1690話 タイのちょっとうまいもの その4

 粥と新巻鰆

 

 一品料理ではないが、「あれ、なかなかうまかったな」と思う食べ物がある。

 1990年代前半は、タイで音楽三昧の日々を過ごしていた。連日のごとく歌謡ショーやライブハウスを巡り、深夜まで音楽を浴びた。ショーが終わり、日付けが変わった路上に出ると、さしもの「渋滞都市バンコク」も深い夜には静まり返り、歩いている人はほとんどいない。音楽の興奮がまだ続いているから、いましばらくは家に帰る気がせず、しかも「何か、ちょっと食べたい」という腹具合のときは、粥がふさわしい。

 「深夜の粥は背徳の味がする」

 そう書いたのは開高健で、酒や女やバクチで遊んだ若旦那が、屋台のモツ粥をすする姿は、まっとうな生き方から落ちこぼれた者の自嘲である。

私は「背徳」と呼ぶほどの遊びとはほど遠いが、世間が認めるような仕事はせずに、毎夜タイの音楽にうつつを抜かしていた。「うつつ」は漢字では「現」と書く。現実から逃れ、夢の世界で遊んでいるということだ。

 プロンチット通りとラチャダムリ通りの交差点近くに、かつて「ブルームーン」という木造3階建てのシーフードレストラン兼ライブハウスがあった。経営者は建築家で、自作の建造物だという話をのちに聞いた。ライブハウスといっても屋根があるだけのテラスのような場所だった。1990年代初めだと、近所に住人はほとんどいなかったから、深夜に轟音を出しても苦情は出ない地区だった。そんな夜のことだった。

 12時過ぎまでジャズを聴き、友人と「じゃあ、また」と別れるには腹は満足していない。足は自然に北に向かい、プラトゥーナム方面をさまよったが、めぼしい店は当然すでに閉まっていて、「さあ、どうする」と迷っていたところに、リヤカーの粥屋を見つけた。道路脇にリヤカーを止め、歩道にパイプのテーブルとイスが置いてあり、客はいなかった。

 タイの粥は2種あり、米粒の姿をしっかりとどめているのをカオ・トムという。糊状になるまで煮込んだものは、チョーク(広東語の粥チョックが元らしい)という。我々はカオ・トムとおかずを何品か注文したあと、小皿にのっている魚を見つけた。皮から鰆(サワラ)だとわかる。全体の色が変わってるから、新巻鮭ならぬ新巻鰆となって発酵しているのだろうと思った。

 「これも」と注文すると、親父は魚を1センチほどの薄切りにして、フライパンで少しあぶった。

 粥をサジでひと口すくい口に運び、右手の箸でその鰆の身を少しほぐして食べる。ホロッと崩れた身は強烈に塩辛いが、同時に発酵したうまみも伝わる。子供の頃に食べていた「口が曲がるほど塩辛い鮭」を思い出す。健康に悪いと言われる食べ物は、なぜこうもうまいんだろうか。

 バンコクの中華街に行けば、粥屋でいつでもこの塩鰆は食べられるのだが、日が高いうちは粥の気分ではなく、粥と鰆の食事はあれ以来一度もしていない。ケーン(辛い汁)などのタイ料理はまっとうな飯なのだが、粥は物語の風味がする。

 

 

1689話 タイのちょっとうまいもの その3

 ヌア・ヤーン 後編

 

 前回、タイ東北部を意味する語の発音は、ウィキぺディアなどが書く「イーサーン」ではなく、「イサーン」だと書いた。私のブログを読む人はあまりに少ないので、ウィキペディアが訂正されることはないが、この単語の発音を示しておく。タイ語簡易辞典の右側「>>」をクリックすると、「イサーン」という発音が聞こえる。

 さて、牛肉の網焼きステーキの話も続く。

 ヌア・ヤーンは別名「スア・ローンハイ」ともいう。「虎が泣く」あるいは「泣いている虎」という意味だが、そのいわれや意味についてさまざまな人がさまざまな説を唱えるが、「わからない」というのがもっとも正しい説だろう。だから、ここでは深入りしない。

 私がよく通ったのは、バンコクの歓楽街のひとつ、ナナ・プラザ近くの路上で店を出していた屋台だ。ナナ・プラザに通っていたわけではなく、当時、私が住んでいたご近所でもっともうまいヌア・ヤーンを出す店が、たまたまそこだったというだけだ。

 「ヌア・ヤーンちょうだい」とおやじに言うと、脂肪のほとんどない牛肉の塊から厚さ5ミリほどの肉を切り出す。小さめのステーキといったほどの大きさだ。親父は小鍋に、包丁でつぶしたニンニク(もちろん、皮つきの小粒のもの)やナンプラーなどをいれて、切った肉も入れて下味をつける。日本でも昔、魚を焼くのに使っていた太い針金の魚焼き網で挟み、七輪の炭火にのせる。次に、同じ小鍋にナンプラー、プーカオトーン(あとで説明する)、マナオ(ライム)、カオ・クワ(炒った米を粉にしたもの)、ニンニクなどを混ぜ、小鉢に入れる。これがつけダレだ。ネットの情報を見ると、大量の粉トウガラシを入れる人やカキ油を入れる人もいて、「これが決まり」というものはないと思う。最低限の決まりは、厚切りか薄切りかの違いはあっても、牛肉の切り身を使うことくらいかもしれない。レストランでは炭火の直火ではなくガスで加熱したフライパンで焼くのだろう。

 ウェルダンに焼いた肉をひと口大に切り、生野菜とともに皿に盛られる。もちろん、東北タイの主食であるおこわももらう。タイで食べるモチ米の飯は「タイのとってもうまいもの」のひとつだ。寒い日は牛肉スープももらうのだが、のんびり食べていると、スープの表面が牛脂で白くなる。熱帯といっても、12月や1月には、そのくらい寒くなることもある。ヌア・ヤーンは調理に時間がかかり、食べるのにも時間がかるから、路上の人々を眺めたり親父とちょっとした世間話をする時間が、ひとりで夕飯を食う外国人の楽しみである。

 説明を後回しにしたプーカオトーンについて話をしよう。プーカオトーンは、バンコクの人工の丘に建つ塔で、「黄金の丘」をさす。その塔を会社のマークに使った調味料会社の名前であり、醤油味の調味料そのものもその名でいう。

 プーカオトーンの英語名はGolden Mount Seasoning Sauseといい、この種の調味料の総称をタイ語ではソート・プルン・ロットという。「味を引き出すソース」とでもいった意味だ。ソートというのは、「ソース」のタイ語訛りだ。似た調味料にマギーというのもあり、これもメーカー名だ。親会社はスイスのネスレだ。その昔、外国で醤油が手に入らなかった時代、日本人旅行者はマギーを目玉焼きなどにかけて、日本を感じていたように、これらの調味料は「醤油のような」物なのだ。例えていえば、今は日本でよく売られるようになった「だし醤油」や「麺つゆ」のようなものだ。

 タイ人はシンプルな味を「味が薄い」という。日本料理の「醤油で味付け」というだけでは満足できないのだ。炒め物に、魚醤油ナンプラー、甘口大豆醤油のシーユ・ダム、そしてカキ油やプーカオトーンなども入れる。既成の調味料をいくつも投入するのも、現代タイ料理の特徴だ。

 

 

1688話 タイのちょっとうまいもの その2

 ヌア・ヤーン 前編

 

 タイの食べ物を思い浮かべていたら、いくつもの映像が出てくる。この話、長くなりそうな予感がする。

 タイ人なら誰でも知っている料理だが、いざ食べに行くとなると、あらかじめ情報を得ていないと、どこで食べられるかわからない料理がある。そのひとつが、私が大好きなヌア・ヤーンだ。ヌアは「肉」の総称だが、関西人のように、ただヌアといえば、牛肉を意味することが多い。豚肉はヌア・ムーだが、普通はただムーという。鶏肉はカイだ。ヤーンは「あぶる」という意味だから、ヌア・ヤーンは網焼きステーキのことだ。そういうと、高級レストランの料理のようだが、実は路上の味と呼んだ方がふさわしい料理だ。

 ヌア・ヤーンは、比較的よく知られている鶏肉の直火焼きカイ・ヤーンとともに、イサーン(東北タイ)料理だ。

 例によって、ちょっと余談をする。東北タイのことを、ウィキペディアではイーサーンと表記している。タイ語อีสานで、そのまま発音すれば「イーサーン」なのだが、実際の発音はイサーンである。冨田竹次郎編の『タイ日大辞典』によれば、方角の「東北」の意味なら「イーサーン」だが、タイ東北地方を意味する場合は「イサーン」と発音するという。はなはだ心もとないが、私の耳にも「イサーン」と聞こえる。だから、ウィキペディアの「イーサーン料理」には違和感がある。

 ヌア・ヤーンを求めてバンコクの街を歩く。イサーン料理の屋台を探すことになるのだが、その特徴は三方をガラスで囲まれたケースのなかに、生肉がぶら下がっていればイサーン料理店だ。ガラスケースはないが、パパイヤの和え物ソムタムをつく鉢を見かけてもイサーン屋台だが、生肉が見えないとヌア・ヤーンはない。トリ肉を竹で挟んであぶり焼きしたカイ・ヤーンは置いている屋台はある。

 ある年のこと、久しぶりにバンコクに来て、いままで泊まったことのない地区でヌア・ヤーンを探したら、2時間かかったことがある。生肉が見えたので、「ヌア・ヤーンはできる?」と聞くと、「ブタならあるけど」という返事が返ってくることが多い。

 世にあまたある食べ歩きガイドやエッセイには書いてないから、余談ながら解説しておく。すでに書いたように、タイ語でヌアは肉のことだが、普通は牛肉をさす。つまり、肉とは牛肉のことだ。かつては、どこの地域でも農耕用や運搬用に牛や水牛を飼っていて、お役御免になれば、催事のときに村で食べただろうと思う。

 文献調べなどせず、まったくの想像だが、ブタが中国雲南方面から少数民族を通じてタイに入ったルートと、中国南部から移民たちが持ち込んだ2ルートがあるのではないだろうかと想像している。北部山岳地帯では、牛が活躍できる地形ではない。ブタをよく食べる地域は、より中国化した地域だと言える。東北地方は長らく精霊信仰の世界で、仏教が入ってくるのも百数十年前あたりらしい。農耕にも運搬にも使えないブタは、完全に食用目的だから、飼育が遅れたのではないか。

 昔のニワトリはあまりタマゴを生まず、目覚まし時計替わりに飼っていたという。タイ中部や南部で食べられていた家畜の肉は、通常はせいぜいカモかアヒルだろうと考えられる。水田に放てば、草や虫を食べてくれて、稲の収穫後は食用になる家畜だ。それに加えて「お役御免」になった水牛と、おそらく「野生生物の肉をたまに食べた」というのが現実的な推測だろう。

 ちなみに、ブタの利用はタイの北ルートと南ルートがあるという私の仮説は、実は麺のルートと同じなのである。コメが原料の押し出し麺であるカノムチーンは北ルートでタイに入った。コメが原料の麺クイティアオや小麦粉が原料のバーミーは、19世紀に中国移民がタイに持ち込んだものだ。

 そして、中国移民には、牛肉を食べない人が多い。今はハンバーガーなどのせいで、牛肉を食べる人が増えてきたが、マクドナルドが出店したときは、牛肉を食べない人向けに豚肉を使ったサムライバーガーを出した。これは台湾で学んだ知恵だ。いまでも中国系の高齢者は牛肉を口にしない人がいる。牛は農耕で助けてくれたから食べるのは忍びないという考えがあるようで、中国でも牛肉をよく食べるようになったのはつい最近だ。レストランに行けばわかるが、数多い料理のなかで、牛肉を使ったものはそれほど多くない。

 長くなったので、ヌア・ヤーンの話は次回に続く。

 

1687話 タイのちょっとうまいもの その1

 カポプラー

 

 外国旅行をしていて、すしやラーメンが頭に浮かび、よだれを垂らすというようなことはない。日本料理が嫌いというわけでは決してないが、すしよりも餃子の方が食欲をそそる。そして、餃子や焼きそばといった特定の料理よりも、「ああ、いいなぁ・・・」と、思い浮かべるとうっとりするのは、ほんの、ちょっとしたものだ。

 サバの塩焼きが大好きだが、旅先で思い浮かぶのは、皿の脇に小山にした大根おろしに醤油をかけた光景だ。あるいは、汁ものに浮かぶ薄切りのゆず。日本料理の用語に「天」というのがある。「鯛の兜煮 天柚子」のように使い、煮物や汁ものの上にのせる、山椒や柚子、白髪ねぎや刻みネギ、針生姜や小口切りの赤トウガラシなどを天といい、天をのせた料理を天盛りという。

 昔はこんなものを何とも思っていなかったのだが、歳を重ねるにつれ、料理の美しさが気にかかり、味と香りと美をほんのちょっと演出する「天」が、外国で食事をしていると懐かしい。

 最期にタイに行ってからすでに数年たち、日本でタイ料理が頭に浮かぶことはある。かつてタイで生活していたころは1日2食、昼と夜にタイ料理を食べていたから、半年の滞在でタイ料理を360回食べていたことになる。そういう食生活を毎年していた。

 日本で生活していてトムヤムクンのような特定の料理が頭に浮かぶことはほとんどない。タイで長期滞在していても、トムヤムクンもカオパット(チャーハン)もほとんど食べたことがない。トムヤムクン鍋物が基本だから、ひとりで食事する私には向いていない。食堂では丼でこの料理を出してくれることもあるが、もともとそれほど好きではないから注文しないのだ。カオパットは、いつ、どこででも食べられる料理だから、ほかに食べたい料理があればそれを優先するという方針だったので、半年住んでいても、こんなありふれた料理を1度も食べていないというのがむしろ普通だった。

 「あれは、うまいよな」と、今現在の時点で思い出す料理の話を書きたくなった。

 ふたつ頭に浮かぶ。

 そのひとつは、日本語媒体では「ガポプラ―」と紹介されている料理だ。旅行者が食べる機会はあまりないかもしれないが、タイ在住者なら知っている料理だろうが、どこの店でも食べられるわけではない。

 ローマ字表記すれば、kraphoというのが、人間で言えば胃であれ膀胱であれ、袋を意味する。plaaは魚で、kraphoplaaで魚の浮袋を意味し、その料理名でもある。カタカナ表記すれば「クラポプラー」で、アナウンサーはそのように発音をするが、会話調では「カポプラー」あるいは「カポパー」だ。kr―やpl―のように二重子音になるrやlはくだけた会話で発音しない。また、「ガポプラー」と表記する人もいる。

 タイ人は意識していないだろうが、元は中国料理だ。さまざまな魚の浮袋を使うが、なかでもニベ科のトトアバ(Totoaba macdonaldi)が有名だ。乱獲により生息数が減少したが、中国人による密猟が問題になっている。私がタイで食べていた浮袋は、何と言う魚のものかを知らない。

 魚の浮袋料理とはどういうものかという説明は、この動画を見てもらうのが手っ取り早い。ただし、私がタイで食べていたのはこういう高級品ではないし、食堂の料理でさえない。バンコクの路地を散歩していると、天秤棒を担いだ男を見かけることがある。天秤棒の端には、ステンレスの寸胴鍋がある。男に手をあげると、鍋を路上に置き、ふたを取る。強い香りはない。路上の浮き袋料理は、「フカひれスープのようだ」といっても「ああ、そうか」とわかる人は多くないだろう。醤油とカキ油味のとろみがついた汁だ。具は魚の浮き袋のほか、細切りのタケノコ、細切りシイタケ、うずらの卵は覚えている。男は椀に汁をすくい、上からパクチーを振りかけようとすることはわかっているから「パクチーはいらないよ」と告げて、手にした椀を手に、立ったまま食べる。酢やコショーもふりかけたような気がする。路上の、物売りの食べ物だから、高いわけはないが、いつもいくら払っていたか覚えていない。おそらく、麺料理1杯分くらいの値段だったのではないか。

 中国料理の姿をそのままとどめているから、ナンプラーもトウガラシも入っていない。ネットで検索すると、小鍋に浮き袋がごっそり入っている姿も紹介されているが、エアコンなど入っていないその辺のシーフードレストランで食べるなら、数百円で済むようだが、私はそんな贅沢さえしなかった。

 1回で終わるは話の予定だったのだが、書きたいことがいろいろ浮かんでくる。話が長くなる予感がするので次回に続く。

 

 

1986話 方言とドラマ その2

 

 関西弁全開の映画はいくつもあるが、「ガキ帝国」(1981)などは監督が井筒和幸だから、なまぬるい関西弁しかしゃべれない役者は使っていない(と思う)。関西でロケした映画に「阪急電車 片道15分の奇跡」(2011)は、おもしろかったという記憶がある。出演者は、戸田恵梨香(神戸市)、南果歩尼崎市)、谷村美月堺市)、有村架純伊丹市)、芦田愛菜(西宮市)、相武紗季宝塚市)など関西弁ネイティブの役者が集まっているのだが、最大にして唯一の欠点が、変な関西弁アクセントをしゃべる宮本信子だ。宮本を外せないなら、徹底的に関西アクセントを叩き込むべきだろうし、そうしないなら関西出身ではないという設定にすればよかったのだ。阪急電車の乗り合わせた客のエピソードを集めた映画なのだが、現実の阪神電車の乗客全員が関西出身というわけはないのだから、どこの地方の訛りがあってもよかったのだ。

 映画の舞台は関西だが、主役クラスの俳優が変な関西弁をしゃべるという例は、関西の観客・視聴者にとっては数えきれないほどあるだろうが、テレビで何度も関西人の不満を聞いたのが、「極道の妻たち」の岩下志麻だ。「あの気持ち悪い関西アクセントはなんだ!」という不満だ。アイフルのCMを見たとき、大地真央(淡路島出身)が岩下のパロディーをやっているのだろうと感じたが、真相は知らない。ちなみに、あのアイフルのCMは、レディー・ガガ瀬戸内寂聴などのパロディーだと思われ、謎解きをするのは楽しい。

 関西出身の俳優が映画やテレビドラマで関西弁を使っているのは不思議ではないが、インタビューやトーク番組では共通語を使うという暗黙の了解があったように思う。芸人は多少関西訛りでもいいというくらいだったが、フリートークで全面的に関西訛りを武器にしたのが明石家さんまだろう。ただし、関西弁ではなく関西訛りだ。大阪ローカルの番組では関西弁を使っても、全国放送では共通語を関西訛りに加工して、「それ、ちゃう」とか「ホンマか?」といった簡単な単語をあしらう「全国放送用関西弁」だ。

 芸人は関西出身を売り物にするからそれでいいのだが、俳優は演技以外の場では共通語を使うという了解を無視したと最初に気がついたのは、堤真一だった。これはもちろん「私の記憶では」と言うだけの話だ。さんまが相手をする番組で、ゲストが関西弁になるというようなことはあるが、相手が誰であれ関西訛りでしゃべる俳優は、堤真一の次と言えば訛りは薄いが佐々木蔵之介、濃厚な訛りの國村準がいて、古田新太や・・・と、何人もの顔が浮かぶが、女優では江口のりこ以外思い浮かばない。

 映画とお国訛りというテーマで考えていて思い出したのは、熊本出身の笠智衆(1904~1993)がいる。終生公私とも熊本訛りのままで生き、それが俳優としての持ち味となった稀有な例だと思う。

 

 

1685話 方言とドラマ その1

 

 2021年にNHKBSで放送したドラマ『白い濁流』を見た。まるで大映ドラマのようなおおげさな音楽と話の展開で、NHKの放送なのだが調べてみれば、制作はフジテレビの子会社FCCフジクリエイティブコーポレーション)だとわかった。私が疑問に思ったのは京都が舞台でありながら、京都ことばをしゃべったのは芸子の数秒のセリフだけだった。興味深いことに、同じFCC制作のWOWOWドラマ「いりびと~異邦人~」(こちらは、よりいっそう大映ドラマ的で、それはまあひどい。原田マハ原作の絵画ドラマということで見たのだが、どろどろの韓国ドラマ以上で、それはもうお話にならない・・・)も京都が舞台だが、関西出身という設定にしている出演者には、なるべく関西弁をしゃべらそうとしている。京都が舞台ということで、ことばが気になってちょっと見た「科捜研の女」でも、誰も京都弁をしゃべっていないのが不思議だったのを思い出した。今、「科捜研の女 京都弁」で検索すると、「ヤフー知恵袋」で毎度おなじみの質問だとわかった。やはり変だと思う人が多いのだ。

 NHKの長期連続ドラマだと、方言指導がつき、俳優は徹底的にしごかれるのだが、意識していわば「インチキ」方言にする場合もある。その土地の老人たちがしゃべるそのままの会話では、全国の視聴者が理解できないから、少し訛りのある共通語風にしゃべることもあるそうで、そうすると地元から「あの話し方はなんだ!」と抗議を受けるが、それは致し方ない処置なのだと番組関係者が語っていたが、私も理解できる。

 ことばに深い関心がある私は、ドラマにもよるが、できるだけリアリズムでやってほしいと思う。福岡市を舞台にしたドラマなら、福岡市民が見て「そう、ああいう会話です」と納得するセリフ回しでやってほしい。考えてみれば、福岡の会社で働いている人が全員福岡市の出身であるはずもなく、東京に本社がある会社の福岡支社なら、全国から転勤者がいても不思議ではないから、「出演者全員が福岡のことばを話せ」という意味ではない。そういうことも含めたリアリズムである。ことばが主人公のドラマを見てみたい。

 そのお手本は、井上ひさし原作のドラマ『国語元年』(NHK、1985)で、たしかな記憶ではないが、方言には一部字幕がついたような気がする。それでいいし、それがいい。その地方の、ありのままの会話がドラマになっていれば、私は満足なのだ。

 東京から出かけたレポーターのインタビューに地元の人が答える場合、なるべく共通語でしゃべろうとするから、あまりおもしろくない。ローカル局の番組、聞き手も地元出身者だと会話が弾む。これがローカル番組を見る楽しみのひとつだ。

 「聞き手のことば」という点でいつも気になるのは、「秘密のケンミンshow」だ。改名した「秘密のケンミンshow極」も同じだ。関東では日本テレビで放送しているが、制作は読売テレビだ。この番組の鉄板ネタで「変な大阪」というシリーズがある。「大阪がいかに変か」というテーマを、「変だとは思っていない」大阪人に街頭インタビューをして、話題を深めていくという構成だ。食習慣であったり人間関係であったり、もろもろの「変なこと」について質問している男たちが、関西訛りなのだ。「へえ、そうなんですか」とか「そんな料理、食べたことないです」と、「そんな大阪のことは、私知りません」というフリをしているディレクターだと思われる男が、関西訛りの共通語だから、毎度ムズムズしている。

 

 

1684話 日本語人 その3

 

 おばさんだけでなく、おじさんの日本語もいろいろな場所で聞いた。太魯閣(タロコ)は台湾有数の景勝地で、渓谷を徒歩で登った。早朝出発で、梨山に着いたときはもう夕方だった。広場の椅子で休憩していると、ワイシャツ姿の中年男性が近寄ってきて、「日本からいらっしゃったのですか?」と聞いた。「はい」と返事をすると、「ちょっとお話してもよろしいでしょうか」と実にていねいな口調の日本語だった。観光バスの運転手だといい、その前は台北日本航空本社で働いていたと自己紹介した。

 日本が中国と国交を結んだことで、中国は日本航空の台湾就航をやめるように要請し、1974年に日本航空は撤退し、その代わりに新設した日本アジア航空が就航することになった。私がこの人物と話をする数年前の出来事だ。「元は日本航空で・・」というひとことは、国際政治の荒波を表している。その当時の社会を多少知っていれば気がつくことだった。

 その人は、自己紹介をする前に「もう夕食はおすみでしょうか?」と聞いた。50前後のきちんとした身なりの人物の日本語は、長髪ヒゲよれよれTシャツ&サンダルの若造にはあまりにもていねいだったので、長く印象に残っていた。ずいぶん後になって、あのセリフは「你吃飯了嗎?」(もう食事はしましたか?)の翻訳だったのだと気がついた。中国人(じつはタイ人も)は、こういう意味の言葉を挨拶としてよく使う。タイ語では「キン・カオ・ルーヤン?」というのだが、食事を済ませたかどうか本当に聞いているわけではなく、ただの挨拶だ。

 いつもの余談だが、私が中国料理店でコックをやっていたとき、台湾人の料理長の陳さんは夕方店に来ると、「まえかわ、ご飯食べた?」とよく声をかけてきた。「まだです」というと、料理長は自分の夕食を多めに作り、私に分けてくれた。私以外の日本人コックは、「油が多い」とか「臭い」だのいろいろ文句を言って、料理長が作るまかない飯を嫌がっているなか、私ひとりが喜ぶから、おいしい飯を食べさせてくれたのだ。東京で食べているのに、台湾の味がした。店では使わない香辛料や調味料を使っているからだ。

 台湾の話に戻る。

 1970~80年代に台湾を旅行したのは幸せだった。ほとんど毎日、台湾の話を日本語で聞くことができた。そういえば、『台湾万葉集』は名作だが、今台湾に興味がある日本人は、こういう本は読まないだろうなあ。台南スイーツが・・・という本は読んでも。

 こうして日本語人のことを書いていると、1970年代の、旅先で出会った日本語を話す台湾人や韓国人のことをいろいろ思い出す。台湾や韓国の田舎で出会った人が、同じことをしゃべったのだ。

 「日本の方でしょうか?」と話かけられ、「はい」と返事をすると、おじさんは直立不動になり、「ぼくは、○○小学校を卒業しました。日本語を話すのは戦争が終わって初めてです。ぼくの日本語はわかりますか?」

 心配などまったく必要のない確かな日本語だった。子供の頃習った水泳や自転車は、大人になってからでも忘れないのと同じなのか、戦後30年以上たってもすぐに日本語が出てくる世代なのだ。

 韓国では、日本育ちという人に多く出会った。神戸の女学校を卒業したという人や、中学校まで日本ですごし、卒業後すぐ韓国に渡ったが、大人になってから仕事で日本を行き来することが多く、読み書き話すは日本語の方が楽だという人にも会った。釜山の食堂に入ったら、「大阪から来たばかりです」という夫婦が経営者だった。

 1970年代は、酒場や路上で、日本人が話をしていると、「ここは韓国だ、日本語なんかしゃべるな!」と怒鳴りながら、胸倉をつかまれたり殴られたといった事件があったらしい。その時代から韓国に通っている研究者は、「1990年代に入ると、日本語をしゃべっているというだけで、いきなり殴られなくなっただけでも、日韓関係の大きな変化ですよ」と語った。