1709話 東南アジアと日本の若い旅行者 その10

 日本人とタイ・フィリピン 下

 

 タイに多くの観光客が来たが、フィリピンは少ない。そこに、どういう違いがあるのだろうか。

 最大の違いは、1998話に書いたように、治安保全も含めたタイの観光政策の勝利だろう。フィリピンは、観光によってマルコス一派にカネが流れる仕組みを作っても、観光立国という発想はなかったのだろう。フィリピンの主要産業は出稼ぎである。政府が産業育成を考えず、出稼ぎ者の送金で国家経済を支えるという政策を選んだ結果、1960年代以降日本にもフィリピン人がやってきて定住していった。2020年現在で、28万人ほどで、在日外国人としては中国、韓国、ベトナムに次いで4位だ。出稼ぎの収入があれば、観光産業育成などメンドーなことは考えなくてもいいのだ。

 フィリピンとタイには、料理の違いもある。

 在日フィリピン人が増えて、日本人向けのフィリピンパブができても、フィリピン料理店はそれほど多くない。gooで検索すると、フィリピン料理店は全国に38店舗あるようだが、個々の店の内容を調べると、「東南アジア料理」とか「フィリピン・タイ料理」とか「カラオケ喫茶」などとある、どれだけのフィリピン料理を出しているかはわからない。在日外国人が増えると、その人たち向けの飲食店ができて、日本人客も増えてくるという法則なら、フィリピン料理店がもっと増えてもいいのだが、在日フィリピン人自身が、フィリピン料理を食べに行かない。自分で作れば、それでいいということらしい。この疑問をある在日フィリピン人に聞いたら、「フィリピンにもフィリピン料理の店は多くないんだ」と言った。1980年代までの私の記憶では、フィリピンには屋台がない。簡単な料理を出す食堂はあるが、もう少し上のレベルだと、アメリカ式のファーストフード店か中国料理店か、観光局向けの「エキゾチックなレストラン」があるだけだ。

 1990年代以降のフィリピンを知らないのだが、芸人ヒロシのテレビ番組「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」を見ていると、フィリピンにも食堂が増えていることがわかる。1990年代の日本には、ほんの数軒しかなかったフィリピン料理店が30店ほどに増えたという変化はある。1990年代の話だが、日本で不法就労をしていたフィリピン人が書いた『ぼくはいつも隠れていた―フィリピン人学生不法就労記』(レイ・ベントゥーラ、松本剛史訳、草思社、1993)に、日本で不法就労しているフィリピン人が行きたい店はマクドナルドだと書いている。貧しいフィリピン人のあこがれの店がマクドナルドで、日本で稼げば、あの店に行けるが、ガラス張りだから警官に見つかる危険もあるが行きたい、と書いている。フィリピン料理よりも、マクドナルドなのだ。

 別の言い方をすれば、日本人も含めた外国人にもタイ料理は魅力的だったが、フィリピン料理はフィリピン人にとってさえほとんどアピールするものがなかったということだ。

 興味深いことに、フィリピンの料理はスパイスはまり使わず、臭くも辛くもなく、多くの日本人に受け入れやすい料理が多いのだが、だからと言って日本人に好評ということにはならない。タイ料理は臭み(香り)も辛味も強く、ココナツミルクもなじみのない風味なのだが、日本人にも、ほかのアジア人にも西洋人にもタイ料理は好評なのだ。もちろん、外国人が喜んでいるタイ料理と、タイ人が家庭で食べている料理とはかなりの違いがあり、とくに農村の家庭料理を「おいしい」と食べるのは、ラオス人くらいだろうが、「バンコクのレストランの味」ということなら、外国人からの反応はいい。だから、世界にタイ料理店が広がっているのだ。

 1697話で書いた日本のタイ料理店の話は、ここでリンクする。多くの日本人がタイに行った理由のひとつは料理で、その効果は小さくない。

 1980年代に、日本でタイ料理を食べた経験から言うと、80年代前半は日本ではタイ料理の食材はほとんど手に入らなかったから、「本場のように」料理することは不可能だった。だから、いたしかたなく、日本風タイ料理を出していた。客の多くは旅行や駐在などでタイで食べた懐かしの味を求めて店に来ることも多かった。例えば、あるタイ料理店で食事をしていたら、近くの席にいる中年男性4人の会話に出てくるのが、タイに深くかかわり、私とも面識がある研究者やジャーナリストたちの名前で、悪い噂話にならなければいいなとドキドキしたのを覚えている。あのころタイ料理店に来たのは、タイをよく知る人たちだった。

 80年代後半になると、次第にタイから食材が輸入されるようになり、「本場の味」に近づけることがだんだん可能になってきたが、その風は逆に吹いた。タイ料理の噂が広まるにつれ、初めてタイ料理を食べる人が増えていったので、多くの日本人客を相手にするために、店によっては「より日本風化」が進んでいった。わかりやすい例は、ファミリーレストランなどの「タイカレー」だ。高級ホテルのレストランのメニューにも「タイカレー」があり、怖いもの見たさで注文してみた。「目黒のサンマ」であった。タイ人用なら1人用の香辛料を5人分に水でのばしたような味だ。「より日本風にする」というのは、スパイスやハーブの使用を控え、マイルドにするということと、美しい料理を出すということだ。タイ料理のビジネスは、これが成功した。

 乗りかかった船だ。次回にこの話を詳しく書く。