2051話 続・経年変化 その17

音楽17 クラシック・ソウル その1

 演歌の製作スタッフは、音楽的センスも技量もないと思っていた。毎度毎度、さらに毎度おなじみのイントロと曲調と歌詞で、やはり毎度おなじみの節回しで歌うものを「新曲」として発表する。工夫というものがないのか。だからと言って、流行のリズムを取り入れろとは言わないし、美空ひばり(彼女は演歌歌手ではないが)の「真っ赤な太陽」のようなみっともない歌に仕上げてくれと願っているわけではないが、もう少し何とかならないか。

 そんなことを考えて、フト思いついた。私はソウルとかR&Bと呼ばれるブラックミュージックが大好きなのだが、時代的には70年代あたりまでで、マイケル・ジャクソン以後のブラックミュージックは好きになれない。映画「ブルース・ブラザース」(1980)で流れているような音楽、オーティス・レディング、サム&デイブ、アレサ・フランクリン全盛期の音楽が好きで、管楽器が鳴って、歌手がシャウトする・・・。そうか、演歌のお決まりのスタイルと、根は同じなのだ。ソウル音楽の、「ご存じ。毎度おなじみ」の音がたまらなく好きなのだ。60~70年代のソウルミュージックだ。私もまた、演歌ファンと同じように、「毎度おなじみ」のベタな音楽が好きなのだ。「毎度おなじみ」とは、別の言葉で言えば、ジャンルということだ。

 そんな古臭い音楽はダメだ、嫌だと感じた若者たちが、あっさりした、スマートな、汗の匂いなんかしないR&Bやヒップホップを作り出したのだが、それは私の趣味ではない。アマゾンの「ミュージック」で、私好みのCDを探す。「ソウル・R&B」をクリックすると、

クラシック・ソウル

ゴスペル

ファンク

ディスコ

モータウン

ブラックコンテンポラリー

R&B

 というサブジャンルに分かれていて、何度か探ってわかったのは、私が大好きなのは「クラッシク・ソウル」に分類されている音楽らしい。自分自身が「クラッシック」に分類される年齢になっているという現実を突きつけられているようで、ちょっとひるんだが、おもに1960~70年代のソウルなのだから、「クラッシック」と呼ばれても、まあしょうがないか。半世紀以上前の音楽なのだから。

ゴスペルは、アフリカ系アメリカ人の讃美歌で、このキリスト教賛美が気に障り、今までずっと聞かないできたが、まあ、ここはひとつじっくり聞いてやろうと何枚かのCDを買って聞いたのだが、やはりだめだ。声明にしても、ちょっとはいいのだが、長く聞くと飽きる。

 ディスコという施設も、そこにやってくる人たちの姿行動が肌に合わないのだが、そこで流れている音楽は、わりと好きだ。

アべレイジ・ホワイト・バンド

カーティス・メイフィールド

アース・ウィンド・アンド・ファイアー

ファンカデリック

クール&ザ・ギャング

スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのCDは買っている。

 自動車工業の街デトロイトが生み出したモータウンサウンドはもちろん、何枚も買っている。程度の差はあれ、どのグループも歌手も好きなのだが、どうも肌に合わないというのが、大御所マービン・ゲイマイケル・ジャクソンだ。なぜ好きになれないのか簡単に言うと、「泥臭い音楽が好きだから」と言っておこうか。

 短いコラムにしようと思っていたが、長くなってきたので、続きは次回。

 

 

2050話 続・経年変化 その16

音楽 16 ジャズ

 ラジオから流れてくるその音楽が「ジャズ」と言う名だと知る前から、ジャズが気に入っていた。それを音楽用語で「シンコペーション」というのだとも知らなかったが、普段耳にする音楽のリズムが、ごく簡単に言えば1、2、3、4というように1と3が強くなるが、私は1,,3,というようなリズムが肌に合ったらしい。

 戦後の日本は、連合軍(実質は米軍)の管理にあり、ラジオからジャズが流れ、1950年代はジャズコンサートが多く開催された。日活映画「嵐を呼ぶ男」(1957)はそういう時代を表している。大学時代にジャズに触れた若者たちがラジオやテレビの世界に入ってきて、ディレクターや放送作家となり、番組にジャズを取り込んだ。「夢であいましょう」(NHK、1961~66)に人気ジャズピアニスト中村八大が出演していた。ジャズ評論家大橋巨泉がMCをやった「11PM」(日本テレビ、1965~90)などでもジャズの演奏が聞けたし、ラジオでは番組テーマ曲などでも、ジャズが流れていたのを記憶している。演奏者の名も曲名も知らなかったが、のちにあの曲がマイルス・デービスだったりジミー・スミスだったのかと気がつくことは少なくない。

 ラジオのジャズ番組を積極的に聞くようになったのは、ジャズ評論家の油井正一の「アスペクト・イン・ジャズ」(FM東京、1973~79)で、その後スウィングジャーナル編集長の児山紀芳の「ジャズトゥナイト」(NHK)を聞いていた。

 機会があればジャズを聞いていたが、「ジャズを知る」とか「学ぼう」という行動は一切しなかった。聞いて楽しければ、それでいいと考えていたから、ジャズに関する雑誌も単行本も読んでいない。。

 私が苦手あるいは嫌悪するヤカラは熱狂的ジャズファンであり、あるいは落語ファン(談志ファンといってもいいか)だ。すしやそばにうるさいヤカラも虫唾が走るし、いまならラーメンやカレーやアニメのマニアが嫌いだ。「こうでなければいけない!」とか「こうあるべきだ!」という主張をすることで、言葉遊びを楽しんでいるのがうんざりで、近づきたくない。たぶん、オタクが嫌いなのだ。

 そういうこともあって、「ジャズ評論家が選ぶ必聴100枚」などと言った情報は一切読まず、タイ音楽を聞いたように、とにかくジャズを聞いた。

 具体的には4枚組とか6枚組といった名曲集コンピレーションのボックスセットをまず買い、聞き、そのなかで気に入ったミュージシャンのCDを買う。そういうことをしているうちに、自分が好きなのはピアノトリオだとわかってくる。日本でいちばん人気があるジャズミュージシャンはオスカー・ピーターソンだという情報がネットにあったが、指が早く動く、超絶技巧といった評価は、私にとっては高評価ではない。「音楽は、オリンピックじゃない。より早く指が動けば優勝という競技ではないだよ」と言いたい。私は、より音が少ないピアノが好きだ。ピラピラピラと引きまくる演奏はうんざりする。これはクラシック音楽でも同様。

 ジャズピアノを聞いていくと、私の好みはふたつに分かれるらしい。ブルースとかR&Bとかファンクといた感じが濃厚なピアノ、例えばボビー・ティモンズ、ジョン・ライト、ラムゼイ・ルイスなどであり、一方「静」を感じさせるのはビル・エバンス南アフリカ出身で昔はダラー・ブランドの名前で有名になったアブドゥーラ・イブラヒム、スティーブ・キューンなどがいる。

 世間では有名でも、私がまったく知らなかったミュージシャンに出会い、その音楽を聞いている時間が楽しい。聞く音楽に、見栄も自慢も理屈もなく、「ただ、楽しい」のだ。渡辺貞夫世代の人がよく口にしたのだろうが、いい演奏を聞くと、にっこり笑い「ご機嫌だねえ」という状況が好きだ。音楽を聞いて、いつもご機嫌でいたい。

 好きなジャズの話を始めるとキリがない。ここで誰かを紹介したいと思い、ジュリー・ロンドンとかボビー・ティモンズとかいろいろ浮かんだが、チャーリー・ヘイデン(ベース)に決めた。キューバ出身のピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバといっしょに演奏した”Noctune“ 。もう1枚は、ハンク・ジョーンズ(ピアノ)とのデュエット”Come Sunday”を紹介する。その日最後に聞くのは、こういう音楽がいい。

 このコラムを夜更けに読んでいる方、おやすみなさい。いい夢を。

 

 

2049話 続・経年変化 その15

音楽 15 ブラジル音楽

 ブラジル音楽を初めて聞いたのは小学生から中学生になるころだった。今と違って、あのころはラジオしか聞いていない小学生が、英米以外の音楽を耳にすることは、実は幸せにも当時は特別なことではなかった。1960~70年代には、イタリアのポップス「カンツォーネ」が何曲もラジオから流れていたし、フランスのポップ「フレンチポップ」も同じようにヒットチャートに上っていた。ラジオで、イタリア語やフランス語の歌を耳にするのは、あのころの少年にとって、ごくありふれたことだった。1970年代前半なら、アフロ・ロックのオシビサや、カメルーン出身のマヌ・ディバンゴや南アフリカ出身のヒュー・マサケラなどもラジオで聞いている。ただし、アジアの音楽はほとんど放送されなかった。欧陽菲菲テレサ・テンも、日本の歌を歌っていた。

 初めて聞いたブラジル音楽は、ポルトガル語ではなかった。ボサノバをアメリカで売り出そうとブラジルの歌手ジョアン・ジルベルトとジャズプレーヤーのスタン・ゲッツが作ったアルバム「ゲッツ・ジルベルト」(1964)のなかに入っていた「イパネマの娘」が初めて耳にしたブラジル音楽だったかもしれない。LPではジョアンと妻のアストラッドが歌っていたそうだが、シングル盤ではアストラッドの歌だけ使われたらしい。その頃、日本のラジオで流れていたのはブラジル人が歌う英語の歌だった。これがボサノバをアメリカで売り出す戦略だった。プロデューサーがクリード・テイラーだと知ったのはずっと後になってからだ。クリード・テイラーの手によるCTIレーベルは、「いかにも売れるレコード」作りの達人だ。

 1950年代に、のちにボサノバの定番となる「想いあふれて」や「デサフィナード」などがヒットしているが、私の記憶にはない。映画「黒いオルフェ」は1959年制作で、日本公開は60年だ。映画で使われて名曲となった「カーニバルの朝」も、同時代に聞いたかどうかの記憶にないが、60年代には確実に聞いていて、深く心に残った。1960年代後半、渡辺貞夫がボサノバをジャズで演奏するようになり、日本でボサノバが広く聞かれるようになった。そのころから、「ああ、ブラジルに行きたいなあ」と憧れているが、いまだに実現していない。

 1970年代は、ブラジル音楽を聞いた記憶はない。ラジオからブラジルの音楽が流れていたはずで、ボサノバを聞いていたはずだが、特に印象はない。

 1980年代初めに、ClaraNunesを聞いた。カタカナ表記がクララ・ヌネスが多いが、ブラジルでの発音は「ヌネス」と「ニノス」の両方があるようで、ここではクララ・ヌネスとしておく。おそらく、82年の来日コンサートに際してのタイアップだったと思うが、ラジオで彼女の歌を聞いた。83年にアフリカから帰国すると、クララが急逝したと知った。40歳。病院の医療ミスだった。そのころ、ちょうどブラジル留学から帰国した人がいて、ブラジルから持ち帰ったクララのレコードを借りて、初めて彼女の歌をちゃんと聞いた。それがどのアルバムだったのか記憶にないが、そのなかの「ポルテーラ」が大いに気に入った。ポルテーラはエスコーラ・サンバ(サンバグループ)のテーマ曲だ。もう、これは、買い集めるしかない。新宿のディスク・ユニオンに通って彼女のCDを買い集めた。もう新作が出ないクララに代って、ほかに魅力的な歌手はいるだろうかと店員にアドバイスしてもらいながら探したが、クララ以上の歌手は見つからなかった。

 あれは横浜だったか、ブラジル人向けの食料品店に行ったら、ブラジルのCDが数十枚置いてあった。全部をチェックしたが、どれもまったく知らなかった。私が大好きなブラジル音楽は、すでに時代遅れになっているのだ。だから、アマゾンで昔のブラジル音楽を探して買っているのだが、歌謡曲であるショーロのCDは、アマゾンでもあまり出てこない。やはり、ディスク・ユニオンに行くか。

 クララのコンサートを見ることはできなかったが、のちにYouTubeができて、検索するとブラジルのテレビショーに出演している姿と歌声を聞くことができた。彼女の歌はいくらでも聞くことができるから、ここでも紹介しておこう。

 今、ラジオから流れる中島みゆきを聞いて、思い出した。友人のトルコ土産としてもらったSezen Akusの“88”のカセットテープだ。大いに気に入りCD版で買いなおし、しばらくトルコ音楽のCDも買い続けた。Sezen Akusの歌の感じは、曲によっては中島みゆきです。このCDをアマゾンで調べると、1万円以上している。気になる方は、このYoutubeで。より深い興味があれば、このLive映像を。民族楽器が入った歌謡曲です。そこにも注目を。

 

 

2048話 続・経年変化 その14

音楽 14 ポルトガル圏音楽

 ディスク・ユニオン新宿店ワールドミュージック館で買い込んだCDのほとんどは、まったくなじみのない歌手のものだったが、聞いてみればほとんど合格だった。買ったものの、聞いていすぐに捨てたCDはほとんどなかった。事前情報なしでも、驚くべき歩留まりだった。

 聞いてすぐに、そのすばらしさに茫然としてしまったCDが2枚あった。

Dulce Pontes "FADO PORTUGUÊS."という歌に心が奪われた。ポルトガルの歌手だとわかる。ドゥルス・ポンテスとカタカナ表記されるが、それでいいかという疑問はあるが、ここでは深入りしない。アルバムは“Caminhos”だ。「ファド・ポルトゥーゲーシュ」(ポルトガルのファド)というタイトルで、偉大なファド歌手アマリア・ロドリゲスのカバーなのだが、定型通りのファドではないことは素人の私でもわかる。

 感動したもうひとりの歌手は、Cesaria Evora“Cafe Atlantico”がいい。カーボ・ベルデの歌手だとわかるが、もちろん情報はない。セサリア・エボラのこんな歌声にやられた。たまらなく悲しい映画のラストシーンで流れているような曲だ。ポルトガルの元植民地カーボ・ベルデにこういう歌手がいることをまったく知らなかった。

 よし、ポルトガルカーボ・ベルデの音楽を求めて、ポルトガルに行こう。で、行った。

 リスボンでファド食堂を経営しているファド歌手にドゥルセ・ポンテの話を振ったら、「あんなのファド歌手なんかじゃない!」と強く否定した。そうだろうなと納得できるくらいには、ファドの知識ができていた。ファドは、形式的には、クラシックギターとギターラと呼ばれるポルトガルギターマンドリンのような高い音を奏でる)に歌手というのが最低限の構成らしい。ドゥルスは、ファドの形式からは外れているが、アマリア・ロドリゲスの伝承は受け継いでいることは、私にもわかる。リスボンでファドを聞いていると、結局、アマリアのカバーで食っていることがわかる。ニューオリンズのジャズのようなものだ。外国人観光客を喜ばすには、名曲カバーが最良の選択なのだが、ドゥルスは自分の歌を歌おうとしている。

 リスボンから帰ってしばらくして、NHK BSプレミアムの番組 「Amazing Voice 驚異の歌声」 (2011)で、ポルトガル・ファドの至宝 としてドゥルス・ポンテスが紹介されていたので、驚いたのだが、番組制作者も「ポルトガルの新しい潮流」を感じて彼女に注目したのだろう。

 リスボンに行けば、ファドはもちろん、カーボ・ベルデのCDはいくらでもあるだろうと思っていたのだが、大型CD店に行っても、十数枚あるだけだ。そんなものかとがっかりしていたのだが、ある日の露店市で数百枚のCDを並べている男がいて、アフリカ人の外見だから「もしや・・」と思って商品をチェックすると、たぶん、すべてカーボ・ベルデのCDだろう。特別安くはないが、ある程度の枚数は買える。20枚ほど買った。不勉強にも、その時は気がつかなかったが、路上のCD屋の商品には、カーボ・ベルデのほか、アンドラモザンビークギニアビサウなど元ポルトガル植民地の音楽が詰まったCDもあったのだろう。帰国してからそのことに気がつき、日本で「元ポルトガル植民地圏音楽」のCDを探すようになった。

 リスボンでファドとカーボ・ベルデのCDも買ったから50枚くらいになったから、そこから船便で送ろうと考えたが、送料がえらく高い。自分で運ぶことにすれば、そのカネでまだCDを買えると思い、さらに買ってしまった。

 リスボンで買った大量のCDを持って、バスでスペインに戻り、いくつかの都市で、この荷物を持って宿探しをやり、スペインでフラメンコのCDを買い、帰路タイに寄ってCDやVCDをまた買った。CD70枚か80枚を持って宿探しをする旅は、結構大変でしたよ。貧乏人は、旅先から気軽に荷物を送れない。CDケースは割れやすく重いから、荷造りの工夫も必要だ。

 今も、セザリアのCDは時々買っている。どれを買っても、あまり違いはないのだが、のんびりしたい気分の時は、堪能できる。夜、しっとりと音楽に浸りたいときは、彼女の歌がいい。かつて、CD1枚100円なら大特価だと思っていたのだが、いまならYoutubeでカーポベルデの歌でもマリの歌でも、たっぷり聞くことができる。音楽の表面だけ味わうわけだが、便利で安い。でも、ありがたみは無くなった。とはいえ、こんな歌あんな歌を紹介しておく。楽しんでくれるといいな。

 私が、「カーボ・ベルデの音楽がすばらしい」と大喜びしていたころ、すでに学術論文が発表されていたようだが、もちろん、私は知らない。その論文をもとにした単行本、『カーボ・ヴェルデのクレオール―歌謡モルナの変遷とクレオール・アイデンティティの形成』(青木敬、京都大学アフリカ地域研究センター、2017))が出ていることを今知ったので、さっそく注文した。ああ、また本が増える。

 

 

2047話 続・経年変化 その13 

音楽 13 ワールド・ミュージック 2

 90年代末のことだ。あるきっかけから突然、CDを爆買い、大人買いするようになった。

 その頃、ブラジルのCDをあさりながらアフリカのCDもチェックしていたが、内容がよくわからないCDを、高いカネを出して買う気にはならず、手ぶらで帰ることが多かった。だが、ある日のこと、ディスクユニオン新宿店4階のワールド・ミュージック館に立ち寄ると大バーゲンをやっていた。段ボールに入った中古CDが、「10枚1000円」である。これなら、つまらないと思ったCDなら簡単にゴミ箱に投げ入れられる。CDを左手にまとめて持ち、「つまらなそうだなあ」と感じるCDは段ボールに戻す。判断の基準は、まず英語の曲名は避ける。英米音楽を買う気はない。

 次に、ラテン歌謡は買わない。「オレ、いい声だろ」と得意に歌う甘い歌謡曲、メキシコなどに多いクルーナー唱法の歌謡曲は買う気がない。スーツを着て歌うラテン歌手を除外し、なぜかレゲエとキューバ音楽も除外した。レゲエは、どれを聞いても同じ印象しかなく、飽きた。ジャマイカ映画ハーダー・ゼイ・カム」を見に行ったし、ジミー・クリフのコンサートにも行ったのだが、結局、買ったレゲエのCDはボブ・マーリーのライブ盤だけだ。モンティ・アレキサンダーは大好きなんだけどね。

 キューバ音楽に限らず、なぜかスペイン語の歌謡曲があまり好きになれない。アメリカの味付けをしたマイアミ・サウンド・マシーンやサンタナティト・プエンテの音は好きだから、これらは例外か。

 ブラジル音楽のCDはなんとなくわかるから、一応合格にして脇に積んでおく。アジア物はインド音楽さえほとんどなく、アフリカ音楽のCDが多い。何もわからずに、その日は30枚くらい買った。

 それからも新宿に行くとディスク・ユニオン新宿店4階のワールドミュージック館に行った。「10枚1000円」セールはめったにないが、「5枚1000円」とか、「1枚300~500円」といったセールがあったから、いつも数十枚買い込んだ。こうして、たちまち数百枚のCDを買うこととなった。どの音楽ジャンルでも、音楽情報を調べて、専門家が推薦するCDを買い集めるという聞き方をしないので、何の情報もなしに、ジャケットを睨んで、見当をつけてジャケ買いした。それはかなり高い確率で成功だった。私が知らなかっただけで、アフリカのトップクラスの歌手のCDを買っていたことになる。なかでもベナンアンジェリーク・キジョーはピカ一だった。聞いてすぐ、「これはすごいぞ!」とわかる歌声だった。彼女はアフリカを代表する歌手で、ユニセフ親善大使でとしても活躍していると知るのは、ずっと後になってからだ。

 西アフリカのKoraという楽器は以前から知っていたが、集中して聞くようになったのはこのころからだ。数多くのコラ奏者に出会ったが、今はYoutubeSona Jobartehをよく聞いている。あるいは、Oumou SangaréのCDも見つけた。ぬめぬめタイ音楽からビートのアフリカ音楽へと体が動いていった。これもまた、ぬめぬめ音楽なんだけどね。

 なぜワールドミュージックのCDがたたき売りされていたかというと、日本の音楽ファンは、もう外国の音楽に興味がなくなったからだ。おもにヨーロッパでヒットしているアフリカ音楽を、「これは売れる」と判断した輸入業者が日本に持ち込んだものの大して売れず、在庫処分でたたき売り状態になり、私がまとめ買いしたという構図だった。もともと売れている商品を輸入したのだから、私が知らないだけでヒットアルバムを買っていたということになる。ワールド・ミュージックの時代はすぐに終わり、日本の音楽ファンは英米音楽にも興味はなくなり、日本の音楽だけを聞くようになった。ラジオから流れてくる音楽は、日本語のものが中心になった。

 世界各地へ旅行をしたいと思う若者は増えたが、世界のさまざまな音楽に興味を持つ人は少ないようだ。

 ディスク・ユニオン4階の「ワールドミュージク館」は、間もなく「ラテン・ブラジル館」と名前を変えた。音楽ファンの音楽世界は、急速に狭くなっていった。

 この時期に出会った2枚のCDから、旅が始まった。その話は、次回に。

 

 

2046話 続・経年変化 その12

音楽 12 ワールド・ミュージック 1

 タイ人と音楽について書いた『まとわりつくタイの音楽』を出版したのが1994年。そのあと、三輪車の取材に入り、『東南アジアの三輪車』を1999年に出版する。意図したことではないが、20世紀の終わりとともに、私の興味範囲がアジアからほかの地域に広がっていった。1970年代以降、おもにアジアに関わる事柄に興味を持ち、旅し、本を読んでいたが、20世紀が終わるころから、アジア以外の地域のことも知りたくなったということだ。

 アフリカへの関心は、1982年から83年におもに東アフリカを旅したことがきっかけで、実は80年代から90年代は、アジアとアフリカが私の中で共存していた。1984年、ナイジェリアの歌手、キング・サニー・アデのコンサートを聞きに、代々木第一体育館に行った。東南アジア音楽のコンサートにも行った。『カセット・ショップへ行けば、アジアが見えてくる』(1988)を出したばかりの篠崎弘(当時朝日新聞記者)さんとタイ音楽のコンサート会場で出会い、ちょうどそのコンサートに来ていた音楽評論家の松村洋さんを紹介してもらった。そのすぐあとに、松村さんの紹介で、やはり音楽評論家の北中正和さんを紹介してもらった。タイ音楽の本を書こうとしていたから、そのころ音楽業界の周辺を歩いていると、小倉エージさん、青木誠さん、そして、アフリカの映画や音楽を紹介していた白石顕二さんとも知り合い、いろいろ教えていただいた。音楽とは無縁に過ごしてきたライターが、当時最高クラスの音楽ライター達と出会った。幸運なことである。

 中村とうようさんとは、レコードコンサートなどで話を聞く機会は何度かあったが、直接話をしたことはない。直接本人に確かめたわけではないが、インドネシア音楽は気に入ったようだが、タイ音楽のぬめぬめした感じ(それは、こういう感じだろうか)が肌に合わなかったようだ。とうようさんの事ではないが、大学で音楽をまじめすぎるくらいに学んだ人は、ピアノの音階以外の音は「ずれている、調律がくるっている」というふうに感じるらしい。東京芸術大学民族音楽を学んだ人の話では、大学の他学科の学生たちは、西洋の音階以外の音楽を聞くと、苦しくなるのだという。これは映画の画像がずれたまま上映されているようなものらしい。「正しい音楽」を大学で学ぶと、そういう弊害が出てくる。

 音楽史に詳しい人なら、1980年代から90年代が「ワールドミュージック」の時代だったのだとわかるだろう。それまで「民族音楽」ととらえられていた音楽が、ポップになりダンス音楽へと変身したり、曲を短くして聞きやすいアレンジにした音楽の誕生だ。

 ワールドミュージック誕生のいきさつを、北中正和さんの話をもとに想像すると、こうなる。1970年代以降、外国を旅してきたイギリスの若者は、旅先で耳にした音楽に興味を持つ。もちろん、ビートルズやレゲエの影響もある。イギリス以外の音楽に接した若者のなかには、帰国してマスコミで仕事をしたり、レコード輸入業を始めたり、レコード店の店員になる者もいた。アフリカなどで聞いた音楽をレコード店でどの棚に入れるか、雑誌で紹介するとなると、どのジャンルに入れるのかという問題がおこった。「民族音楽」「ジャズ」「クラシック」などいろいろに分類されていた音楽をひとまとめにして「ワールドミュージック」と呼ぶことにした。もちろん、英米音楽はこのジャンルには入らない。

 日本のラジオでは、キング・サニー・アデのほか、モリ・カンテオフラ・ハザヌスラト・ファテー・アリ・ハーンフェラ・クティなどの音楽が流れていた。欧米の音楽に行き詰まりを感じていた人たちが、「何か新しいモノ、奇異でおもしろいモノ」を探して、音楽の新しい体験を探していたのだろう。パリのファッションにしても、東ヨーロッパの服装を探し(フォークロア)、日本に手を伸ばし(ジャパネスク)、アジア&アフリカのファッションに出会うとともに、その地の音楽にも出会う新鮮な体験をした。「エスニック」が、服装やデザインや食べ物のキーワードになっていくという時代だ。

 その時代、私はおもにラジオでワールドミュージックを聞いていただけで、CDを買い集めることはしなかった。私の興味は、深入りして浸りたいというところまではまだ進んでいなかった。日本でゆっくり音楽を聞いているよりも、旅のことを考えていたかったからだろう。カネも時間も、旅に使いたい。そう思っていた。

 

 

2045話 続・経年変化 その11

音楽 11 タイ音楽

 1990年代に入り、私はタイの音楽に深入りしていく。基礎知識ナシ。資料ナシ。90年代はまだ音楽テープの時代で、街にはテープ屋が多くあり、路上に音楽があふれていた。タイに居れば、絶えず音楽に包まれていた。そのときの感覚を、のちに書いた本のタイトル『まとわりつくタイの音楽』にした。路地を歩いていてもバスに乗っていても、どこにいてもタイの音楽が流れていて、私にまとわりついてきた。「これは、いったい、どういう音楽なんだ」という疑問から、タイ人と音楽の話を書くようになった

 音楽ライターなら、音楽プロデューサーや音楽雑誌編集長などにインタビューして、タイ音楽の概要と推薦テープを紹介してもらうという取材をするだろう。それが効率的だということはわかってるのだが、私が知りたいのは「タイ音楽」ではなく、「音楽とタイ人・タイ社会」なのだから、専門家へのインタビューではわからないことが多い。だから、とにかく、なにもわからずに、やたらにテープを買ってきて、聞いた。散歩に出れば、5本や10本のテープを買い、買い出しに出たときは50本くらいはまとめて買った。

 コード進行とか転調とかリズムなどと言った音楽的知識などまったくなく、ただ聞いていただけだが、数多く聞いていくと、わかってくることが少なくない。1950年代から日本の歌謡曲や洋楽を聞いてきた耳では、「これはスウィングジャズ時代の伴奏だな」とか「ギターは、サンタナのパクリだな」とか、「ベトナム戦争時代のクラブで演奏していたR&Bバンドみたいな音」といったことがわかってくる。日本や英米音楽のカバーやパクリもわかる。「これは、ブレッドのIfだな」などとすぐにわかるのは、私が1950年代生まれだからだ。かつての、ラジオ少年だった体験は、タイ音楽を聞くときに大いに役立った。タイの歌謡曲の歴史を調べてみると、西洋から入ってきた音楽を、自分たちの音楽とどう勝負するかという問題があったことがわかった。日本でも同じように起きていた対応だったから、参考になった。例えば、西洋音楽のメロディーとタイ語あるいは日本語のアクセントとどう対応させるかという問題だ。日本の例でいえば、「赤とんぼ」は「垢トンボ」ではないから、「あ」と「か」を高くするメロディーになるということだ。声の調子の高さで意味が変わる声調言語のタイ語だと、メロディーとアクセントの問題が重要だ。声調が重要だから、タイの伝統的な歌は詠唱になる。メロディーの抑揚が乏しいのだ。日本でもタイでも、若者相手のポップ音楽の登場によって、声調やアクセントや文節などを無視してリズムを強調するようになる。日本の音楽史が頭に入っていると、タイの事情が理解しやすい。

 タイ東北部からラオスに住む人達に親しまれているモーラムという伝統音楽の現代版のコンサートにもよく通った。古いタイプのモーラムから様々なモーラムを聞いていて、わかってきたのは、かつて中村とうようが新聞に書いたコラムだ。

 写真だけで見れば、「今のロックバンド」という姿なのだが、よく聞いていると伝統の音がする。伝統楽器にピンという弦楽器がある。エレキギターが奏でているのは、このピンのフレーズだ。ピンを使っていないが、ピンの感じは残している。シンセサイザーが奏でているのは、笙のようなケーンの音だ。ケーンの達人がいなくても、シンセサイザーで手軽にモーラムの音が出せる。これが、ワールドミュージックだ。「伝統」をそのまま守るのは無理だが、だからと言って「伝統」を捨て去ることもしたくないということで生まれたのが、伝統音楽のポップ化なのだ。

 カネがかかったコンサートなら、伝統楽器を使ったモーラムコンサートをやるが、寺の境内でやる小規模のコンサートだと、会場はダンス場だから、バンドが演奏するのもダンス音楽に近いものだが、根底には伝統音楽が生きている。

 これは寺祭りバージョンのモーラムコンサート

 モーラムの動画を探していて、アジア音楽の森に入り込み、カンボジア系タイ人の音楽カントルムกันตรึมのコンサート動画が見つかった。こういう音楽も好きだ。