明らかな詐欺電話が何度もかかってくる。267で始まる電話番号を調べたら、発信元はアフリカのボツワナ。電話代を有料にすればいいのに。本当の発信先は、タイかラオスか、カンボジアか?
更新直後にかかってきた電話は、またしても「NTTの電話が使えなくなります」詐欺。こんどは60で始まる電話で発信地は、一応マレーシアだが、本当は中国か?
さて。
AIを積極的に使おうとは思わないが、グーグルで検索すると、真っ先にAIの解答が出てくることがあり、消極的に読んでいる。そのAIの解答がかなり怪しいという話は以前にも書いたが、世間ではAIのインチキさよりも利便性の方が重要視されていて、批判の声は大きくないように思うのだが、AIをあまり使わないわたしでも、「これはおかしい」と思うことがいくらでもあるのだ。
つい先日見た映画で、わからないことがあった。主人公は離婚してひとり暮らしをしているのだが、離婚の理由がわからない。おそらく、ちょっとしたセリフで離婚理由が語られたのだろうが、聞き逃したようだ。
インターネットで映画のあらすじなどを調べてみたが、わからない。そういう調査をしていると、AIの解答が出て来た。「離婚したのではありません。死別したのです」。すぐさま、「ウソも休み休みいいなさい!」と反論した。元夫婦の共通の友人の葬式で再会して、ちょっと言葉を交わしているのだ。すぐさま「もうしわけありません、こちらのミスです」と低姿勢のAIは返事をするのだが、これは変だ。AIはネットの情報を集めて、情報量の多いものを「事実」として報告するというシステムになっているのだが、「妻はすでに死んでいる」といった情報はまったく見つからないのである。
熊本地震義援金のことは初めからAIに聞いてみた。ニッポン放送がやっている義援金受付けは、三菱UFJ銀行本店宛てに送金する、「振込手数料はご自身負担で」という案内を読んで、それじゃあ、銀行は丸儲けじゃないか。災害が大きくなればなるほど銀行は儲かるというシステムは、「火事場泥棒と同じじゃないのか」というようなことをAIに聞いてみると、その回答は「銀行のシステム維持管理に費用がかかるので、無料ではできません」という。「でも、銀行に大金が振り込まれる。手数料は経費ですべて消えるなんていうことはあるのか?」と聞くと、あれやこれやの屁理屈を並べる。「結曲、銀行の回し者の発言しかできないんでしょ?」
「はい、そのとおりです。ネット上には銀行側の情報がいくらでもあるので、そういう情報を集めると、銀行の立場を説明する回答になります」と正直だ。しかし、それなら上に書いた夫婦の離婚を死別と書いた理由がわからない。そう言う情報が流布しているわけではない。
ちなみに、TBSなどJNN・JNR共同災害募金は、「三菱住友銀行などは振り込み手数料が無料になる場合があります」という。無料にならない場合は、営業時間外や他銀行からの振り込みの場合だそうだ。おそらく、振込手数料を有料・無料に分けるシステム設定に時間と費用がかかるから、すべて有料のままにしているのだろう。
災害義援金とはまったく違う態度の回答だったのが、日本テレビの「24時間テレビ」批判だ。「市民がカネを寄付し、テレビ局と製作スタッフと、広告代理店、芸能プロダクションと芸能人が稼ぎまくる番組でしょ」という質問に対して、先ほどの銀行側に立った弁明とは違い、日本テレビ側の説明は出てこない。批判は、いくらも出てくる。ネットに批判の記事が数多くあるからだ。
「批判を浴びながらもいつまでも番組を続ける理由は、この番組が莫大な収入を生み出すからです」というAIの回答は正解だろう。つまり、AIには日本テレビ側の「美談・涙物語の大セール」よりも、声の大きさでは批判の方が多く集まっているということだろう。高校野球が始まると、マスコミは選手やその家族に死んだ人がいないか探し出して、「涙と感動のゲーム」を演出する。それを喜ぶ人が多いから、この「感動ポルノ」は続くのだ。
お涙と善意で稼ぐテレビ局
批判があっても、絶対にやめないのは、ほかに通販番組がある。あれはCMだろうといわれても、「いえ、番組です」と居直るのは、莫大な収入源だからだ。儲かれば、何だって理屈をこねてやるんだ。
*白黒写真をAIの力で動画にしたものがネットにあふれている。で、気がついた、AI動画の欠点は文字だ。看板や書類などが、簡単に作れないのだ。浅草を歩いている動画でも、商店の看板や張り紙が何語でもない文字なのだ。AI動画はまだまだだ。しかし、驚くのは音楽動画で、歌手も歌声もAIで、カバーだから既成の歌をAIにアレンジさせて歌っている。AIだから、達者な歌だ。存在しないアイドル芳賀ゆいでも、歌は歌手が歌っていたが、今のAI歌手は姿も歌も架空なのだ。実在しないイラストレーターはいる。同じく、実在しない小説家もきっといるだろう。
2460話 中国旅行 2
中国は改革開放の時代に入っていた。制限は多いが、中国観光旅行もできるようになった。1回目の上海旅行はまったく自由がなかったが、個人で街歩きができるという情報が入り、2度目の上海旅行を企画した。上海で生まれ育った母の妹たちもそのツアーに参加することになった。
2度目の上海は自由に街を歩けるようになったので、上海育ちの姉妹は「昔の我が家」があった四馬路に行った。商店の業種は変わっても、街の建物は戦前のままだから、昔の記憶で歩ける。「旧我が家」はすぐに見つかった。もちろん誰かが住んでいる。あのころの中国だから、上海と言えども外国人が街を歩いているだけで、人が集まって来た。観光地でもない場所で、外国人が立ち話をしていると、すぐさま人だかりが起きた。自転車と人民服(中山服)の時代である。
姉妹3人が、旧我が家の前で話をしていると、声をかけて来た人がいた。日本語だった。その人は、祖父がやっていた薬局で働いていた少年だった。勉強熱心で、日本語の読み書きしゃべる能力に優れていて、じつにまじめに働いていた。その少年が今もすぐ近所の同じ場所に住んでいた。「すぐそこで、外国人が路上で立ち話をしている」という情報が耳に入り、もしかして知っている人かもしれないとすぐさま来てみれば、「薬局のお嬢さんたちだった」という奇跡的な再会だった。
「本来なら、うちに来ていただき、お茶や食事を差し上げたいのですが、そういうことはできないのです。申し訳ない」と言った。独学だが、そういう日本語が話せるというから、勉強熱心な少年時代だったようだ。外国人と親しくするとスパイなどと疑われた時代だから、旧交は連絡先を交換しただけの立ち話で終わった。外国人を自宅に招くことは禁じられていた。外国人が、昔お世話になったからと持ってきたお土産受け取ったと、隣人が通報し公安が動いたという時代だ。外国人は厄介者だった。ねたみと猜疑心があった。
それから数年後、その元少年(じつは母は彼の名前何度も口にしていたのだが、私はまったく覚えていない)から手紙が来た。「かつてあなた方が住んでいた辺り一帯が再開発のために取り壊されることになったから、見ておくなら今です。昔と違って、今は皆さまを我が家に招待できます」という文章だった。
母は妹たちに声をかけ、また上海に行くことにした。今度は北京も加えたツアーで、私の姉も参加することになった。「あの時、行っておけばよかった」と思ったのは、その時の旅だ。母が十数年すごした上海を見ておけばよかった。上海人のガイドがいて、家に招いてくれたというから、訪問しておけば楽しかっただろうなと思ったのは、だいぶ後になってからだ。
母からは、上海時代の家の構造を聞いた。2階建ての、店舗併用住宅の長屋だ。一階は店と、小さな部屋。そこで、店番をしながら食事をした。中二階があって、倉庫にしたり従業員の部屋に使うこともあるらしい。2階が寝室だ。風呂場はないから、日本人は裏庭に小さな風呂場を作っていた。こういう情報は、バンコクの中華街の店舗併用住宅の構造とそっくりだったので、「そうか、中国人の住宅か」と納得した。母から聞いた話だけでなく、上海で実物を見ながら解説をしてもらえばおもしろいに違いない。
3度目の旅が最後の上海旅行となったが、元少年とのつきあいは続いていた。彼は退職して年金生活に入り、釣りが趣味になった。そこで、こういう糸を日本から送ってほしいという手紙が届いた。その役目は私が担当することになり、手紙を読んだ。じつにすばらしい、ちゃんとした日本語の手紙だったが、私は釣りのことはまったく知らないので、釣り具店に手紙のリストを見せて、商品をそろえてもらった。この機会にたっぷりほしいと思ったのだろう。かなりの金額になった。
釣り糸を送ってしばらくたって、上海から重い箱が届いた。なかに月餅がぎっしりと入っていた。鹹蛋(咸蛋、アヒルのタマゴの塩漬け)など豪華な具が入っていた。月餅はそれまでにも食べたことはあったが、いままで口にしたものとはレベルが違う豪華さであり、うまさも格段だった。それ以後、横浜中華街やバンコクの中華街で月餅を見つけたら買ってみるのだが、魚肉ソーセージとイベリコ豚のハムくらいの違いがある。
送った釣り具が安くはないということはわかっているから、その返礼に年金生活者にはかなり高額な月餅を選んだのだろう。
その後も母や母の妹たちと文通が続いたようだが、どういうやりとりがあったのかは知らない。母もその妹たちも、あの頃の母たちの故郷も、すべてこの世から消えた。おそらく、あの元少年も。
インターネットで、上海市発行の上海史資料が読める。拾い読みをしていたら、戦前期の日本人経営薬局リストというのがあって、祖父がやっていた薬局の名と住所が載っている。その薬局のすぐそばに内山書店があり、日本語の本を求めて祖父がよく出入りしていたそうだ。
2459話 中国旅行 1
中国を旅行したいと思ったことはないが、過去に1度だけ、「行っておけばよかった」と思ったことがある。その話を始めるには、1970年代後半に戻らないといけない。
その年、特にあてもなく日本を出た。バンコクの旅行社で格安航空券のリストを見て、どこに行こうか考えるという旅だった。成田空港はまだなく、羽田の時代だ。着席後すぐに、搭乗口付近に置いてあった新聞を読んでいる間に離陸した。
新聞の中ほどに、さまざまなイベント案内の欄があり、上海女学校の同窓会案内の記事があった。その学校は母が通った学校だが、同窓会の話は聞いたことがない。戦後の混乱という事情もあったが、母は卒業直前に退学して日本に帰国したから、卒業生名簿に名前が載っていない。
上海で薬局をやっていた母の父、つまり祖父が急死してしまったので、祖母は娘たちを連れて日本に戻った。祖父が健在だったなら、母は女学校を卒業して、上海で働き始めただろう。そして、そのまま終戦まで過ごし、しかし帰国できないままになったかもしれない。上海の戦中戦後の混乱を、母は知らずに帰国したから、同級生たちと連絡が途絶えていた。
同窓会の記事をメモして旅先から母に手紙を送っても、その手紙がいつ着くのかわからないから、その新聞の日付けをメモしておいた。
半年ほどして帰国し、図書館に行った。新聞の縮刷版からあの記事を探し、コピーを取り、母に渡した。母はすぐさま同窓会幹事に電話をして、次の同窓会の情報を得た。
母が出席した同窓会は、大混乱の四十有余年の時を隔てての再会で、当然感動の連続だったのだが、級友の誰もが、「上海が懐かしい。あの上海をまた歩きたい。学校がどうなっているのか見たい。住んでいた家を見たい」という話になるのだが、まだ自由に中国旅行ができる時代ではなかった。中国観光旅行はまだ自由にできない時代だったが、上海女学校同窓会という組織になると、様々な方面にコネがあり、日中交流の大物である岡崎嘉平太を団長とする日中友好訪問団という組織なら、あの上海に行けるということになった。安くはなかったはずだが、母は貯金を下ろして参加することにした。
その上海旅行は、幼稚園でお遊戯を見せられるとか、中国が見せたいものだけを見せて、自由などまったくないという旅行で、上海に何の思い込みのない者には極めてつまらない内容なのだろうが、二度と見ることはできないだろうと思っていた懐かしの上海に来ることができただけで、まずは満足だった。旅を終えて、「バンド(洋館が並ぶ地区)が、ブロードウェイマンションが、昔のまま残っていたのよ」と、母は懐かしそうに話していた。少女時代の記憶のままの上海が残っていた喜びと同時に、日本人が勝手にやって来て住み着いたという過去に苦い思いも同時に抱いていたことは、思い出話の端々うかがえた。兵隊時代中国で過ごした父は、「オレも中国に行きたいなあ」と言ったが、兵隊の頭のままで中国を旅することをいさめた。旧日本軍の軍人たちが、中国で酔って騒いで、昔のように中国人を虫けら扱いしたというトラブルを、母は耳にしていたらしい。
2458話 世界は中国のものか
フィリピンのすぐ沖に、中国は人工島をいくつも築き、要塞化している。海上民兵(漁船を装った武装船)が船団となって航行・停泊している。フィリピンは、そういう不法行為をやめるように中国に抗議したが、無視している。そこで、フィリピンはオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に「そういう不法行為をやめるよう」提訴した。
それに対する中国の反論。「そこは2000年前から中国の船が航行している地域で、もう我々の領海である」。昔から俺たちのものだというのは、イスラエルが好む論法だ。裁判所は中国の主張を認めず、国際法違反という判決を下したが、やはりイスラエルと同じように、中国も自分が決めた法律以外は認めない国だから、そんな判決は無視している。トランプのアメリカも、同様。
中国が東シナ海で傍若無人のふるまいを始めたのは、米軍がフィリピンから撤退してからだ。日本では、米軍基地の費用は日本がかなり負担しているが、フィリピンの基地は米軍が負担していた。使用料が入るのだが、度重なる米軍兵の暴行犯罪から反米感情が高まり、「撤退要求」という事態になり、クラーク、スービック両基地は撤退した。機能を日本に移せば、カネはかからないし、日本政府も右翼もあれこれ言わないことがわかっているからだろう。これには裏の事情があったらしい。フィリピン政治に詳しいジャーナリストによれば、あれはチキンレースだという。「フィリピンは、駄々をこねれば基地使用料が増額されると踏んで、ゴネたんだ。ところが交渉は決裂し、米軍は撤退を認めてしまったということでしょう」。
アメリカ軍が撤退すると、中国の船がやって来た。しだいに、船が大きくなり数も増え、海上に基地を作り、島を作り、滑走路建設工事を始め、着々と実効支配を進行している。米軍が撤退したころ、その海域に石油やレアアースが大量にあるとわかり、とたんに中国は「わが領海」と宣言し、海軍の登場だ。フィリピンは国際社会に訴えたが、フィリピン沖に関しては、日本は対岸の火事だから関知しない。
東南アジア事情を調べていると、中国の行為が目について、滅入る。こういう気分を暗澹(あんたん)たるというのだろう。東南アジアの政府や政府首脳や役人たちは、中国のカネに目がくらんで骨抜きになってしまった。
中国とラオスを結ぶ鉄道は、中国の資金や労働力で完成した。建設・運営費用はラオスの借金だが、返済できそうにない金額だ。私の想像だが、ラオスは「あれは、中国からのプレゼントだ」と勝手に解釈しているのではないか。借金が返せないときは、国内の鉱山の採掘権を渡すといった契約になっているが、そんなことは気にしていないだろう。いずれ、ラオスは実質上雲南省の一部になるかもしれない。役人も政治家も、中国と仲良くしていれば儲かるのだから、中国の思いのままだ。もう何年も前から、ラオスには中国語の看板が溢れている。
カンボジアで中国人が荒稼ぎをしている特殊詐欺は、経済規模でも従業員数(?)でも、カンボジア有数の大企業だと言えるのだが、そんな大規模な詐欺を、カンボジア当局が知らないわけはない。下っ端の警官に小遣いを渡せば隠せるような規模ではない。事実として、団地で詐欺の基地としていたのだから、カンボジアの最上部の地位にある者へも貢物が渡っていたのは明らかだ。同時に、数千人の中国人が働いていたのだから、監視諜報国家中国政府が知らないわけはない。中国のそれなりの部署に、ちゃんとお小遣いが渡っていたはずだ。
中国を少し知っている人は、「中国は面子を重んじる」などというが、これだけの中国人犯罪組織がカンボジアで営業をしていても、「中国人の面子が汚される」とは思わない。実質上、国家や要人の損にならなければ、中国の名誉などどうでもいいのだ。実質上、カンボジアは中国が支配しているのだから、やり放題だ。旧時代の武力による植民地獲得という方法ではなく、カンボジア支配層が中国のワイロを受け取った結果、植民地のようになったのだ。南ベトナムもそうだった。
スリランカのゴーターバヤ・ラージャパクサ前大統領は、一族の利益のために中国に国を売って儲けたが、失脚した。「債務の罠」という語は話題になった。その昔、ある政治評論家は、「政治家や役人が、借金を贈与と思い込み、公金と私財の区別がつかないのが低開発国なんです」と言っていた。差別語だと怒った人もいたが、事実に沿った発言だ。
東南アジア事情を考えていると、「中国友好」とか「中国旅行」などというセリフは浮かばない。どんな国にだって問題はあるが、中国のふるまいを見ていると、のんきに旅行したいとは思えない。のんきに旅行しないと、逮捕される可能性が高い。逮捕されなくても、拘束くらいはありうる。中国批判に対して、「中国が金持ちになったから、世界は嫉妬しているだけだ」というのは、国内で堂々と発言できる意見。そう言う発言でないと、圧力がかかる。
*研究者もジャーナリストも、警官がワイロで稼ぐということに対して、「警官の給料は安いんですよ。だから、まあ、無理もない必要悪という面もあるんですよ」というセリフを、何度も耳に目にしている。そのたびに、「バカ言っちゃいけないよ」と思っている。先日も講演会でそんなことを口にする准教授がいたから、質疑応答の機会に、私の意見を言った。
「給料が安いから汚職に走るという論理なら、高級官僚や軍や警察の高官、国会議員などは汚職と無縁ということになりますね。教員も公務員だと給料は安いです。でも、汚職のやりようがあまりない。あまり稼げないというだけのことです」
准教授は反論できずに沈黙した。
2457話 タイ食文化史をほんの少し 20(最終回)
前回の「手食や汁をサジで」という話の追加記事を。今読んでいる『宮本常一著作集24 食文化雑考』に、宮本常一(1907~1981)の子供時代というから大正時代に少年時代を過ごした山口県周防大島での食事の話が出てくる。村人は、膳に向って食事をするのはせいぜい1日に1回。家なら立って食べる、野良なら弁当を食べる。子供たちは切った漬物をくわえ、おひつに手を入れて飯をつかんで食べているのが普通。汁はしゃもじで飲む。ということは、膳に向う時だけ、茶碗、汁碗、箸で食事していたということのようだ。農山村離島では、昭和の初めまで江戸時代が続いていた。一家団欒の食事というのが幻想である。日本を江戸・東京だけで考えてはいけないという教訓だ。だから、ここのところ、宮本常一ばかり読んでいる。
さて。
「ほんの少し」と考えていたタイ食文化史の話は、20話目の今回で終わりにする。前回で終わりにする予定だったが、最後にもう1回タイ食文化の話をしておこうと思った。英語によるタイ食文化動画を見たからだ。
タイの食文化に関する動画は日本語のものは見つからないが(料理動画や食べ歩き動画はうんざりするほどある)、英語のものは、Mark WinensやOTR Food & Historyなどがある。動画のうちで、タイの炒めそばパッタイに関するものは、この雑語林で批判した『中国料理の世界史』(岩間一弘、慶応大学出版会、2021)と同じ論理で、「タイ愛国の料理 パッタイ」を説明しようとしている。それはおかしいぞ、食文化史をきちんと頭に入れなさいと言いたくなって、今回もう1話加えることになった。
ウィキペディアでも、「パッタイ」はこう説明している。慶応大学教授の情報源も、これだ。
1930年代、タイでは第二次世界大戦の戦乱および洪水のためにコメ不足に陥った。タイ政府は当時の首相プレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)の指揮のもと国策として、国民に対し、国内でのコメの消費量を抑えるため、コメを粒食するのではなく、より入手しやすいライスヌードルを食べることを奨励した。同時期に、ピブーンは、愛国主義的文化改革政策を実行し、文化・経済における華人の影響力を弱め、ナショナリズムを高揚させようと試みていた。
まず書いておきたいことは、コメの節約のために麺に加工したというウィキペディア説の出典はふたつあり、ひとつはなぜかアルジャジーラだ。もうひとつは、タイの出版物で、だからその情報に出典はない。ピブーンの政策については玉田芳史(京都大学名誉教授)さんの論文を出典にあげている。玉田さんの論文はある程度読んでいるが、パッタイに関する記述の記憶はない。ウィキペディアで紹介している論文も読んでいるが、パッタイは出てこない。ピブーンの政策と食文化で取り上げるべきことは、中国人に公有地での屋台商売を禁止し、タイ人に開放したことだが、水路の街バンコクでは道路がまだ一般的ではなかったので、タイ人は小舟の屋台を始めたということだろう。
上に書き出したウィキペディアの論理がおかしいことは、すでに何度も書いたが、ここで箇条書きにまとめておこう。
1、「コメが不足しているから麺にして食べる」という説明がおかしいと考える人がなぜいないのか。コメが少ないなら、粥、雑炊、混ぜ物をして食べる方が手軽で経済的だ。日本の戦後食糧難の時代を考えても、すぐにわかるはず。麺は増量にはならない。
2、くず米を麺に加工するなら、中国人の製粉・製麺業者に依頼することになる。ピブーン首相の反中国人に基づくタイ愛国運動とは矛盾する。
3、反中国運動が、なぜ麺料理なのか。しかも炒め麺だ。中華鍋を使っているのは中国人だ。麺を箸で食べているのも中国人。1930年当時で、中華鍋を持っているタイ人、箸やフォークで食事をしているタイ人がどれだけいたか。タイ人は、まだ手食の時代だ。だから、ピブーンは「フォークやスプーンで食事をしましょう」と呼びかけたが、すぐに実行されるわけもない。手食をしている人たちに、「炒め麺であるパッタイを作れ、食え」という政策はおかしいと思う人がいないのが謎だ。でしょ、教授?
4、パッタイに入れる食材が、干豆腐、干しエビ、モヤシ、ニラ、タクアンなど中華食材だ。タマゴを入れることになっているが、タマゴが安くなるのは、鶏卵業者が誕生してからだ。もちろん、それも中国人業者の仕事だ。
5、おもな調味料は、ナムプラー、ヤシ砂糖、タマリンドの絞り汁だと説明している。ヤシ砂糖は、高額。安価な砂糖は、中国人の精糖業者が作り流通させているもの。タマリンドを屋台料理にどれだけ使うかも疑問。砕いたピーナッツも入れることがあるが、ピーナッツも、中国人が栽培・加工しているはず。そもそも、調理器具や食器も、中国人による輸入製造販売だ。
6、魚柄仁之助が書いていたのか、あるいはほかの人だったかもしれないが、「うちがその料理を最初に作ったんだ」という店主の話は信用しない方がいいというのは、私も日ごろそう思っている。 「諸説あり」や「自慢のホラ話」を、なにも考えないマスコミ、提灯記事の料理レポがいい加減な情報を「真実」として垂れ流す。パッタイも、バンコクのレストランが「元祖」だと主張していて、何も考えずに、それを「真実」としてパッタイ情報を垂れ流している。
タイ食文化史の考察がないから、そういう怪しい情報が溢れているのだ。「タイ料理作り方研究者」はいくらでもいるが、タイ食文化研究者はいない。インドのように歴史学者など多数が食文化に手を出してくれればいいが、タイ研究者は・・・と、ため息が出る。
タイ食文化とは関係ないが、書いておきたい。日本ではいまだに、内臓類を「ホルモン」というのは、関西弁の「放おるもん」(捨てるもの)からきているというダジャレを信じてしまい、その誤情報を出版・放送で垂れ流している。マスコミは、真実よりもおもしろいウソを好むのだ。
以上で、タイ食文化史の話を終わる。
2456話 タイ食文化史をほんの少し 19
テレビの電源を入れると、一度も見たことがない通販番組チャンネルが画面に出ることが多い。それが初期設定(デフォルト)なのだろうか。それにしても、通販番組に出演しているフリーアナウンサーや芸能人の、ひきつった笑顔が痛ましい。芸能生活最後の花が通販番組の仕事というのは、当人にとっては喜ばしいことなのだろうが、悲哀も感じているのだろうな。
さて。
最後に、手食とスープの話をしてみたい。
「手食文化圏にはスープはない」と思っていた。手(指)で食事をする人たちは、なぜか器に口をつけて汁を飲む習慣がないから、汁を飲めない。インドでは汁が多い料理も飯やチャパティなどパン類に吸わせて、手ですくって食べる(飲む)。そう思っていたのだが、ヨーロッパのことを思い出して、タイの食文化も含めて、もう少し精緻な考察をしないといけないなと思った。
箸を使う東アジアを除くと、200年前なら、世界の民のほとんどは手食だった。そんなことを思ったのは、ドイツ農村の老夫婦の夕食風景をテレビで見た時だ。テーブルに置いた小さなまな板に、ソーセージとチーズとパンがのっている。それらを切って、二人の皿に配り、指でつまんで食事が始まる。飲み物がワインだったか何だったか記憶がない。夕食は簡素な習慣だから、これでいいのだ。
昼食は朝夕よりもごちそうだ。肉や野菜の煮物は、大きな肉があればまな板でひと口大に切り、皿に配る。汁は鍋にさしてあるしゃもじ(お玉)で、各自すくって飲む。個人用のスプーンがない家庭なら、しゃもじを共用すれば、スープも飲むことができる。ナイフとフォークの食事は、農民たちにとってはそれほど古くからある食事方法ではない。
アメリカの食堂で、食事風景を眺めた。フライドチキンとフライドポテトとコーラの食事をしている人は、手食している。これがハンバーガーに変わっても、ナイフもフォークもいらない。しかし、スープを飲む場合は、スプーンを使う。
それでは、インドではどうか。インドでは汁気の多い料理は、飯やパン類に吸わせて食べるということは知っているが、インドには鍋を囲んで1本のしゃもじで食事をするという食べ方は、過去あるいは現在もあるだろうか。単なる想像だが、ないような気がする。「新大陸発見以前の中世インド食文化の再現」という論文を読むと、「スープ料理」という項目があるとわかるが、それがどういう料理で、どうやって食べていたのかはいっさいわからない。諸般の事情により、『食から描くインド』(春風社)はまだ読んでいない(読みたい本が山ほどあるんだ)。
タイの場合、200年前どころか100年前でも手食が普通だったが、汁物はあった。私の思いつきだが、汁物は、木製か貝殻かココヤシの殻などを使ったしゃもじを、家族のだれもが使う共用のスプーンにして食事をしたのではないか。タイに限らず、東南アジアでも同じような食べ方をしていたのではないか。のちに、中国人が移住してきて、金属製の安いレンゲが普及して、汁はそれぞれのレンゲを鍋に突っ込んで飲んでいたのではないか。その後、飲食店では銘々の椀を使うようになる。今でも、韓国人は鍋にそれぞれのサジを突っ込んで汁を飲むという食べ方をする。
それでは、インド亜大陸や西アジアではどうか。東アジアの人間が考える「汁物」は、それらの地域にはスプーンが普及するまで、そもそも存在しないのではないか。1本のしゃもじをみんなで使うというのは、衛生上の問題、科学的な衛生問題ではなく、宗教上の浄不浄の問題で、共用は避けているのか、あるいは別の問題があるのかわからない。もちろん、これは私の想像に過ぎないが、そういうことも含めて研究が必要だろう。
世に、タイ料理研究家はいくらでもいるようだが、タイ食文化研究者は、たぶんいない。同じように、世にカレーライターやインド料理研究家はいくらでもいるが、インド食文化研究者はほとんどいないのが、なんとも残念だ。と書いて、ユーチューブでタイ食文化動画を見ていたら、書きたいことが1話分が頭に浮かんでしまった。今回が最終回にする予定だったが、食文化の話はまだ終われない。次回を最終回にする。
2455話 タイ食文化史をほんの少し 18
ちょっと前にこと。「ワールドカップに興味のないヤツなんているんだね、驚いたよ」とテレビタレントが言っていた。「それは私ですが、なにか?」と言いたい気分だった。そして、「このスポーツを無視したら、世間から糾弾される」ということがあるかなあと考えた。あったね、ひとつ。高校野球をやっている時の、地元。幸運にも、出身高校は野球が弱いので、応援や寄付の要請が来たことがないが、いわゆる強豪校の地元だと、高校野球を無視して生きると、非国民ならぬ非県民と糾弾されるだろうな。
さて。
ナムプリックと並んで、タイ人にとって重要な料理はケーンだ。日本では「カレー」と翻訳されることが多いが、大いに問題がある。
ケーンと言う語は、おそらく中国語「羹」が語源だろう。日本では「あつもの」と読む。もともとは羊のスープのことだ。だから、羊+美という漢字だ。羊のスープが冷めると煮凝りになる。それも羹だ。これが日本に伝わったが、寺では獣肉を使うことはできず、小豆などの豆を煮て、固めた。のちに砂糖を入れて作ったのが羊羹である。ちなみに、日本語では訓読みは「あつもの」、音読みはコウ(漢音)、カン(呉音)だ。羹は北京語ではカン、福建語など南部中国語ではケン、キンといった発音になり、タイ語ではケーンだ。つまり、ケーンは「カレー」ではなく、「汁もの」と訳した方がいいのだが、その汁がどれほどの量だったのか、考えなくてはいけない。
というのは、手食の文化圏には東アジアのように「汁を飲む」という習慣はないからだ。手食文化圏では、器に口をつけて汁を飲むことをしない。サジがなければ、汁物はないというわけだ。サジを使い始めると、手食もなくなる。例外がタイ東北部や北部のもち米を主食とする地域だ。汁を飲むようになるのは、もちろん、サジを使い始めてからだ。
インド亜大陸にも、汁物はない。インドで豆を煮込んだ料理を「ダル」といい、日本人は「ダルスープ」と呼んでいるが、スープではない。ポタージュ状の料理で、飯にかけて食べる。手食文化圏では、汁は飯にかけて、水分を吸わせて食べる。だから、東アジアの人間のように、たっぷりの汁を飲むということをしない。この話は、次回にもう一度触れる。
となると、タイのケーンは、初めはスープというより、魚など食材にハーブをたっぷり入れた水煮だっただろう。サジを使うようになって、汁気が増えたというのが私の仮説だ。現在のケーンでいえば、ケーン・パー(森のケーン)やケーン・ソム(酸っぱいケーン)などである。現在でも、農村の家庭で作るケーンは、ココナツミルクが入らないから、辛さが直接舌を刺激する。「タイ料理大好き」という日本人でも、こういう純田舎料理はなかなか手ごわい。
ケーンが豪華料理になったのは、王室だろう。肉をたっぷり使い、ココナツミルクや砂糖を入れて、クリーム状の料理にする。その代表が、ケーン・ペット・デーン(赤く辛いケーン)であり、ケーン・キヤオ・ワーン(緑の甘いケーン)であリ、ケーン・マッサマン(トリ肉とジャガイモの汁。日本人が考えるカレーに近い)だ。ココナツミルクで濃厚に仕上がったケーンは、在住中国人や外国からの観光客の舌をそれほど刺激しない。大都市バンコクのぜいたくなケーンだ。だから、外国人にとっては、これらが代表的なケーンになったというわけだ。高級タイ料理店の上客は、中国系タイ人や外国人だ。
タイ語のサイトでแกง(ケーン)を検索すると、いくつものケーンが登場するのはいいのだが、カツカレーはタイ語では「ケン・カリー」だが、この語は通常カレー粉が入った汁のことだ。ソーセージをのせた日本のカレーは「日本のケーン・カリー」となっている。これはタイに50店舗以上展開している「カレーハウスCoCo壱番屋」の影響だろう。日本のカレーが、タイのケーンに変化を及ぼしている。
そこで、ココイチのタイ語メニューを読んでみた。
カレーは「ケーン・カリー」と翻訳されている。タイのケーンカリーは、カレー粉を使ったペシャペシャカレーだから、これでタイ人はどんな料理か想像がつくだろう。カツカレーのタイ語を直訳すると、「ケーンカレー・豚肉パン粉まぶし揚げ・飯」となるが、すでに「カツ」はかなり通じる日本語だろう。ただし、タイ人は「カツ」とは発音できないから、「カス」か「カチュ」になる。ちなみに、韓国人はカツを「カス」あるいは「ガス」と発音する。多くの外国人にとって、katsuという発音は難しいようだ。