インドネシアの少女が、母の国マレーシアを訪問するというシーンをよく覚えている。母の実家に着いて、「すいません、Kamar Kecilはどこですか?」と聞くが、マレーシア人は理解できず、「それ何?」というやりとりがあった。映画を見ている観客は外国人である私を含めて笑っているので、実際にはそんな単語が通じないということはないのだが、カルチャーギャップ・ジョークにしていたのだ。とはいえ、日本人のインドネシア語研究者が、その映画のようにマレーシアでtandasがわからず苦労したという思い出話を書いていて、驚いた。『インドネシア語の中庭』(佐々木重次編著、Grup sanggar、2001)というインドネシア語研究者雑談集に載っていた話だ。
マレーシアやインドネシアのトイレを表す語の紹介はガイドブックにもあるのだが、私はtandasの語源を知りたい。書棚から『馬来語大辞典』(旺文社、1942)を取り出す。興味深い記述がありそうだ。長くなるので次回に続く。