1590話 小説家の紀行文

 

 数日前から読んでいた本を今読み終わり、神保町の古本屋の店頭ワゴンにあった江國滋の紀行文「旅券(パスポート)は俳句」シリーズの『イタリアよいとこ』(新潮社、1996)を読み始めた。この文章を書いている今、気がついたのだが、この本が出た当時は、新潮社の本の奥付けに西暦で出版年を書いていたのだなあ。いつから元号に変わったのか。その話を以前も書いたことがあるのを思い出し、このブログ内検索をしたら、2019年に書いていることがわかった。こういうコラムだ。

 

 手元の新潮選書の1冊は「1977年」の発行になっているのだが、もう一冊は「昭和58年」になっている。これは1983年だ。1970年代末から80年代初めに、新潮社に何かがあったのだ。このあたりのことをネットで調べると、「新潮社は単行本は西暦、文庫は元号」ということになっているらしい。これは、新潮社のタブー、あるいは闇だな、きっと。

 

 それはさておき、この紀行文シリーズのうち文庫になったのはどれだけあるのか知りたくなってアマゾン遊びをしてみた。『イタリアよいとこ』は文庫にはならなかったようだ。江國滋の軽い旅行記でさえ、文庫化しなかったのは、単に「売れない」と出版社が判断したからか。その辺も気にかかるのだが、まあ、それはいいとして、アマゾンでこの単行本を画面に出すと、「最後にこの商品を購入したのは2007/10/14です。」という表示が出た、私がイタリアに行ったのは2017年で、帰国後すぐに紀行文を書いたから、その資料として買ったわけではないのは明らかだ。旅行記が読みたくて買ったのだろうが、しかし、数ページ読んでも再読とは気がつかなかった。買ったが読んでいないのか、読んだが忘れてしまったのか、どちらかわからないが、本の内容を覚えていないという点では同じ事だ。まあ、近頃じゃよくあることだが、「ああ」と、2秒ほど心が折れる

 もう一度、それはさておき、今回『イタリアよいとこ』を取り上げたのは、これが古い時代の作家の旅行記だと気がついたからだ。小説家が想定するのは、主人(小説家)と従者(編集者)の旅であるドン・キホーテスタイルだ。親しい同業者が同行する場合は、丁々発止の弥次喜多道中記にする。その場合でも、小説家たちには、編集者や案内人という従者がいる。こういったスタイルは、もはや時代遅れだから、ほとんど消滅したような気がする。取材コーディネーターがいても、あたかもひとり旅したように書くか、わずかに触れるくらいだろう。こういう変化は、ほとんど海外旅行などしたことがない小説家にお世話役が必要だった時代があり、国内旅行でもひとりではなにもできないマガママ小説家がいくらでもいたということだ。ある編集者の思い出話に、小説家の旅行に同行する際、かならずお気に入りの沢庵をバッグに詰めていたというのがあった。

 『オリエント急行の旅』は、新聞記者本田靖春が友人の小説家生島治郎を誘った旅行を書いたものだが、お世話役はいなかった。動けるふたりだから実現した旅だが、この旅行記そのものはまるでおもしろくなかった。本田靖春の評伝ともいえる『拗ね者たらん 本田靖春 その人と作品』(後藤正治講談社、2018)でも、この本はほとんど無視されている。「評価に値しない」という判断だろう。それは、正しい。

村上春樹旅行記に同行者がいる例は知っているが、お世話役がいたのかどうかは知らない。単なるイメージとして、村上春樹はひとりで旅しているような気がするが、夫婦の旅行か? 

 いつも同行者を引き連れて移動しているのが、椎名誠の旅だ。お世話役ではなく同行者なのだが、私が読みたいのは、椎名誠のたったひとりの外国旅行記だ。もともと大冒険紀行など望んでいない。私が「ラジャダムヌン・キック」(『ジョン万作の逃亡』収録)が好きなのは、椎名の作品のなかでは非常に珍しいひとり旅を描いたものだからだ。完全に私費のタイ自由旅行を小説にしたものだ。私がひとり旅が好きだから、旅行記もひとり旅のものが好きだというわけだ。

 

 

1589話 忘れられた人

 「人は二度死ぬ」という言葉がある。一度目の死は、肉体が死んだとき。二度目の死は、その人を記憶している人が死んだときだという。この言葉を広めたのは永六輔であり、一部には松田優作だとする説もあるが、「出典不明」とするのが正しいような気がする。永六輔は生涯、放送作家だったと思っている。その意味は、おもしろい話を分かりやすく話すというのが彼の身上で、例えばある発言を「この話はギリシャの哲学者ディオゲネスが、その著書『世界市民の原像』のなかで・・・」などと話し出すと、聴取者がついてこられなくなるから出典を明らかにしないのか、あるいは出典などどうでもいいと考えていたのかもしれない。「淡谷のり子が・・・」と、説明なしで紹介できる人以外は、出典を明らかにしていないと思う。

 人々の記憶から消えた人ということでは、マリー・ローランサンの「鎮静剤」という詩を思い出す。堀口大学の訳詩集『月下の一群』(1925年)に収められた詩だが、詩にはまったく興味のない人の目と耳にこの詩が入っていったのは、寺山修司が広めたからだ。そういう意味では、いかにも1960年代的な雰囲気のある詩だ。ちなみに、ネット上でこの「鎮静剤」を紹介している人は多いが、出典を明記している人は非常に少ない。世の中、そういうものだ。

 

 鎮静剤
               マリー・ローランサン 
               堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 柄にもなく、フランス人画家の詩を紹介したのは、「記憶に残る人」についていろいろ考えるようになったからだ。大学生に限らず、何か、誰かを調べようと思った時、インターネットを使うことが多い。そして、ネットでヒットしない人は、あたかも「存在していない人」と同じことになってしまう。別な例だが、ガイドブックで紹介されていない場所は、旅行者にとって「存在しない場所」と同じであるということなのだ。旧時代の友人は、「ネット上に名前があろうがなかろうが、その人の価値に関係ないだろ」と正論を言うのだが、現実の問題として、インターネットを頼りに生きている人たちにとっては、ネットでヒットしない人は「そもそも存在しない人」か、「忘れ去られた人」なのだ。

 だから、私はかつて生きていた人に、ネットのなかで今も生きていてほしいと思い、意識的にその人たちの名前をブログで取り上げている。「アジア文庫の大野さん」をはじめ、2021年に急逝したベトナム研究の中野亜里(大東文化大学)さんや、宗教民族学など多才な山田仁史(東北大学)さんなどの名や、実名は挙げていないが前回まで書いていた「カラスの十代」でも、意識的に、もうこの世にいない人たちのことを書いた。

 私のブログの読者は極めて少ないから、検索しても簡単にヒットしないが、それでも,

とにかく書き残しておけば、誰かの記憶に残るかもしれない。そうすれば、二度目の死を先延ばしできる。永六輔松田優作も、マリー・ローランサン堀口大学も、二度目の死を迎えていないのは、人々が語り継ぎ、記憶が継承されているからだ。

 

 

1588話 カラスの十代 その21(最終回)

 

 これは、おまけの話だ。

 1980年代前半のことだが、私はアフリカ旅行の帰路、イスタンブールにいた。マラリアの療養の目的もあった。宿は、日本人旅行者に教えてもらったところだからは、日本人がよくやって来た。そのなかに、ヨーロッパを旅した後、陸路でインドに行くというカップルがいた。

 「違うのよ」と彼女が言った。私よりもちょっと年下だ。安宿のレセプション前で、出会った挨拶をしたすぐ後のことだ。「夫婦でも恋人でもないのよ。たまたまパリで知り合って、『インドに行くところ』と言ったら、ついてきたのよ。彼、性格よくないから、ほんとはいっしょに旅したくないんだけど、これからインドまで女ひとりではちょっときついかなと弱気になって、つい・・・」

 その「彼」は、誰も聞いていないのに、「元官僚だ」とある官庁の名を挙げて自己紹介し、旅に出てもしゃべり方はまだ官僚で、自信たっぷりで、自分がいかに優秀であるか見せつけようとするしゃべり方だ。そのせいか、彼女は彼と話をすることはなく、宿でぽつんとひとりでいるから夕食に誘った。食事を終えても、宿でしゃべった。互いに住所を交換すると、彼女は私が住む市の隣りの市に住んでいることがわかった。ただし、どちらも郷土愛などない人間だから、手を取り合って「同郷」を喜ぶようなことはしない。私の住所を書いた紙きれを見ながら、彼女が聞いた。

 「高校も地元ですか?」

 「うん」

 「もしかして・・」と高校の名前を言った。

 「そうだよ」

 「ああ、兄と同じだ。もし、1952年生まれだと、兄と同じ学年になりますね」

 彼女の名前は、住所を交換した紙に書いてある。田中や佐藤だと、個人を特定できないが、それほどありふれた姓ではなかった。ああ、あいつの妹か。兄という男とは、同じクラスになったことはないし、話をしたこともない。顔と名前を知っているだけだが、その姓に記憶がある。

 彼女が「陸路でインド」といったとき、ちょっと心を動かされたのだが、「じゃあ、僕といっしょにインドに行こう」と言い出す気はなかった。彼女は好感を持てる人だが、この先いっしょにいて楽しいかどうかは、別だ。それ以前に、所持金の多くをアフリカで使ったから、残りのカネでアテネから空路、バンコク経由で日本に帰る予定だ。料金を調べてはいないが、アテネ・東京と、カルカッタ・東京の航空運賃はそれほど変わらないと計算していた。だから、陸路でインドまで行くと、カルカッタでは航空券を買う資金はなくなる。そういう計算をきっちりやったわけではないが、いっときのノリで、「いっしょに、インドに行こう!」なんて言わなくてよかった。いつものように、品行方正な旅行者であってよかった。

 アフリカから無事日本に帰り、友人の助けもあってライター生活に戻った。日々雑多なことに手を出しているなかで、貧乏ライターはポルトガル語を専門とする人と知り合った。その人としばしば会い雑談をしていたのだが、ある日、突然、高校の話になった。今住んでいるところにある高校の卒業かと聞くので、「そうだ」と答えると、「じゃあ、〇〇って人、知ってる?」と、彼女の口からでた名前は、高校を卒業して以来初めて聞く名前だが、同じクラスになったこともある親しかった級友だ。彼女の話では、スペイン語の通訳をしている親友がつきあっている男が、私の高校時代の友人で、ヤツもスペイン語の通訳として活躍しているといった話を聞いた。そんなことはまったく知らなかった。高校卒業後、ヤツに一度も会ったこともなければ、消息も聞いたこともない。

 1582話で、「長らく外国生活をしている高校時代の友人」と書いたヤツだ。高校を卒業して以来30年ぶりに会い、1581話に書いたように、大学でスペイン語を専攻し、スペインに留学したといった経歴を、その時初めて知った。私がヤツの浮名を耳にしたのは、ヤツが南米生活を終えて帰国し、フランスにわたるまでの日本での出来事らしいのだが、ヤツは「どの子かなあ、わかんないなあ」と記憶にないらしい。世界を股にかけたドン・ファンだから、心当たりがあまりに多すぎて、記憶を特定できないらしい。

 ヤツは、フランスの会社を定年退職して帰国した。サラリーマン時代から、難しい受験勉強をして、スペイン語、フランス語、英語の観光通訳、正式には全国通訳案内士の資格を取ったというのに、運が悪いことに、このコロナ禍で外国人観光客の姿は消えた。サラリーマン時代の年金で、とりあえず生活資金はなんとかなっているのだろう。ヒマな時間を利用して、きっとポルトガル語やイタリア語に磨きをかけていることだろう。

 同級生の皆さんは、私と違って堅実にして賢明で努力家である。

 「カラスの十代」は、今回で終了。

 

 

1587話 カラスの十代 その20

 

 このように文章を書いていと、次々と思い出がまた湧き出し、文章が長くなってしまう。前回の文章を書き始めたときは、校長のことなどすっかり忘れていたのに、「そういえば、卒業式で・・」と思い出して、加筆した。こうして、とどめなく文章が長くなる。

 東京圏や大阪圏を除けば、どこの県でも同じだと思うが、県内の公立進学校は、地元の公務員養成所が歴史的役割りだろう。卒業生は、県内の自治体の職員や医師や教員、警察や消防、公務員の天下り先となる各種団体などの職員となって、出世すれば地元の名士グループに加わっていく。首都圏や京阪神地域を除けば、地元に大卒者を受け入れる大企業の求人は多くはない。大学卒業後も地元で暮らしたいと思えば、公務員以外では、地元の金融機関などの経済界や新聞社やテレビ局などのマスコミなどだ。県内の高校から地元の国立大学へと進んだ卒業生たちが、そういうグループを牛耳っている。

 私が通った首都圏の高校では、東京の大企業への就職も可能なのだが、卒業生はやはり公務員・準公務員、団体職員などが多いらしい。教員になった者も多いらしい。

 時代が10年ほどずれたら、校舎の窓ガラスを割り、バイクを盗んで得意がる生徒も出てきただろうが、まだ平穏な時代だった。のちに中学教師となった級友は、警察からの電話は日常茶飯で、24時間いつでも身元引受けに行けるように、自動車を買ったと言っていた。教師になった同級生が30歳を迎えたころ、校内暴力の波に飲み込まれていくことになる。大学卒業後、猛烈サラリーマンとなった新入社員は、連日の激務で体を壊し入院することになり、病室で「こういう人生を定年まで送るのはむなしい」と考えて会社を辞めた。大学に戻り、教員資格を取り、「新しい自分だ」と喜び勇んで中学に赴任したら、「学校の窓ガラスが、ほとんどなかったんだよ。噂には聞いていたけど、すさまじい荒れ方だった」といった話を、同窓会で聞いた。

 こうして文章を書いていると、またしても思い出がいろいろ蘇ってくる。高校3年の6月だったか、老英語教師のアメリカ旅行と入れ替わるように、アメリカ留学から帰国した生徒がいた。アメリカの国際教育団体AFS(American Field Service)のアレンジで留学した上級生で、1年後に我々の学年に復学した。アメリカのことはともかく、異文化体験を聞きたいとは思ったが、別のクラスだったので言い出せず、結局ひとことも言葉を交わさなかった。卒業後の消息も知らない。この生徒の2年後にAFSでアメリカに行った高校生の中に、竹内まりあと小西克哉がいた。

 あの女の人のことも思い出す。同じクラスになったことはないが、友人と親しいので、ときどき雑談をした人がいた。冗談が好きで、寸鉄人を刺す皮肉もいい、やや下ネタじみたことも口にして高笑いをする。会話が楽しい人だったが、彼女と同じクラスのヤツにその話をすると、教室内で彼女が誰かと話している姿を見たことがないという。誰ともしゃべらず、ずっと黙っているというから、私の話に「ウソだろ」といった。こういう風に状況によって別人格になっている生徒が何人もいただろう。学校では誰ともしゃべらず、深夜放送にせっせとハガキを書き続けている生徒も、きっと少なからずいただろう。実直な受験生のふりをしながら、熱烈なロック少年だった高校生は、今はCDのBOXセットを買い込んでいることだろう。家庭と学校のふたつの顔やクラスとクラブのふたつの顔を持つ生徒もいただろう。

 当然ながら、皆それぞれに、他人に知られることのない自分の高校時代を過ごしていたのだろう。

 「そういえば・・・」と思い出すことがいくらでもあるが、きりがないので、別の機会にしよう。

 高校時代の話は今回で最終回となる予定だったが、おまけの話を書いたので、次回が最終回になる。

 

1586話 カラスの十代 その19

 

 高校時代のことを、こんなに長く書く気はなかった。落ち着いて考えてみれば、半世紀も前の話なのに、古ぼけた昔話には思えないところが、ああ、恐ろしい。

 今年の4月の中旬ころだったか、音楽を聴いたり本を読んだりと、いつもの退屈しのぎをしていたら、何の脈絡もなく、何のきざしもなく、突然、50年前の私立男子高校の入学試験の当日の光景がよみがえった。試験を終えた生徒が教室を出てきて、廊下に集まり、階段を下りていく光景は、「カラスの群れに囲まれた小鳩」というのは、まあ、ほんの少しばかり違うにしても、異質、異世界に紛れ込んでおどおどしていたという記憶があり、あの日のことを書こうと考えて1回分を書いたら、もう少し書かないと読者にわかりにくいかと思い、加筆していくうちに2回分になり、そのうちにだんだん中高校生時代のことを思い出し、文章がこんなに長くなってしまった。

 修学旅行の話も、3年生の時だったと思って文章を書いているうちに、「あれは、2年生だったはず」と思い出し、すると、1年生の時に東北地方を旅し、旅費不足で青函連絡船に乗れなくて悔しかったねぶたの夜を思い出し、2年生の時は修学旅行前に、当時父が仕事をしていた大阪に行き(父の仕事になにひとつ関心を示さないバカ息子だったことに、申し訳なさにあふれる)、ついでに奈良にも行った。3年生には万博見物で大阪に行ったことを思い出した。思い出は次々と湧き出して来る。

 私に創作力、あるいは、うまくウソをつく力があれば、花の学園青春小説やヘルマン・ヘッセもどきの少年の苦悩小説などにすることもできただろうが、根っからのノンフィクション人間は、あのころの出来事をそのまま書くしかなかった。「そのまま」だと思っていても記憶違いはきっとあるだろうが、意識的に過去を創作したことはない。ちなみに、なぜ今、ヘルマン・ヘッセの名が出てきたかと言うと、「ドイツにおける若者の旅の歴史」をちょっと調べているからだ。

 あの時代、ごく一部の高校では大学紛争の影響を受けて、学内闘争を始めたところもあったが、私が在籍していた高校では、紛争らしい紛争はなかった。わずかにあったと言えば、「制服制帽」の規則から帽子着用の規則を廃止させたくらいだろうか。校長が、「昔からそういう規則になっている。制服制帽はセットだ。帽子は頭を守るなど素晴らしい効果があるのだから着用は当然だ!」などと得意になって論じるから、我ら悪ガキは、「それなら先生方も制服制帽をぜひ!」というと校長は反論できず、教師の意見も生徒と同じで(多分、体育教師は校長側だったとは思うが・・)、高校から帽子が消えた。

 そんなことを書いていたら、思い出がまた湧き出して来る。高校3年生のときに赴任してきたこの校長は、話し方は柔和だが保守反動徹底管理思想で、教訓講話が大好きで、生徒の評判が極めて悪かった。校内大抗議大会を開催するほどではないが、なんとかこの校長を笑いものにするとか、恥をかかせるとか、腹いせをしたいという感情は多くの生徒にあった。

 暮れになって、担任が言った。「卒業式にぜひ来てほしい来賓がいるなら、名前をあげろ」と言うから、私は反射的に「前の校長!」といい、瞬時にして同級生の賛意を得た。この提案はすぐさまほかのクラスにも伝わり、卒業生の要望として、「前校長の出席をぜひ」と言うことになった。前校長が広く深く生徒から慕われていたわけではない。特に心に残るプラス面はないが、マイナス面はまったくなかった。だから、マイナス面しかない現校長への面当てに、前校長を卒業式に招待したのだ。「お前の話なんか聞きたくないから、前の校長に話をさせろ」という一種の抗議行動だった。

 卒業式当日、演壇の前校長は、「きょう、なぜ、私がここに招かれたのかわからないのですが・・・」と話し出したのだが、それはそうだろう。生徒の多くは、もちろん「なぜか」は、わかっているが、教員たちはわかっていたのだろうか。「なぜ、前校長を?」と生徒にまったく質問しなかったのだから、きっと教師たちも生徒の心情をわかっていたのだろう。

 

 

1585話 カラスの十代 その18

 

 そろそろ20年近く前になる話だ。長らく外国生活をしている高校時代の友人が、久しぶりに帰郷するときに前川に会いたがっているという連絡が、年賀状だけは交わしている同級生からあり、会うことにした。高校卒業以来30年ぶりくらいになる。

 20人ほどが居酒屋の個室に集い、しばし昔話をしたのだが、私には「なつかしい昔話」はほとんどない。今の生活の方がずっと興味がある。

 「そういえば・・・」とひとりが私に話しかけてきた。「俺もお前もサラリーマン生活を選ばなかったが、考えてみれば、ここにいる半分くらいはサラリーマンじゃないなあ。意外だよなあ」といった。彼の仕事はよく知らないが自営業らしい。

 あの高校の卒業生は、有名企業のサラリーマンか公務員を目指して大学でも勉強して、多くはその望みを果たしたのだろうという想像し、それ以外考えたことがなかった。他人の人生なんか、どーでもいいし、私にとって興味深い職業じゃないだろう。そういう気分で、これまで生きてきた。

 「ヤツも俺みたいな自営業で・・」と、彼は同級生を指さした。「それから、医者。歯医者。弁護士。そしてあいつは司法書士で・・・」と、サラリーマンにならなかった同級生を私に示した。こうなると、ライターの職業病がどくどくと湧き出した。人は、どういう理由で職業を決めるのだろうか。サラリーマンの場合は、文系だと業種よりもむしろ大企業かどうかが重要なのかもしれない。サラリーマンを知らない私の想像だが、事務職に就くなら、食品業であれ、自動車製造であれ、やることは同じだという気がする。営業も人事も経理も庶務も総務も、どの業種であれ、やることは大同小異だろう。

 ところが、サラリーマンを目指さなかった者は、何らかの理由でその職業を選択し、そのための学習や訓練を受けたということになる。彼らは、どういう理由で職を決めたのか。ライターの「知りたい病」が発症した。

 歯医者と司法書士は、別々に話を聞いたのに、その職業を選んだ理由は同じだった。「だって、サラリーマンって、いやじゃない。満員電車とか、部下と上司、組織、会議・・・、考えただけでうんざりだ」

 高校時代の私もおんなじことを考えていた。だから、定年後の生活まで予測できる鉄路の人生を選ばなかった。彼らも発想は私と同じなのだが、猛烈な受験勉強をして歯学部に入り、もっと勉強して資格を取った。もうひとりの友人も、大学に通いながら司法書士の勉強をして、資格を取った。一方の私はと言えば、勉強などいっさいせずに、工事現場で働いて得たカネで旅行して、その後清掃作業員やコック見習いなどをしながら、ずっと遊んでいた。いや、今も同じように遊んでいる。

 サラリーマンになった人たちにしても、コンピューターをはじめ、仕事で必要な技術や知識の勉強をして、資格試験を受け、海外赴任に備え外国語を学んできた。それは、どう考えても、「鉄路に乗った気楽な人生」ではなさそうだ。私は、楽な道を選び、気楽で楽しい道を歩み、現在まで楽しく生きてきた。彼らは、つらい道を選び、つらい日々を歩み、しかしそれはそれで満足できる人生なのだろう。私に彼らのマネはできないが、彼らとて、私のマネはできないだろう。将来が見えないというのに、お気楽に遊んでいられる私の基本思想は、進学高校で教育方針を外れた生き方を始めたときにできた。考えてみれば、私は「おちこぼれ」ではなく、別の道を歩き始めただけのことだった。好きなことを、好きなようにやるだけ。「落ちて、こぼれた」のではなく、別の道を見つけただけのことだ。

 成功したスポーツマンや経済人は、「進路の選択に迷ったら、困難な方を選ぶんです。すると、道が開けます」などと立派なことを言いたがるのだが、私は「楽しい方を選べばいいんだよ」と言いたい。「楽しいこと」が必ずしも「楽なこと」とは限らないが、楽しければいいじゃないかと思っている。私はそういう選択をして生きてきた。久しぶりに帰郷した友人は、フランスの企業に勤めるパリ在住サラリーマンだが、定年後に日本で暮らすことを考えて、フランス語とスペイン語と英語の観光通訳の資格(全国通訳案内士という)を取るための勉強をしていた。それは楽な道ではないだろうが、楽しい道だと思う。

 「サラリーマンはいやだ」と言った歯医者は、数年前に死んだ。「風呂に入っているときに、ついでに歯も磨くんだよ。そういう習慣にしておけば、毎日数分の歯磨きを退屈しないでできるよ」というあの時のアドバイスを、私は今も守っている。

 

 

1584話 カラスの十代 その17

 

 高校時代にあれやこれやと英語にまつわる話をしていた友人が何人かいる。皆、いつかは外国に行ってみたいと思っていた連中だが、考えてみればESS(English Speaking Society)のようなうさん臭そうな組織と関係のある者はひとりもいなかった。この「うさん臭い」感じは、わかるかなあ。アメリカ万歳、互いを「Hey,Betty!」「Hi,John」などと呼び合い英語劇などをやる恥ずかしい集団だと、私は認識していた。

 それは、さておき・・・。

 級友のひとりは、本格的に保守本流の勉学にひたすら励む優等生で、東京外国語大学で英語を学び、エリートサラリーマンになった。ひとりは、「英語はある程度できるから、もういいよ」というわけで、大学ではスペイン語を専攻し、スペインに留学したという話を、ずっと後になって知った。その年に、私もスペインなどヨーロッパで遊んでいたのだが、そこに彼もいたことなど、もちろん知らない。ちなみに、その年、私のようにヨーロッパで遊んでいた日本人のなかに沢木耕太郎がいて、パリにはかの山口文憲がいたということを知るのは、ずっと後になってからだ。昔も今も、もちろん彼らと交友関係にはない。

 スペインに留学した友人は、大学卒業後南米で暮らし、そのあとパリで暮らした。私はと言えば、旅行資金稼ぎに忙しく、外国語の勉強よりもカネ儲けに励んでいた。だからと言うわけではないが、その後も高校時代の英語力レベルを超えることはなく現在に至る。時間があれば世界の地理や政治やその他雑多な情報を得る道を探りながら旅を続けていた。旅をしながら同時に旅行資金も稼げるような都合のいい方法はないだろうかと探しているうちに、なし崩し的にライターになった。こうして、私は職業的観察者となった。

 私を建設現場に連れて行ってくれた男は、工事現場から去ってから1年くらいして、アメリカに行った。ヤツと共通の友人から、ヤツがアメリカから帰国したという報告があり、会った。短期の英語留学をしたあと、アメリカで働き、旅をしていたという。

 「本当は長期留学をしたかったが、そのためにはアメリカ人の保証人が必要だが、伝手がない。だから、羽田に行って、アメリカ便から降りてきた客に声をかけて、『留学したい』と訴えたんだけど、ダメだった」

 のちに知り合った人のことだが、同じころ、インドに行きたいがインド旅行情報など何もない時代だから、羽田空港に行って、「いかにも、インド帰り」という感じの人を探し、インドのことを聞き出したのだといった。ガイドブックがなかった時代、そうやって旅行の情報を探した人もいた。

 アメリカ帰りのヤツと、アメリカの話はほとんどしなかった。私はアメリカにはまったく関心がなかったからだ。そのとき話したことで、今でも覚えているのは仕事のことだ。渡航費用の半分は自費、あとの半分は親からの借金だったが、アメリカで働いたので、借金は帰国してすぐに返済したという。「誰でもできる単純作業の時給は、最低でも1ドル」というのは覚えている。まだ1ドルが360円の時代で、その当時日本で誰でもできる単純作業の時給は百数十円だったから、3倍の賃金差がある。アメリカで2か月働いたら、日本で半年分の稼ぎになる。だから、帰国早々、ヤツは借金を返済できたというのだ。そのカネで中南米にでも旅を続けるなどと考えずに、カネを持って帰国したことに、ちょっと拍子抜けした。世間の常識からはでたらめにも見えるような人生を歩むかもしれないと思っていたからだ。

 ヤツは道をそれず、まじめな大学生になり、有名住宅メーカーに就職した。「家、買わないか? 100万くらいは今すぐ割り引いてやるぞ」という電話がかかってきたことがある。会社員となり、バブルの日々に酒浸りの営業活動を重ね、内臓を破壊されて、人工透析が日常になったが、ヤツは笑っていた。企業には、一定の枠で障害者を雇用しないといけない決まりがあり、その枠にヤツが入ったので、退職の心配はない。「会社に行って、新聞を読んでいるだけで給料がもらえる。さすが、大企業だろ」と自慢した。私が同じ立場になったら、たちまち生活できなくなる。

 ヤツは定年後に脳梗塞をやり、よれよれの日々を送っているものの、電話ではあいかわらずヘラヘラと笑っている。「自伝を書くぞ!」と言うから、「自費出版の会社を紹介しようか」と言ったら、「ちゃんとした会社から出版して、印税で稼ぐさ」などと、まだ夢を見ている。

 そういえば、卒業後まもなく、同級生数人と一度だけ担任と会った。思い出話のなかに、その場にはいないヤツの話になった。担任の思い出話だ。

 「アイツの母親が、相談に来たんだよ。先生、あの子の服に金髪がついていて、何と言えばいいのか、どういう態度をとればいいのか、困っているんですが・・・と言うんだが、こっちだってどう指導したらいいのかわからなくて・・・」

 あの金髪の彼女とは数か月の交際ののち、あやふやな記憶だが、彼女は高級クラブのホステスになり、大いに稼ぐようになり、貧乏高校生は捨てられた・・・・という顛末だったのではなかったか・・・。この記憶に、まったく自信がないが、ヤツが捨てられたのは間違いないと思う。