1456話『食べ歩くインド』読書ノート 第4回

 

 

 この読書ノートは、取り上げるテーマが多岐にわたり、長短いろいろあるので、いままでのこのコラムのように、1回1話で構成することはできない。したがって、箇条書き風の構成になり、話の途中で「次回に続く」ということになるだろうが、まあ、その時はその時だ。内容をまとめずに、ページの順に書いておくことにする。今まで、カレー・ライターやインド・ライターが書いてこなかったことを書きそうな気がする。ということは、多くの人には関心のない話題なのだろうが、それはいつものことだ。

 

 『食べ歩くインド 北東編』

P27ハルワー・・中東起源の菓子でムガル帝国時代に広まったという。この菓子をインドで見ているのかどうか、記憶にない。この菓子の名前と姿を確認したのは、ケニアラム島だった。インドに詳しい旅行者と街の市場巡りをしていて、ペースト状のものを、「ああ、インドでも、これあるよ」と言った。その時に聞いた菓子の名をハルワーに近い名前だったと思う。しかし、「ああ。これか」とは思わなかった。私が見たインドの菓子は、ハエだらけで真っ黒になっている路上の菓子で、「ひどく甘い」という話も聞いていたので、「物は試しに」と口に運ぶことはなかった。

 それから20年ほどして、プラハの話でこの菓子が登場した。『旅行者の朝食』(米原万里文藝春秋、2002)の「トルコ蜜飴の版図」という章で、1960年前後のプラハに、日本語に翻訳すると「トルコの蜜飴」というものがあり、チェコでは人気の菓子だったという。米原は1959年にプラハの小学校に転校している。同級生たちが、この「トルコの蜜飴」がいかにおいしいかと語り合っていると、ロシア人の同級生イーラが、「ハルヴァの方が百倍美味しいわ」と言ったことがきっかけで、著者のハルヴァ研究が18ページにわたって続く。私が「インドの菓子」として認識していたものが、ロシアまで広がっていたということがわかる。モスクワから買ってきたハルヴァは、ニベアの缶のよう容器に入っていて、ロシアの文字(キリル文字)で「ハルヴァ」と書いてある。ハルワは南アジアからモロッコあたりまで広がり、中央アジアにも広がっていたせいで、ソビエト連邦イスラム系の国で製造されたのが、「ハルヴァの缶詰」かもしれない。

P27セモリナ・・セモリナとは粗挽きの粉のことで、特定の穀物の粉のことではない。一般的には「ドゥラム・セモリナ」のように、ドゥラム小麦(硬質小麦)を粗挽き(ヒキワリ)したものというときに使う。外国では、コメのセモリナとか、トウモロコシのセモリナという表現もあるようだ。この本には「セモリナ」という語がよく登場する。著者は巻末の用語解説で、「スージー・・・セモリナ。粗挽きの小麦粉」としている。これは著者が決めた表現なのか、インドの常識なのか。”World Food INDIA”(Lonely Planet,2006)の巻末食文化辞典を見ると、"suji-- semolina"となっている。う~む。普通小麦の粗挽きも「セモリナ」というのだろうか。インドのドゥラム小麦の生産量は少ない。

P30一八八〇年創業の・・・。外食史あるいは外食産業史というのは、非常に興味のあるテーマだが、フランス以外の国の事情が語られることは少ない。フランスの例というのは、フランス革命で職を失った王宮の料理人が、街で料理店を始めた。これがフランスでレストランが生まれるきっかけであるという話だ。フランスだけでなくヨーロッパに、フランス革命以前には飲食店はなかったという意味ではない。ワインを飲ませる店はあり、つまみを出しただろう。宿泊施設に飲食できる場もあっただろう。しかし、店にメニューがあり、客が料理をあれこれ注文し、ゆっくり食事ができる場という意味でのレストランは、フランス革命(18世紀末)以降誕生したというわけだ。

外食産業という意味では、中国が他に抜きん出て早い。石毛直道さんの『食卓の文化史』(文藝春秋、1976)によれば、「中国は世界でいちばん早く、飲食店が発達した国である。前漢の中頃からすでに都市には飲食店がひしめいていた」という。前漢とは、紀元前206年~8年だから、驚きだ。日本では、江戸時代初めには屋台や食べ物の行商はあったが、まだ料理屋はない。そば屋が登場するのは17世紀中ごろらしい。それ以降しだいに、一膳飯屋などができ、料理茶屋へと広がっていく。

 石毛さんは、こうも書いている。「昔のインドやアラビアに料理店があったかどうか、調べたが、どうもよくわからない」という。菓子やパンを売る店はあっただろうが、料理屋と呼べる外食産業はなかったようだ。

 タイの外食産業史の話を、次回に。

 

1455話『食べ歩くインド』読書ノート 第3回

 

 

 前々回、食べ歩きガイドはいままでほとんど買ったことがないと書いたが、正確に言うと、あれは誤りだった。日本の食文化史を知るために、かなり昔に出版された料理店ガイドを買い集めたことはある。だから実用目的ではないが、資料として料理店ガイドは買ったことはある。

 『続・東京味どころ』(佐久間正、みかも書房、1959)で、「カレーライス」に分類されている店は、「サモワール」(江戸橋)、「ナイル」(銀座)、「中村屋」(新宿)、「富士アイス」(有楽町)、「レストラン・サンバード」(銀座西、高速道路下)。

 『日本で味わえる世界の味』(保育社カラーブックス、1969)で紹介しているインド料理店は、銀座の「ナイル」ただ1軒。

 時が流れて1984年、『東京エスニック料理読本』(アルシーヴ編、冬樹社)が出た。その料理店リストから、インド料理店に分類されている店を書き出してみる。「アジャンタ」(九段)、「アショカ」(大阪市北区)、「アショカ」(京都市)、「アショカ」(銀座)、「デリー」(銀座、上野)、「ナイルレストラン」(銀座)、「ナマステ・ジ」(神戸)、「マハラジャ」(横浜)、「ムルギー」(渋谷。「カレー店」の分類)、「ベンガル」(渋谷。「バングラデシュ料理」の分類)、「モティ」(赤坂、六本木)、「ラリグリス」(埼玉県鶴ヶ島町、「ネパール料理店の分類)。

 記憶を呼び起こすと、「アショカ」(銀座)、「ナイル」、「ムルギー」、「モティ」に行ったことがある。アショカは、インド政府観光局と同じビルに入っていたという記憶があり、インド旅行の情報を集めに行った帰りに立ち寄った。「モティ」は雑誌の取材だ。1970年代のインド料理体験は、310話(2011-02-11)ですでに書いた。

 九段のアジャンタで料理修行をして、雑誌「オデッセイ」でインドの食文化のイラストルポを書いていた浅野哲哉さんの『インドを食べる』(立風書房、1986)と『風来坊のカレー見聞録』(早川書房、1989)も、本棚から見つかった。『インドを食べる』出版後、浅野さんに会ったことがある。有望な書き手だと期待していたのだが、インド食文化の研究やイラスト付き旅物語という企画に関心があるかどうか以前に、文章を書くこと自体にもはや興味がないようで、食文化研究の新星を失った。この2冊の本のそばにインドやスリランカ料理の本が数多くあり、「ああ、こんなに買っていたんだなあ」と驚くのだが、4度目のインド旅行を計画することにはならなかった。

 私が関心のある食文化の資料は、インドに関しては「朝日百科 世界の食べもの」以後ずっと出版されなかったが、2006年に『世界の食文化 インド』(小磯千尋・小磯学、農山漁村文化協会)が出た。食文化史や宗教と食文化、食材、食のグローバル化、台所と調理用具などについても言及した本で、世間に数多い「カレー本」とはまったく違う。『食べ歩くインド』でこの本を「参考文献」に挙げていないのは、内容に問題ありということなのか、あるいはこの程度の資料は英語文献でいくらでも出ているからということなのだろうか。

 前説が3回分あったが、次回から、いよいよ読書ノートを始める。

 

1454話『食べ歩くインド』読書ノート 第2回

 

 

 『食べ歩くインド』が出るまでに私が読んだインド食文化関連書のいくつかを書き出してみよう。

 国会図書館の蔵書リストで、書名に「インド料理」という語が入っているもっとも古い本は、タイムライフブックスの「世界の料理」シリーズの1冊、『インド料理』(サンタ・ラマ・ラウ、1974)である。1970年代はもちろん1980年代前半になっても、西洋料理と中国料理以外の日本語資料を探すと、このタイムライフブックスのシリーズしかなかった。その時代、このシリーズの『太平洋/東南アジア』 (1974)を熟読玩味していた若きライターが、私と森枝卓士である。「あのころ、このシリーズしかなかったよね」とのちに話題に出たことがある。

 『インド料理』の著者サンタ・ラマ・ラウに関しては、すでにこのアジア雑語林の441話(2012-09-12)で書いた。著者は6歳でインドを離れ、イギリスやアメリカで暮らしてきた人なので、インドの生活体験はほとんどないようだ。だから、この本の内容も伝聞や文字資料によるものだろうが、そういう問題点を云々する以前に、「これしかない」というのが現実だった。だから、神田神保町の古本屋悠久堂にせっせと通い、この「世界の料理」シリーズを買い集めたのである。

 食文化研究者のタマゴにとって、その次に出会った有益な資料は、朝日新聞社から出た「朝日百科 世界の食べもの」だ。1980年から3年間にわたって全140冊が出た。編者グループの中心となったのが石毛直道さんだから、西洋料理中心になることはなく、アフリカも中東も視野に入れた名シリーズで、現在でもこれを超える資料はない。定価460円で140巻だから、単純計算で総額6万4400円だ。超ビンボーライターには手が出ない。そこで、悠久堂で折に触れて数部ずつ買っていたが、手に入らない巻も多く、ちょうどそのこと朝日新聞社でちょっとした仕事をしていたので、社員に頼んで社員割引きで買ってもらったりもした。そういえば、開高健の『もっと遠く!』、『もっと広く!』の2冊も、社員割引きで買ってもらったことを思い出した。今、古本事情を調べると、この2冊セットで2万円ほどするらしい。

 そういえば、朝日新聞社で編集の手伝いをしていたそのころ、旅行雑誌「オデッセイ」時代からの知り合いで、「ガロ」などで漫画を描いていた清宮政子さんと社内通路でばったり会った。彼女は、社内のどこかの部屋でブックデザインの仕事をしているといった。「旅に出たいね」などと、立ち話をした。それから長い月日が流れ、バンコクジュライホテルの前でばったり出会い、その数年後に『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』(筑摩書房、1988)のデザインを担当してもらうことになったという話に進むと、横道にそれすぎて長くなるので、割愛する。

 このコラムの下調べのため、今、ウチの食文化棚を点検したら、忘れていた本が何冊も出てきた。次回はその話を。

 

 

1453話『食べ歩くインド』読書ノート 第1回

 

 『食べ歩くインド 北東編』『同 南西編』(小林真樹、旅行人)を読みながら、傍線を引き、付箋をつけた部分に関して、発見や疑問や調査や思い出などさまざまな事柄を、これから書いていこうと思う。

 最初に私の立場を明らかにしておくと、インドやインド料理に関する私の知識は、この本を読んだ人の中で、おそらくもっとも低いだろうと思う。つまり、私はインドにもインド料理についても、ほとんど何も知らないのだ。しかも、食べ歩きに興味もないし、食べ歩きエッセイやガイドを、いままでほとんど読んだことがない。この本は、著者が食べ歩いたインドの料理と料理店の解説とガイドだから、著者の意向と私の関心は方向が違う。

 インドに行ったことがないわけではないが、最後に行ったのは1978年のボンベイだ。小林さんが生まれる前の話だ。エジプトに行く途中に1週間ほど立ち寄っただけだ。それが3度目のインドでしかも最後だから、私の知識はボンベイであり、カルカッタであり、マドラスのままだ。インド関連の本は翻訳小説も含めれば40冊くらいは読んでいるだろうが、たいした量ではないし、知識が反復されないから、過去の読書が霧の中に消えている。わかりやすく言えば、「もう、すっかり忘れた」ということだ。

 食べ歩きには興味はないが、食文化には多少の知識と強い興味がある私が、いわゆる「インド好き」の人たちがいままであまり書いてこなかった話を書いていきたい。それが私の『食べ歩くインド』の読書ノートだ。

 この本を読んだ人は、著者である小林さんの行動力や調査する根気や好奇心、そして2巻本もの原稿を書く地道さに感心したことだろう。私もその点では同じなのだが、書き手よりもむしろ、本を作る側を讃えたい。書き手は、書くことを楽しんだだけだ。旅することも、調べることも、文章にすることも、大いに楽しんだはずだ。食べ歩く毎日が、たまらなく楽しかったに違いない。つまり、道楽である。遊びだから、精いっぱい、充分に堪能したのだ。私自身の体験で言えば、文章を書くために、現地で調べ、図書館に通い、古雑誌やマイクロフィルムを読む日々が続いたり、古本屋歩きをしたり、山と積んだ資料を読んでいったりしたが、それが「苦しかった」という思い出など、まったくない。新しい事実がわかり、さらに調べれば、それが誤りだったとわかったり、毎日が実に楽しいのだ。小林さんも、きっとそういう体験をしてきただろうと思う。やっていることが道楽と考えないと、こんな大変な本は書かないのだ。取材費は印税で賄うという経済を考えたら、インド亜大陸全域取材などという不経済なことはできるわけはない。そういう取材をやってみたいという「もの好き」にしか、こういう本は書けない。小林さんほどの道楽者は他にいそうもないので、この本を超える類書は今後出版されない。カネを稼ぐことを考えるなら、「詳しいカレー本」を書く方がずっと楽だ。

 編集者やブックデザイナーや出版社社長(この本の場合、その三者は同一人物なのだが)は、楽しいだけでは仕事にならない。道楽ではできない。インドに詳しいという点では、蔵前さん以上の編集者もブックデザイナーも出版社社長もいない。その蔵前さんが、著者よりも原稿を精読し、内容の整合性を考え、細部にわたって誤記誤字脱字を探さないといけない。当然だが、全ページのデザインをしているのだ。そして、この本がもしも売れなかったら、版元としてその責任を負うことになる。つまり、損をするということだ。

 普通、書評は書き手をほめるのが常識だろうが、私は編集者の努力を評価したい。書き手や編集者なら、この本のゲラ(試し刷りの束)を前にしたら、逃げ出したくなるだろう。ただ読むだけなら、楽しいだろうが、校閲するとなると、気が重くなるはずだ。

 実は、そういう行為の千分の一ほどのことを、私はこれからやろうとしているのだ。日本語のテニオハとか文法を点検するわけではないし、インド料理名の表記もいっさい気にしないが、食文化に関わる部分だけ、読書ノートという感じで書いていこうと思う。

 

 

 1452話 その辺に積んである本を手に取って その9(最終回)

 建築と街歩きの本

 

 1445話で書いたように、建築や街歩きの本を調べていて、『昭和の東京』を見つけてネット書店に注文した。すぐあとで、『くらべる世界』を注文したのだが、引き続きアマゾン遊びで建築や街歩きの本を探していて、『一度は行きたい幻想建築』(小谷匡宏、ビジュアルだいわ文庫、2020)を見つけた。建築家であり建築研究者が、世界のアール・ヌーボーを探した建築探訪写真集だ。アール・ヌーボーはあまり好きではないが、世にいくらでも出ている「世界の名建築」といったものとはまったく違い権威臭さがないのがいい。見つけてすぐに、ほぼオールカラーの文庫を買った。

 著者の考えか、それとも編集者の案かどうか知らないが、世紀末建築関連用語集がついていて、素人にはとても便利だ。たとえば、フランス語のアール・ヌーボーは、ほかの国では何と呼ばれているのかもわかる。イタリアでは、イタリア・リバティ、オーストリアではウィーン・セゼッション、それから・・・とほかの国の例を写真で説明している。一般的な建築用語集もでているので、ボウウィンドウというのが、弓型に張り出した出窓ということもわかる。

 この文庫はていねいに作った本なのだが、私がアール・ヌーボーをあまり好きではないので、「ごてごて飾りまくった建物はごめんだね」と言いたくなる。私が好きなのは、ゴタゴタ飾りを辞めて、しかし鉄とガラスの四角いビルになる前の1920年代のアール・デコの住宅だ。だから、『アール・デコの館』(藤森照信増田彰久)はもちろん読んでいるのだが、いま調べたら『アール・デコの時代』(海野弘)を見つけた。単行本は送料込みで600円ほどからあるが、文庫はどうしたわけか送料込みで3000円を超える。今は読みたい本が山になっているので、アール・デコにはまだ手を出さない。

 街歩きの本を探しているなかで、アマゾンの広告に出てきた2冊の本の著者名を見てびっくりした。『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』正・続(J.ウォーリー・ヒギンズ、光文社新書、2019)だ。この本の著者は、鉄道ファンの間では超有名人だろうが、鉄道ファンではない私でも知っている。1950年代から日本やアジアの鉄道写真をカラーで撮影してきた人だ。

 私が初めてこの著者の名を知ったのは、『発掘 カラー写真1950・1960年代鉄道原風景 海外編』(ジェイ・ウォーリー・ヒギンズ:写真、窪田太郎:解説、JTBパブリッシング、2006)だ。この本のすばらしさは、すでにこのアジア雑語林502話(2013-05-14)で詳しく書いている。

 昔の写真はモノクロだと思っていて、戦後間もなくの写真だと、暗い戦後の悲しみという印象を受けるのだが、進駐軍関係者が撮影したカラー写真を見ると、「明るい時代」も読み取れるから不思議だ。これが『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』だと、1960年代の写真だから、私が現実に見た風景もあるわけで、それは当然「天然色」で見ているわけだが、記憶はいつの間にかモノクロに変換されている。戦後海外旅行史の研究のため、戦後史資料、とくに写真資料はかなり集めた。それらはすべてモノクロだったから、記憶も塗り替えられたのだ。

 1950~60年代の日本映画は、その映画そのものに興味はなくても、その時代の東京を見たくて録画することがある。映像は歴史が凍結されているから、映画の本筋とは関係ない細部を見つめて楽しんでいる。

 もしも書店で『秘蔵カラー写真・・・』を見つけたら、おそらくすぐさま買っただろうが、幸か不幸か、ネットで見ると、立ち読みができないから、ブレーキがかかっている。私の趣味は読書であって、本を買うことではないから強めのブレーキが必要なのだ。

 本の話はキリがないので、今回のテーマは今回これで一応終わりにする。

 

 

 

 

1451話 その辺に積んである本を手に取って その8

  ロマンチック街道

 

 深夜のNHKBSでヨーロッパを空撮した番組が何度も放送されていて、その1本を見て、「まあ、なんということでしょう」と、リフォーム番組のナレーションのような状態になった。雪のロマンチック街道の空撮映像を見て、「いいなあ、行きたいなあ」と思ってしまったのだ。

 旅を始めた20代のころ、旅したい国はいくらでもあったが、「行きたくないなあ」と思う国がいつくかあった。そのうちの2か国がドイツとオーストリアだった。風景だけでなく、感覚として「陽光」を感じないのだ。黒い雲が低く垂れこめて、「院院滅滅」の気分を表現しているようで、それはなにもドイツとオーストリアに限った話ではないのだが、なんだか寒くてつまらない国だろうと思っていた。興味がないから、ドイツを映像で見ることをしなかった。

 そう、つい先月までそう思っていたのに、おいおい、それがロマンチック街道だとよ、笑っちゃうぜという感覚だった。「雪のネルトリンゲンは美しいなあ」と、感じてしまったのだ。それで、すぐさま、『ドイツ・ロマンティック街道』(小谷明・阿部謹也・坂田史男・伊東智剛、新潮社、1987)を注文してしまった。もう少し建築の話が出てくるかと思ったが、詳しい説明がないから、うっかりするとドイツ建築史関連資料に手が伸びてしまうかもしれない。未読の本が山になっているのだから、これ以上はできるだけ本を買わないようにしないと。買うなら、神田神保町南洋堂で、現物の本を点検してから買いたい。

 ドイツの建築が気になったいきさつは、こういうことだ。

 まず、ドイツそのものに対する興味だ。若者の旅行史を探ると、たいていドイツに突き当たる。旅が人間を鍛えるという思想を制度にしたのが、放浪職人だ。中世から現代まで続いている職人養成システムだ。20世紀初めに、ワンダーフォーゲル運動とユースホステル運動が始まる。そういうことがわかり始めたので、いままで手にすることもなかったドイツ関連書をここ10年ほどの間に買い集めることになっていた。このテーマに関しては、このコラムの330話(2011-06-01)ほかで何度も書いている。

 チェコポーランドバルト三国の歴史を勉強すると、中世から近代にかけて街を作ったのはドイツからの移民だったということがわかった。当時のドイツ人はあらゆる方面のエキスパートで、医学や薬学をはじめ、土木・建築の知識と技術も、ドイツ人が抜きん出ていた。最近の旅は、結局ドイツ人が作ってきた街を見ていたのだとすれば、ドイツ本国の建築も見ておこうかという気分になってきたのだ。プラハで会ったドイツ人とプラハの建築の話をしていたら、「こういう建物はドイツにいくらでもあるよ」とあっさり言われて、「それなら見に行こうか」と思ったが、ドイツの滞在費は私には恐ろしく高いなあなどとためらいつつ、いつ行けるかもわからない未来の旅行のことを考えていたときに、深夜のテレビで雪のロマンチック街道を見てしまったのだ。

 ロマンチック街道に行ったことはもちろんないが、縁がないわけでもない。ライターを始めたころ、旅行パンフレットにちょっとした解説を書く仕事をもらった。例えば「エッフェル塔」だの「アンダルシア」だのといった写真に少し解説文を書く仕事で、そのなかに「ロマンチック街道」があった。ビュルツブルクからフュッセンまでの400キロほどの街道とその周辺の街を総称して、ロマンチック街道と呼ぶ。パンフレットの解説にどう書いたかは覚えてないが、波風立てないように気をつけて書いたと思う。「波風立てないように」というのは、このロマンチック街道もメルヘン街道も、その歯が浮くような名前に「ケッ!」となっていたからだ。「おお、恥ずかしい、ハズカシイ!」と思っていたが、波風立てることなく、仕事を終えた。

 そのころか、あるいは少し後になってからか、「ロマンチック街道の名は、『ロマンチックな映画』という意味のロマンチックではなく、単に『ローマに通じる道』という意味に過ぎない」という解説を読んだ。その説明を今まで信じていたのだが、今回ロマンチック街道について改めて調べてみたら、どうやら誤報のようだ。ドイツ観光局のサイトなどによれば、『地球の歩き方 ヨーロッパ』の1979年初版が誤報の発生源で、それをウィキペディアが盗用し、ドイツ観光局の訂正で2005年ごろまでに訂正されたという。

 ドイツ観光局広報サイト「ロマンチック街道の意味は?」

 ロマンチック街道とは、「ロマン主義的な街道」ということで、1950年代に観光目的のCMコピーだったらしい。しかし、世界の観光業者や観光客は「ロマンチックな街道」と誤解して、話題になったらしい。もしかすると、誤解されるのを見越してわざとこういう名前にしたのかもしれない。じつは、この「ロマン主義」というのも、わかったようでわからない用語で、西洋史が専門のある教授に、「ロマン主義を200字で説明してくださいと言ったら、どう説明しますか?」とたずねたら、絶句してしまった。ロマン主義は、場所と時代と分野によってさまざまな姿を見せ、理解するのはとても難しいのに、「男のロマン」などという表現とともに日常でもよく使われている。そして、残念なことに、「サルでもわかるロマン主義」といった本はないのだ。音楽の解説や文学の解説に「ロマン主義」が出てきても、「で、結局、全体として、ロマン主義ってなに?」なのだ。高校世界史の教科書にも「ロマン主義」がでてくるが、わかったようなわからない解説がついていて、やはりわからないのだ。   

 だから、「ロマン主義の街道」だと説明されても、私のボンクラ頭では「なるほど、そうなんですか」にはならないのだ。

 

1450話 その辺に積んである本を手に取って その7

 味噌、納豆、醤油

 

 小林真樹さんが旅行人の新刊『食べ歩くインド』を送ってくれたのだが、すぐには読めなかった。ちょうど『謎のアジア納豆』(高野秀行、新潮社、2016)を読み始めたところだったからだ。この本も、買ってから時間がたち、そろそろ古漬けになりそうになって、「未読の山」から取り出したのだが、ちょっと前に文庫化されたそうで、願わくば「単行本に大幅に手を加えた、増補改訂版!」の文庫でないといいのだが、逆に言えば、カラー写真を多数掲載したビジュアル版なら、大歓迎だ。開高健の『オーパ』ほど写真を多用しなくても、カラー写真が少ないというのが、この本の最大の欠点かもしれない。この本が、『食べ歩くインド』のように、カラー写真を多用した構成だったら、もっと素晴らしい本になったと思う。未知の食べ物の話は、写真がないとよくわからない。

 『謎のアジア納豆』で気がついたことを一点だけ書いておくと、「納豆を食べる地域のコメはなぜか丸い」と書いているのは、そのコメが陸稲(おかぼ)だからだろう。陸稲は熱帯ジャポニカ(以前は、Javanicaジャバニカと言った)だから、インディカのように細長くない。水田が作りにくい焼き畑農業の山間地では、稲作は陸稲栽培になる。そういう土地で納豆が作られているということだろう。

 高野さんはこの本の最後の章で、日本の納豆は中国から伝来した(渡来伝播説)のか、それとも日本で生まれた(国内独立起源説)のか、さてどうなんだろうと考察している。高野さんは日本発生説を支持しているようだが、決定的な証拠はまだない。

 その章を読んでいて思い出したのが、日本の醤油の起源だ。味噌も豆腐もうどんも、中国から伝わったものだという知識で、醤油も当然中国から伝わったのだろうと思っていたのだが、どうも違うようだ。

 味噌の元となる醤(ひしお)は、中国から伝わった。醤は、食品を塩漬けした調味料のことで、肉が原料なら肉醤、魚なら魚醤、穀類なら穀醤といった具合に原料で区別される。穀物に塩をして発酵させたものが、のちに味噌になっていくのだが、醤油が中国から伝わったという史料が見つからない。

 素人があれこれ考えても進展しないので、専門家に教えてもらった。日本食文化史の研究者である東京家政学院大学名誉教授の江原絢子(えはら・あやこ)さんに私の疑問をぶつけると、

 「そうでしょ、醤油の歴史ははっきりしないんですが、醤が味噌になり、味噌を作る過程でできた液体が、つまり醤油です」

 「ということは、日本の醤油は日本生まれということですか?」

 「はい、そうだと思います」

 大豆など穀類に塩と麹を加えて漬けると、上澄み液ができる。これがうまいので、のちに液体そのものを作るようになり、醤油の生産が始まるということだ。中国でも、日本でも、それぞれ独自に醤油生産が始まったらしい。

「醤油は江戸時代後半から使われるようになる」と書いてある資料が多いが、それは江戸や京大坂といった大都会でのことだ。江戸で醤油が使われるようになったことで、すしやウナギのかば焼きや湯豆腐など、現在の日本人が考える「日本料理」が生まれたのである。

 しかし、農山村離島では、毎日ごく普通に醤油を使うようになるのは、白米が毎日食べられるようになる1950年代末か60年代初めではないかと想像している。昭和の初めに秋田で生まれたある人は、「醤油というのは、年に何回か口にするぜいたく料理に使うもので、普段はハタハタ(の内臓や頭)から作るしょっつるを使っていました。家で大豆は作っていましたが、布や農機具などを買うために大豆は売ってしまいますから、家で醤油は作れないのです」

 大豆の栽培に気候的に適していない沖縄では、塩味調味料は塩や海水で、醤油はほとんど使っていなかった。沖縄で醤油が使われるようにあるのは、戦後のことだろう。いまでも、沖縄料理の多くは、塩味だ。

 鹿児島名物のキビナゴの刺身を酢味噌で食べるのは、醤油が普及する前の料理だからだろう。やはり名物の豚骨料理も味噌煮込みだ。

 江戸時代の食生活を、江戸中心主義で考えれば、白米の飯もすしもそばも、もちろん醤油も、長屋の熊さん八つぁんでも口にできる食べ物だったが、農山村離島では遠い遠い存在だったのだ。「日本料理とは?」というテーマを考えるとき、江戸京大坂だけで考えるか、農山村離島も含めて日本の料理史を考えるかで、描く世界はまるで違う。

 

納豆とも醤油とも関係ないが、忘れないうちにメモを書いておく。「小さな村の物語 イタリア」(BS日テレ)は、そのタイトル通り、イタリアの小さな村に住んでいるごく普通の人を取り上げて、その生涯や生活ぶりを描く1時間番組だ。昨夜見たのは、2018年に放送したシチリア編の再放送を録画したものだ。村人の普通の生活を描くから、私にはうれしいことに料理しているシーンと食べているシーンがよく出てくる。昨夜の番組では家族そろって食事をするシーンで、前菜としてトマトソースで和えたスパゲティーが2度出てきた。イタリアの家庭で作るパスタはコースの中のひと皿だから、具など入っていない。パスタのあと料理が出てくるのだ。

 そのトマトソースのスパゲティーを、家族はフォークとスプーンで食べているのだ。日本の自称イタリア通は、「パスタにフォークとスプーンを使うのは、子供かアメリカ人だけだ」などと知ったかぶりをするが、この手のテレビ番組で日本人レポーターが出てこない構成だと、イタリア人がフォークとスプーン、あるいはフォークとナイフでパスタを食べているシーンを時々見る。ついでに言うと、鍋に砂糖を放り込む料理人も見ている。日本人のイタリア料理通の話など、信用してはいけない。「韓国人は器を持ちあげて食べない」という俗説と同じように、頭から信じてはいけない。だから、映像の力はすごいのだ。

もうひとつ、緊急臨時追加コメントを。今日(2020.7.29)の朝日新聞朝刊の特派員コラム「世界発2020」はアンドラを取り上げているがわかりにくい文章だ。「国境では入国管理がなされ・・・」とあるが、これはおかしい。コロナ禍で出入国を制限したのはアンドラだけではない。平常時は多くのヨーロッパ諸国と同じように、陸路の出入国に検査はない。アンドラの話は、このアジア雑語林671話(2015-03-13)を参照。