1133話ダウンジャケット寒中旅行記 第17話

 イワシ料理

 モロッコのタンジェのある日、昼飯に何を食べようか考えながら散歩していると、食堂のガラス戸越しにイワシフライが目に入った。料理人は、イワシをあげているところで、カウンターのステンレスの大皿に、熱々のイワシフライを積み上げている。これで、決まりだ。地中海岸の食事は、イワシを食べないと始まらない。イワシだけでは寂しいので、ピラフ状と言おうか、それともパエリャ状と言ったらいいのか、カウンターにのっていた米の料理も注文した。
 テーブルに登場したイワシは、大盛だった。ひとりでは食べきれないなあと思っていた時に、おっちゃんと相席になったので、ジェスチャーで「イワシを、どうぞ」と手で示した。おっちゃんは、うんうんとうなづきながらイワシに手をのばした。イワシを左手に持ち、右手親指を腹に差し込み、骨と身を分けている。イワシの手開きという技術だが、これがモロッコ式の食べ方だったなとフェズを思い出した。その日のことは、このアジア雑語林の651話に書いた。
 モロッコでは、イワシは骨を外して食べる習慣があるらしいと思い出したのだが、小イワシごときの骨など一向に気にならないので、フェズでもタンジェでも、私は頭からむしゃむしゃとかぶりついた。

 イワシフライのソースは赤いが、辛くない。水をポットでくれるのはありがたい。この写真を撮ったすぐあと、おっちゃんが向かいの席に座り、ジェスチャーで話しつつ食事をした。おっちゃんは自分が注文したフライドポテトを私に勧めた。
 
 マドリッドの食堂でもイワシを食べた。酢漬けのイワシは何度も食べているが、これは格段にうまかった。私はイワシの種類にうといのだが、モロッコで食べたイワシは細身なので、カタクチイワシかもしれないが、マドリッドで食べたイワシは肉厚なので、ヨーロッパマイワシ(Sardina pilchardus)かもしれない。その店の親父は、ほかに客がいないヒマな時間だったせいか、何も聞いていないのに「私、スペイン人じゃないんです。ポルトガル人です」と自己紹介してきたので、ポルトガルの話をした。私が大好きな街ポルトの出身だというので、ポルトの話と、ポルトガル人のソウルフードである塩タラの話をした。私が、塩タラをBacalhauとポルトガル語で言ったのが気に入ったのか、話が弾んだ。
 注文したイワシの酢漬けがあまりにうまいので、私にとっては極めてまれなことだが、「作り方を教えて」と頼んだ。
 「イワシを酢に漬けて、一昼夜置く。取り出したら、みじん切りにニンニクとパセリをふりかけ、オリーブオイルをかける」
 「それだけ? 塩は?」
 「酢といっしょに。日本で作るの? でも、うまく行かないと思うよ。日本のイワシは大きすぎるから」
 そうなのだ。日本で何度か試みているが、うまくない。日本のマイワシはスペイン風にするには大きすぎるのだ。このおっちゃんは日本旅行をしたことがあるらしい。この店のイワシは生臭みがまるでないので、酢にレモンを加えたかもしれないと思ったが、「レモンはまったく使っていないよ」とのことだった。それなのに、なぜほかの店のイワシよりもうまいと感じたのかがわからない。
 物価が高いから、毎日、貧しい食事になりがちだが、たまにはちょっとカネを使って、こういう食堂で雑談をしながら食事をする程度の資金力は持っていたい。節約するために旅行しているのではないし、誰とも話をしたくなくてひとり旅をしているわけでもないのだから。


 特別にうまいとは思っていなかったから、食べる前に写真を撮らなかったのだが、食べてみれば、うまい。もうひとつ、うまい。「よし、写真だ」と思ったときには、ふた切れしか残っていなかった。私の食べ物写真には、こういうことがしばしばある。見た目だけが重要ではないからだ。