2065話 続・経年変化 その31

読書 7 図書館6 

 大学で講師をやることになって、役得のひとつは大学の図書館が自由に使えることだなと思った。講師1年目の4月、図書カードを支給されて、講師は学生よりも多くの本を貸し出し可能という説明を受けたが、本を借りることはあまりなかった。読みたい本がほとんどないのだ。

 まず、ガイドブック。観光学部がある立教大学新座キャンパスの図書館なら、旅行関連の資料はいくらでもあると思っていたのだが、書店に並んでいる旅行ガイドと同じものが並んでいるだけで、過去のガイドブックは廃棄処分にしていると知った。これは、とんでもない事だ。日本語のガイドブックでも、例えば中国旅行のガイドがすべて保存してあれば、外国人に開放された地域の変遷がわかる。物価や宿など、当時の取材力で載せることが可能だった旅行事情のすべてがわかる。

 19世紀の旅行ガイドブック、ドイツの「ベデカ」とイギリスの「マレー」は、主にヨーロッパ近代史研究者たちが大好きなテーマで、研究書もあり論文なら多数あるが、飛行機時代に入ってからのガイドブック研究を、私は知らない。

 1980年代末までの、ソビエト連邦のガイドが残っていれば、いくつもの情報が読み取れる。例えば、1985年ごろの東ドイツを知る資料はいくつもあるだろうが、ガイドブックなら同時代の事情がわかる。地図も参考資料になる。中国のように変化が激しい国の旅行ガイドなら、10年前のものでも歴史資料になる。

 そういう貴重な資料であるガイドブックを消耗品としか考えないのは、地方の小さな図書館ならいたしかたないが、観光学部がある立教の図書館でも「廃棄処分」とはなんたることか。知り合いの教授にそう抗議すると、同意していただき、ここ10年分以上は保存資料になっているそうだ、確認はしていないが。

 新座キャンパスの図書館で不満だったことはもうひとつある。私が知りたい「海外旅行史」の資料がないのだ。観光学というのは、私見だが、観光で利益を受ける企業や団体や地域のための学問で、旅行をする人たちの研究はおろそかだ。外国旅行を例にすると、航空会社や旅行会社がいかに集客に努めたかという資料はあっても、旅行者側の事情には言及しない。何をきっかけに旅行地を選んだのか。旅行の準備はどうしたのか。どういう物を旅行に持っていたのか。カルチャーショックはどうだったのか。食事に問題はなかったのか・・・と、書き出せばきりがない疑問が浮かんでくるのだが、図書館には旅行者側から見た旅行史の資料がないのだ。「日本人旅行者の歴史」がわからないのだ。

 しかたがないので、自分で資料を買い集めることにした。おもに1950~60年代の旅行記や旅行指南書を買い集めた。指南書というのは、通常のガイドブックではなく、パスポートの取り方などから始まる基本情報を書いた本だ。小説家など有名人の旅行記は戦前期のものから図書館にいくらでもあるが、無名の若者の旅行記は集めていない。

 1990年代に注目を集めることになるバックパッカーの前史となる資料も図書館は気にかけない。旅行会社や観光学者は団体旅行を見つめていた時代がまだ続いていて、いきなり「個人旅行の研究」といっても、前史がわかっていない。元JTB社員が書いた『パッケージツアーの文化誌』(吉田春生、草思社、2021)など業者側の人間が書いた本は何冊かあるが、その手の本には、業者が旅行者に無理やり買わせた土産物の話や売春など旅行業界の裏世界の話は一切出てこない。それが観光学研究の現実だ。

 図書館への期待は大きかったのだが、そういう観光学資料を集めた場所だからたいして役に立たなかった。ただ、ちょっと助かったこともある。アマゾンで見つけた英語の高い本を、内容がわからずに注文する勇気と財力がないので、一応立教の図書館の蔵書を検索するとヒットすることがあった。すぐさま実物を見て、必要な個所をコピーしたことが数回ある。例えば、この本。「Israeli Backpackers: From Tourism to Rite of Passage」(Chaim Noy、Erik Cohen)は、出版当時の2005年頃8000円か9000円くらいしていたと思うが、いまアマゾンで調べると、2万7540円だ。エリック・コーエンはバックパッカーの研究書が多く、どれもおもしろそうだが、数万円する。翻訳書はないようだ。ちなみに、rite of passageは「通過儀礼」。

 講師控室のパソコンはありがたかった。自宅で調べものをしていて、そのテーマの重要資料が論文となって発表されていることを発見する。短いものならすぐに読むが、60ページとか80ページと長いものだとモニターで読む気がしない。だからと言って、いちいちプリントしていたら、たちまちインクがなくなる。そこで、講師控室のパソコンとプリンターを利用させていただいた。

 立教大学から受けた恩義は、この講師控え室か。