1766話 アメリカ・バス旅行1980 その13(最終回)

 

 最期に、映画の話を少ししておこうか。

アメリカに行ったら、ぜひ見たいと思っていた映画が2本ある。1本はジャニス・ジョプリンをモデルにした「ローズ」。主演はベッド・ミドラー。製作は1979年だが、日本で公開されたのは帰国後の80年の末だった。「ブルース・ブラザース」は1980年の製作で、日本公開は1981年だった。

 ロサンゼルスから旅を初めても、ニューヨークに着くまで映画を見る余裕などなかった。ニューヨークに着いたら、新聞の映画欄をていねに読み、見たい映画の上映館を調べた。しかし、見たいと思っていた2本は、マンハッタンの映画館のその週の上映スケジュールに入っていなかった。でも、何か見たいと思いつつ宿の近くを散歩していたら、音楽映画らしいポスターが見つかった。公開されたばかりの「フェーム」だった。監督はアラン・パーカー。「ミッドナイト・エクスプレス」(1978)ですでに知っている監督だが、この映画は私の好みではなかった。ずっと後の作品だが、「アンジェラの灰」(1999)は良かった。

 「フェーム」について知っていたのは監督の名前だけで、主演のアイリーン・キャラも知らなかった。音楽学校が舞台の映画なのだが、それは我が安宿のそばで、しかもこの映画館の向かい側が撮影地だと映画を見ていて気がついた。映画の出来は「まあまあ」といったところで、「堪能」には至らなかった。よく覚えていることはふたつある。ひとつは、学校で友人を探しているというシーンで、教室で楽器の練習をしている学生に話しかける。”Excuse me , Do you speak English ?”だ。楽器の練習をしていた学生たちは、ロシア語か東ヨーロッパの言葉をしゃべっていたとはいえ、英語がわからなければこの学校の学生にはなれないのだ。「○○を見かけたか?」という質問をするだけだから、難しい英語ではない。思い出すもうひとつのことは、4年後のサンフランシスコのホテルだ。その時は取材費はたっぷりあり、夜はテレビを見ていると、テレビドラマ版の「フェーム」をやっていた。おまけに、「まさか、この映画をテレビドラマにするか!」と驚いたのが、1970年の「M★A★S★H」(ロバート・アルトマン)だ。この映画が好きで、何度か見ている。

 ニューヨークでぶらぶらしているうちに、「ローズ」の上映館を見つけて、すぐさま見たが、「なんだかなあ」と感じたのは、ベッド・ミドラーがロック歌手に見えなかったからだ。10年ちょと後の映画だが、「フォー・ザ・ボーイズ」(1991)の方がよっぽどよかった。

 「ブルース・ブラザース」ジョン・ランディス監督)はミューヨーク滞在中はスケジュールが合わず、ボストンで見た。予備知識ナシで見たのだが、傑作だ。いまでも、好きな映画のベスト10に入る。ジェームス・ブラウンアレサ・フランクリンが出演するのは知っていたが、チャカ・カーンジョン・リー・フッカーが登場したときは、歓喜狂乱。スピルバーグが出ていたことは、ずっとあとになって、日本でのテレビ放送で知った。

 たった今、ラジオからジョージ・ベンソンの「On Broadway」が流れていて、突然思い出した。この歌が挿入歌になっている映画「All That Jazz」(1979、ボブ・フォッシー監督)は、ジャズ映画だと勘違いして見たのだが、このタイトルは、「・・とか、なんとか」や「などなど、エトセトラ」と言った意味の慣用句だった。ブロードウェイの振付師を描いたミュージカル映画で、現場であるブロードウェイで見たのだが、おもしろくなかったので、いままで思い出すことがなかった。それだけのことだ。

 ボストンからニューヨークに戻り、シカゴに行った、シカゴのバスターミナルを出ると、どこかで見たビルがあり、「初めてなのに知っている不思議」の謎はすぐにわかった。そこはシカゴ市庁舎で、「ブルース・ブラザース」でもラストシーンにシカゴ市庁舎として登場する建物なのだ。そこの役人がスピルバーグだったというわけだ。

 ドタバタ音楽コメディーにシカゴ市が全面協力したのだ。

 シカゴ取材の後、ニューヨークに戻って別件の取材と関係書籍を購入して日本に送り、ニューヨークでの仕事を終えた。今度は西海岸に一気に行く。マンハッタンのグレイハウンド・バスターミナルでバスを待っていると、車体前面に”SAN FRANCISCO”と表示されたバスが乗り場に入ってきた。布に文字を印刷した行先表示だ。私の手にサンフランシスコまでの切符があった。終点まで行くのは、多分私ひとり。運転手もバスも順次交代するが、私ひとりだけが、終点まで乗り続ける。ニューヨークからサンフランシスコまで、約4000キロ。バスは時速55マイル以下(90キロ弱)で走り、運転手やバスの交代などがあるから、1日に16~18時間くらい走った。私の記憶では、サンフランシスコまで3泊4日かかったと思う。実に楽しい時間だった。

 アメリカバス旅行の話は、思い出すことはまだまだあるが、きりがないのでこのくらいにしておこう。しばらく休んでから、別の話をすることにしよう。

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 今朝、アマゾンからメール。「クレジットカードの登録情報に問題が発生しています。再度登録してください」。あぶない、アブナイぞ、みなさん。注文した商品は問題なく到着しているんだから。amazon@egg・・・・というアドレス。

 

1765話 アメリカ・バス旅行1980 その12

 

 例によって、知り合いの知り合いの知り合いという極細の糸をたどって、ニューヨーク市立大学の心理学教授と知り合った。彼は、もともとは放送局の機械技術者だったが、バングラデシュで技術教育をしていたことがある。そのとき、異文化と心理といったテーマに興味を持ち、帰国後に大学院で心理学の勉強にはげみ、教授になったという人物だ。「ユニークな経歴の友達がいるから」と紹介されて会った。私よりも20歳くらいは上だったが、深夜にビレッジの倉庫で開催されたコンサートに連れて行ってくれたりと、いろいろお世話になったのだが、今、彼の名を思い出せない。40年以上前のことだから、許してもらおう。

 その教授が、「明日の授業、見たけりゃ来てもいいよ」というので指定された場所に行ったのだが、そこは大学の構内ではなかった。その場所や授業内容の説明をされたのかどうかの記憶もないので、ネットの力を借りで過去を調べてみる。私が訪れたのはニューヨーク市立大学ブロンクス・コミュニティー・カレッジだったかもしれない。というのも、授業の後、教授といっしょにブロンクスにある学生のアパートに歩いて行ったのを覚えているからだ。「昼飯を買っていこう」といって、かなりの量のサンドイッチを買った。学生の家族の分だとあとでわかった。

 学生の母と5人くらいの兄弟姉妹か親戚かわからない子供たちとの昼食後、大学生とふたりでちょっと話をした。彼は静かに話しながら、プレイヤーに乗せていたレコードに針を下した。声を聞けば、すぐにわかる。スティービー・ワンダーの” The Secret Life of Plants"(1979)は、そのなかの何曲かは日本で聞いたことがある。日本語のコーラスによる”Ai No, Sono”という曲があるから、日本のラジオでも放送したのかもしれない。つい先日のラジオで、このコーラスを担当した在米日本人児童のなかに西田ひかるがいたと、その本人が話していた。

 教授の授業を受けていた大学生の自己紹介。元売人で、足を洗って、市の更生プログラムで大学に通っているといった。自分の更生だけでなく、問題のある若者たちの支援活動を仕事にしている。

 2枚組のLPの1枚目が終わると、ジャケットにしまい、別のレコードを取り出した。ジャケットが見えなかったが、曲はすぐにわかった。コルトレーンの”My Favorite Things”。「サウンド・オブ・ミュージック」の中の曲というよりも、1993年から始まったJR東海のCM「そうだ京都、行こう」で流れていた曲ということで、ジャズに興味のない日本人にもよく知られることになった曲だ。

 昼食と雑談を終えて部屋を出ると、廊下に大勢人がいた。エレベーターが故障したので、階段が大混雑だ。我々がいるのは15階だったかもっと高かったかだったので、暗い階段を下りて行った。20階ほどのアパートとはいえ、ブロンクスのほかのアパート同様、かなりくたびれている。

 ニューヨークのジャズクラブでビル・エバンスを聞いたという話は何度かした。このクラブではフレディー・ハバードも聞いているような気がするが、当時の私には充分に受けとめられる知識がなかったので、ほとんど覚えていない。猫に小判、豚に真珠であった。でも、ニューヨークの音楽生活は実に楽しかった。

 たった今、宿の近所でコンサートに行ったのを思い出した。散歩をしていたら、「用があって行けなくなったんだ。切符を買ってくれないか」と若い男が話しかけてきた。そこはカーネギーホールの前で、間もなく始まるラフル・タウナーのコンサート入場券だった。12.5ドルを8ドルくらいで買ったという記憶がある。

 今、あのころと同じようなニューヨークで音楽ライブやステージ三昧を楽しんだら・・・、とまた計算したくなる。宿&メシも合わせて1日300ドルくらいはかかるのかなあ。ひと月で、約1万ドル、130万円か。安くやっても、100万円だ。あ~あ。

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 今朝は、「イオンカードを再登録してほしい」というメールが来たが、イオンカードなんて見たこともないんだよ。みなさま、くれぐれもご注意を。

 

 

1764話 アメリカ・バス旅行1980 その11

 

 ニューヨークで小さなラジカセを買った。遅ればせながらインタビューを録音するためだが、録音を聞いたらよく理解できるというわけではないので、もっぱらラジオを聞いていた。

 ニューヨーク滞在中はいつもラジオで音楽を聞いていた。ありがたいことに、24時間音楽を流しているFM局があり、その当時はいくつかの局の周波数は暗記していた。「あのとき、よく流れていたなあ」と思い出すのは、ビリー・ジョエルの”New York State of Mind”(1976)だ。歌詞はやさしく、大体の内容はわかった。日本語がまったくない世界だったから、集中力は研ぎ澄まされていた。

 ニューヨークを離れた男が、懐かしのニューヨークに戻っていくという内容で、こういう歌詞が聞こえてきた。

 “I’m taking a Greyhound on the Hudson River Line. I’m in a New York state of mind”(僕は、グレイハウンドのハドソン川線に乗っているんだ。今、ふるさと、ニューヨークにいるんだ。)

 あとからわかったことだが、この歌はアルバム「ニューヨーク物語」(1976年)に収められているが、シングル発売はされていない。この歌を日本で聞いたことがあるかどうか記憶にないが、地元ニューヨークで聞いていて、心に刺さったのだと思う。

 この歌を聞いていて、もうひとつのニューヨークの歌を思い出した。ビリー・ジョエルのこの歌や、フランク・シナトラのカバーでよく知られる“New York、New York”といったニューヨーク賛歌ではなく、「こんな街はいやだ、出ていきたい」と、大都会の孤独を歌ったジム・クロウチの” New York's Not My Home”(1972)は、たぶんほとんどヒットしなかったと思う。ちなみに、歌詞はコレ

 興味深いのは、ジム・クロウチの歌は「ヒッピー」とか「フォークソング」という雰囲気を残した72年の歌で、ビリー・ジョエルの歌の方は、日本の音楽でいえば、音楽的にどうこうというのではなく雰囲気で、ニューミュージックなのかもしれない。ジム・クロウチのように、ニューヨークを出ていきたいと願っている男を描いたのが「真夜中のカーボーイ」(1969)で、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」は、地方都市に住む若者がニューヨークになにかの可能性を感じてグレイハウンドに乗っているという歌だ。

 ニューヨークにいたときは、ここまでの考察はしていないが、のちに「東京と歌謡曲」といったテーマは少し考えていた。そういう関心がもっと強くなるのは、「バンコクと歌謡曲」を考えるようになる1980年代末になってからだ。

 ちなみに、100ドルで買ったラジカセ(香港製だった)は、ロサンゼルスの質屋で売った。14ドルだった。

 今、思い出したことも書いておきたい。このラジカセを買ってインタビューに使ったのだが、ホテルで再生しようとしたら、音が入っていない。そこでその場で録音してみたが、何も録音されていない。何がおかしいのかわからないので、修理屋に持ち込んだ。店員があちこちいじり、「ああ、これか!」とカセットテープを取り出した。テープの裏表が逆という不良品だった。そういう香港製品も堂々と売っている時代だったから、「日本製品は高くても、最高の品質だ」と称賛されていた。そう、ウォークマンが発売されたころの話だ。

 

 

1763話 アメリカ・バス旅行1980 その10

 

 NHKBS「世界のドキュメンタリー ブロードウェイ ミュージカルの街の半世紀」を見た。ブロードウェイ界隈の変遷とそこで繰り広げあられたミュージカルと演劇の戦後史をコンパクトにまとめてあり、いい出来だと思う。ブロードウェイミュージカルにほとんど興味がないのにこの番組をじっくり見たのは、私がブロードウエィ界隈の安宿に生息していたからだ。49th Street /9th Avenueの安宿は、ビルの2階にあり、1階は酒屋、隣りは男性同性愛者向けの専門映画館。宿の周りは、黒革のミニスカートをはいたお姉さんたちが立ち止まり、来客受付所の様相をていしていた。もちろん、売人も多数いたはずだ。映画「タクシードライバー」(1976年)のニューヨークだ。「サタデー・ナイト・フィーバー」は、1977年のニューヨークだ。

 そういう場所だから、宿代はニューヨークにしては安かった。部屋の広さはベッドの1.5倍くらいだから、日本式に言えば三畳間か。狭いが居心地は良かった。宿代は17.5ドルだった。当時、1ドルは資料によれば230円ということになっているが、私の記憶では250円くらいだったと思う。ということは、日本円に換算すれば4300円くらいになる(当時、大阪西成なら1泊500円だ)。交通の便利な場所でしかも個室ということになると、ここより安い宿はそう多くはなかったかもしれない。YMCAはここよりも高かった。週ぎめや月ぎめの契約をすれば安くなるが、予定の定まらない取材旅行だから、前金でまとめて支払うのはまずいと思っていた。

 取材の進行状況は、公衆電話を使った。交換手を通してのコレクトコール(受信者費用負担通話)だ。編集部とはあらかじめ暗号を決めていて、例えば「Mr.SATOに」といえば、特に連絡することはないという意味で、話したいことがあるときは「Mr.TANAKA」あての電話ということにする。こうすれば、電話代がタダで連絡できる。日本側の声は聞こえるので、「今、ボストンです」と怒鳴ることはできる。

 書名も作者も忘れたが、アメリカの小説を読んでいたら、小銭をポケットにたっぷり入れてニューヨークを歩いている男はCIA(FBIだったか?)だという一節があり、私もいつも小銭をじゃらじゃらいわせていたことを思い出した。しょっちゅう取材の電話をしていたからだ。毎週のようにコレクトコールをかけていたことを思い出し、「ああ、そうだ」ともうひとつ思い出したのは、ジム・クロウチのOperatorだ。これが歌詞だ。あのころ、電話交換手の声をよく聞いていた。

 帰国後に、70年代にニューヨークで生活したことがある人に取材旅行の話をしていたら、「電話が使えたんだから、治安はだいぶ良くなったんだな」といった。NHKで放送したドキュメント番組を見ていて、その話を思い出した。1970年代のニューヨークは犯罪多発地帯で、ブロードウェイ界隈もかなり危ない状況だったらしい。70年代後半になって、事情は少しづつ好転して、1980年代には公衆電話が使える程度の治安は戻っていたようだ。このテレビ番組によれば、かつて悪の巣窟(そうくつ)だったブロードウェイは、今ではテーマパークのようになり、ミュージカルを見に来る客の75パーセントは観光客だという。番組の映像を見ていたら本当に変わったことがわかるが、もっと見たくてグーグルマップでしばらく遊んだ。私が滞在していた安宿はもちろんないが、ビルは残っていた。周囲は小ぎれいになっている。

 ニューヨークにはひと月ほどいた。ボストンから戻って、またニューヨークに1週間ほどいてシカゴに行った。シカゴの取材を終えて、「これから西に向かいます」と言おうと編集部に電話をしたら、「悪いが、別件で取材してほしいことができたので、ニューヨークに戻ってほしい」と電話の声は言っている。「もう2度と来ないかもしれない」と思って出たニューヨークに、また戻れるのがうれしかった。グレイハウンドバスでマンハッタンに入って行くたびに、うれしくて興奮する。

 その後、残念ながらその後1度もニューヨークには行っていない。物価は恐ろしいことになり、私ごとき貧乏人が自費で滞在できる街ではなくなくなったようだ。

 「ニューヨークと並んで、サンフランシスコも好きなんだよね。久しぶりに行こうかな」と旅先で出会たアメリカ人に話すと、「サンフランシスコ? 高いよ。ニューヨークよりも高いよ」と、見るからに貧乏人そのものの私に同情して「覚悟のほどを」とアドバイスしてくれた。アメリカ労働統計局の報告では、平均時給は31.85ドルだから、4000円ほどだ。ニューヨーク州のファーストフード店従業員の最低賃金は15ドルだから、2000円弱か。しかし、その時給では、人は集まらないらしい。レストランの旧称ウエイター&ウエイトレス(今はfood serverが「政治的に正しい」らしい)なら、チップも入るので、時給計算で25~30ドルかそれ以上になるらしい。30ドルなら、1ドル135円として4000円ほどになり、上記平均時給に近くなる。「貧しい日本からアメリカに出稼ぎに行くか」という1960年代以前の日米関係に戻るのか。

 

 

1762話 アメリカ・バス旅行1980 その9

 

 そのジャクソンが、「日程の問題」ということで取材できなかった人がいた街だ。

 木曜日の夜、ミシシッピー州ジャクソンに着き、金曜日に先方に電話したら、「来週月曜日の朝にならないと来週のスケジュールが決まらない」というので、月曜日にまた電話することにした。

 宿の近くに、車が2台やっとすれ違えるくらいの道があり、その左側は白人の姿しか見えず、右側は黒人ばかりで、道路の裏は粗末な家が点在していた。家ができたときは小ぎれいな「新築一戸建て」だったのだろうが、手入れをしないまま長い年月が過ぎた姿をさらしていた。空き地では子供たちがはしゃいでいた。昼飯を食う場所は白人側にしかなく、こちらも古ぼけただけの食堂に入ると、老いた常連客たちが、入ってきた私を凝視した。にらみつけたと言ってもいい。食事をする気にはなれず、コーラを飲んですぐに店を出た。

 映画「イージーライダー」(1969年)で、オートバイに乗った3人が入った食堂とその常連客の目を思い出した。その当時、私は腰まで髪を伸ばしていた。

 「これから東に行くんだけど、イージーライダーのような目に合うかな?」とロサンゼルスで取材を受けてくれた人に聞いた。その人物はカウンターカルチャーとかヒッピーの時代をよく知っていて、世間の真ん中を生きてきた人ではないから、私の言わんとすることはすぐにわかった。

 「髪が長いというだけで、いきなり撃たれるということはもうない・・・ような気がするけど、南部に関して言えば、この10年で状況が大きく変わったとは言い難く・・・」と、えらく歯切れが悪い。

 こんなジャクソンで週末を過ごすのはいやだ。バスターミナルで路線図を見て、週末はニューオリンズで過ごすことにした。真南に260キロの週末旅行だ。

 月曜の朝、ジャクソンに戻り再び取材依頼の電話をすると、「その人物は、しばらく出張中」と別の社員が言った。本当に突然の出張だったのか、それとも取材を断る居留守だったのかわからないが、もうこの街にもう用はないので、すぐさまバスに乗り、またニューオリンズに南下した。ニューオリンズに着く少し前、バスは水上を走る。ポンチャートレーン湖縦断水上橋コーズウェイ(38キロ)のドライブだ。考えてみれば、この時の取材旅行で、仕事とはまったく関係ないのに訪れた街は、このニューオリンズだけだった。出発前の思惑では、早々とインタビューをこなし、空いた時間はどこかで遊んでいようと思っていたのだが、そんな余裕はまったくなかった。

 私は建築に興味があるが、ガラスと鉄の現代建築には興味がないので、ロサンゼルスのような街は肌に合わない。私が知っている街でいえば、サンフランシスコやニューオリンズやボストンのような街が好みに合う。

 ニューオリンズには2度滞在したのに、記憶していることは少ない。公園で警察のブラスバンドの演奏を聴いた。その1曲が“And The Beat Goes On”(The Whispers、1976)だったのは、今でも覚ええている。そのほかは、何をしていたのか記憶がない。何を食べたのかも覚えていない。

 路面電車が好きなのに、「欲望という名の電車」に乗った記憶がない。なぜ乗らなかったのかという理由もわからない。ただ、ニューオリンズが私の肌に合い、ただ散歩をしていたと思う。観光客向けのジャズバーには、もちろん行っていない。かといって、ドクター・ジョンやネビルブラザーズに代表されるニューオリンズ音楽を求めて街をさまよったということもなさそうだ。1980年当時、私はまだニューオリンズサウンドを知らなかったと思う。今調べてみれば、1978年の映画「ラスト・ワルツ」でドクター・ジョンを見ているのだが、ニューオリンズ音楽に関する知識は、まだなかったのだろうと思う。

 これからの取材を考えながら街を歩いていた。取材ノートには、この先ニューヨークまでインタビュー候補者の名はないので、一気にニューヨークまで行こうか考えていた・・・のだろうと思う。

 

 

1761話 アメリカ・バス旅行1980 その8

 Whopperとは、「バカでかい物」という意味の単語だが、バーガーキングのバカでかいハンバーガーの商品名でもある。私はハンバーガー事情に疎いのだが、多分マクドナルドのビッグマックに対抗する商品なのだろう。

 今、ネットでバーガーキングのワッパーを調べると、直径13センチの巨大ハンバーガーと説明している。CDが直径12センチだから、それ以上に大きいのだが、初めて見たワッパーはそれ以上大きく見えた。ワッパーのサイズは変化しているというので、1980年のワッパーは直径13センチ以上あったかもしれない。

 ベジタリアンではなく、自然食品愛好者でもなく、健康的な食事にはそれほど関心のない私だが、こういうモノを食い続けていては心と体にいい影響は与えないという気はする。アメリカの恐ろしさは、こういう巨大な高カロリー食に慣れてしまうことだ。

 バスターミナルで9時になるのを待ち、弁護士事務所に電話した。紹介者の名を告げたのだが、「そんな男は知らない」といいつつ、話がうまくかみ合わない。私が弁護士に相談したいことがあると思ったらしい。

 「いや、私がインタビューをしたいのです」

 「じゃあ、そのインタビューを受けると、いくら支払ってくれるんだい」と聞くので、「残念ながら・・」と答えると、ガシャと受話器を置く音が聞こえた。こちらはご厚意にすがって話を聞こうとしているので、断るのも当然。日本から来たわけのわからん男のインタビューを受けるメリットなど、その弁護士に何もないのもわかる。

 ただし、アメリカ人の名誉のために言っておくと、この時の取材で50人ほどに取材依頼の電話をした。まったく知らない日本人からいきなり電話がかかってきて、「会って、話を聞きたい。できればなるべく早く。車を持っていないので、どこか適当な場所で・・・」という取材依頼を断ったのはたったふたりだけだった。もちろん、「○○さんに紹介してもらって・・」と紹介者の名を出して電話をしたのだが、50人中即座に断ったのが、ダラスのこの弁護士とロサンゼルスの日本人サラリーマンのふたりで、理由は同じで「そんな取材を受けて当社と私自身に何の利益があるのか。ないでしょ」だった。日程の都合がつかないという理由で断ったのがひとりいたが、本当に日程の問題だったかは不明だが、もちろん深く追求などしない。

 住所氏名を教えてくれた紹介者とインタビューを依頼した相手との関係の深さが影響しているのだろうが、インタビューの後ホテルまで送ってくれたり、「今夜は、うちに泊まればいいよ」と言ってくれた人もいた。

 ダラスにはもう用はない。これからどこに行こうかとバスの時刻表を見た。行先の地名に「Fort Worth」の名があった。知っているテキサス州の都市は、ヒューストン、ダラス、西部劇で覚えたエルパソともう1カ所。日本人にはあまり知られていないが、人口では州5位の街フォートワースを、私は知っている。ジャニス・ジョプリンが生まれ育った街だ。だからといって、わざわざ行くこともないので、ダラスから東へ一直線の旅をして。ミシシッピー州ジャクソンに向かった。

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 ご注意あいかわらず、怪しいメールが毎日のように届く。まったくかかわりのない駅ネットやメルカリから、「セキュリティーのため、再登録してください」。1度も登録なんかしてないんだよ。ヤマト運輸と称するところから、「ご注文の荷物は6月24日(日)到着予定でしたが、少々遅れています。つきましては・・・」と注文内容の確認へと誘う。24日は金曜日なのだよ、にせヤマト。みなさんは私よりもはるかにデジタル力は上だとは思いますが、くれぐれもご注意を。自称アマゾンも危ない、アブナイ・・・と書いたら、たった今。ニセamazonからメール。「    様から送られたアマゾンギフト券ですが・・・」というところまで読んで、削除。送り主の名が空欄というのはおかしく、私にギフト券など送る人はいない。あぶない、アブナイ。

 

 

1760話 アメリカ・バス旅行1980 その7

 1980年の取材旅行では、ガイドブックは持っていなかった。観光旅行ではないので、英語の旅行ガイドを買っても使わないと思ったからだ。資料は小さな地図だけ、ノートには取材先の住所を書いていた。インタビューしても、メモを取らない。話を聞いたら、できるだけ早く原稿にする。だから、ノートにはほとんどなにも書いていない。移動ルートのメモといった日記のようなものもない。だからブログのこの文章はすべて記憶で書いているが、20代で、ひとりで集中して移動していたからか、取材の大筋と、場合によっては細部も、わりと覚えている。

Hopper

 テキサス州ダラスだ。ミズーリ州セントルイスからのバスで、早朝、この街に到着した。取材させてもらった人たちに、「取材させてくれそうな人がいたら、紹介してください」といって、ノートを渡し、氏名と連絡先を書き出してもらった。そのリストのなかに、ダラスの弁護士がいた。取材させてもらえるかどうかの電話はダラスに着いてからすることにしている。電話代が高いから、遠隔地からあらかじめ電話する経済的余裕はなかった。

 バスがついたのが早朝5時前だから、弁護士事務所に電話するのは早すぎる。外は大雨だから、散歩もできない。時間つぶしに、コーヒーを飲みにバーガーキングに行った。グレイハウンドと提携関係にあるのか、ターミナルにはたいていバーガーキングが入っていた。

 コーヒーを飲みながら文庫本を読んでいると、「ここ、いい?」という声が聞こえた。30代の黒人が立っていた。

 「どうぞ」

 私に面接するかのように真正面に座り、「暗号がタテに続いているようなのは、何語ですか?」と聞いた。日本語だという話をして、旅の目的などを聞かれたことから、ライターだと答えた。

 「ぼくも、小説を書いているんだ」と話を合わせてきた。

 「どんな本を書いたの?」

 「いや、まだ本にはなっていないけど・・・」

 私も同じだ。まだ1冊の本も書いていない。

 「どんな作品が好きなの」という質問から、アメリ黒人文学の話に入っていった。1970年代前半は、アジアの本と同時に、R&B(リズム&ブルース)やジャズへの興味から、今風に言えば、アフリカ系アメリカ人関連書をまとめて読んでいた。その後、70年代後半から90年代末までは、アフリカの本を読んでいた数年間を除き、東南アジアや韓国・台湾の本を読み、2000年代に入りヨーロッパの本を多く読むようになった。

 1970年代前半に読んでいたのは、アメリカ黒人の歴史や評論などが主だが、より深く深く知りたくなって小説も読んだ。ラングストン・ヒューズ、リチャード・ライト、ジェームズ・ボールドウィン、ラルフ・エリスンなどわずか10人足らずの作家の本を読んでいただけだが、バーガーキングの「小説家」に質問はできる。

 具体的にどういう話をしたか覚えていないが、「おもしろかった」という記憶はある。

 「あの、ちょっと・・・」と、小説家は言い出しにくそうに話し始めた。

 「昨日からメシを食ってなくて、飯を食わしてもらえないだろうか」

 その時初めて気がついた。彼は手にはトレイもカップも持たずに、私の前に座ったのだ。即座に「飯代をくれ」とは言えずに、話を切り出す気配をうかがっていたようだ。

 普通なら断るのだが、講師謝礼として数ドルを渡した。ハンバーガーと飲み物が買えるはずだ。カネを持ってそのまま消えるかと思たのだが、小箱を手にして同じテーブルに戻ってきた。紙の箱には巨大なハンバーガーが入っていた。

 「それ何?」

 「ワッパー(whopper)さ」