2075話 続・経年変化 その39

読書 15 建築 4

 タイで、建築のことをあれこれ考えていて、音楽と同じなんだと気がついた。日本の明治維新にあたる社会変革期は、タイでもほぼ同じ時代だった。現在のチャクリー王朝は1782年から始まるが、近代化が始まるのはラマ5世時代の1868年からだ。これは、日本では明治元年だ。

 タイに西洋文明が入ってきた。タイに入ってきた西洋の音楽や建築に、タイ人はどう対応したのかというテーマは、明治の日本人と同じなのだ。音楽では、西洋音楽のメロディーにタイ語の音韻をどう合わせるか、声調(音の高低)と音階の違いをどうするかといったことを悩んだ。作曲など音楽理論は、雇った西洋人教師に学んだ。

 建築も、西洋人建築家を雇い、バンコクに西洋建築を作っていく。日本では、日本人の建築家が、西洋人と同じような建築物を設計できることがすばらしいという価値観があり、赤坂の迎賓館(迎賓館赤坂離宮。1909年完成)をピークとする。東京駅も、日本在住の西洋人建築家は、寺院の屋根を思わせるような日本的な建築を構想したのだが、「日本風はみっともない。西洋風がすばらしい」という当時の価値観が勝ち、ヨーロッパの駅舎を東京に作った。

 バンコクの王宮にあるチャクリー宮殿の場合はどうかと調べたことがある。西洋の宮殿にタイ寺院の屋根を付け足したような建物だ。完成までのいきさつは日本と違った。雇われた西洋人の建築家が、西洋の宮殿そのままのスタイルで設計したのだが、王室の保守派から反対されて、タイと西洋の折衷建築になったという。イギリス人建築家ジョン・クラニッシュが西洋の宮殿そのままに設計したかったのか、あるいは王室の西洋派が「西洋そのまま」を希望したのかというあたりは、残念ながら調べがつかなかったが、わかったことは『タイ様式』講談社文庫、2001)書いた。この文庫は、私の建築本である。

 西洋文明とアジアというテーマでいろいろ調べていくと、わかってきたことが多い。アジアでは、西洋文明はまず「マネ」から始まる。「西洋人のようにできる」「西洋人に認められる」というところから始まるのだが、そこから自分たちの文化を認識するのもまた西洋人の目なのだ。音楽だって、西洋人と同じように演奏できることが賛美だった時代が長くあった。

 食文化がわかりやすい。アジアの飲食店誕生は、世界的に見ても中国がとびきり古く、『食卓の文化誌』(石毛直道岩波書店、1993)によれば、「前漢の中頃からすでに都市には飲食店がひしめいていた」という。「前漢の中頃」というのは、紀元前100年頃ということで、日本では弥生時代だ。日本で飲食店が出現するのは江戸中期で、それでも世界的に見れば早い。

 東南アジアでは、中国人経営の飲食店を除くと、飲食店はホテルから始まる。西洋人に西洋料理を出すレストランだ。しばらくすると、食生活にバラエティを持たせたいと思う西洋人居住者や観光客相手に、民族料理を出す店ができる。ポイントは、エキゾチシズムである。バンコクやチャンマイなどに多くあった「タイ古典舞踊を見ながらのお食事」というレストランシアターである。同様のものは、ジャカルタにもバリにもある。外国人観光客を受け入れ始めた1990年代初めのビエンチャンに登場したレストランも、そういうスタイルだった。高級ホテルを除くと、飲食店はほとんどなかった。

 タイ人もインドネシア人も、普段自宅で食べているような料理に大金を支払ってレストランで食べようとは思わない。ある程度の家庭なら、自宅に料理人がいるから、宴会は自宅でやればいい。だから、民族料理店は西洋人相手に始まり、なかなか普及しなかった。こういう歴史の例外が、古くから外食産業が生まれていた中国と日本である。

 現代建築において、日本人が意識的に「日本スタイル」を意識するのは、1930年代から始まる帝冠様式だ。鉄とコンクリートのビルに和風の屋根をのせたスタイルだ。この様式誕生のいきさつはいくつもあるが、そのひとつは国際観光ホテルの存在だ。外国人客を受け入れるホテルを、鉄とコンクリートを素材にしながら、和風にしようと考えたのだ。つまり、西洋人に見せるための「和風」である。

 これは、例えばタイ風の家でタイ風の服を着たウェートレスが給仕するタイ料理店と同じだ。バナナの葉を皿にして出すインドネシア料理店も、西洋人に見せる「インドネシア」だ。

 エキゾチシズムとナショナリズム。フジヤマ・ゲイシャ。

 建築学科の学生はほとんど読まない建築の本をこまめに読んだら、驚くほどおもしろかった。そのきっかけを与えてくれたのが、藤森照信石毛直道の両氏だ。ほとんど知られていないが、石毛さんも『住居空間の人類学』(鹿島出版会、1971)という建築の本を書いている。もしかすると、私が初めて読んだ建築の本がこれだったかもしれない。