1881話 機械の話

 

 愛用のウォークマンの バッテリーがへたってきたので、そろそろ買いかえ時か。中古品を買ったから、バッテリートラブルがおこりがちだということは覚悟している。前回買ったのも中古でやはりバッテリーがへたってきたから、もしかして充電池を取り換えられるのかもしれないと家電量販店で相談すると、メーカーに問い合わせてくれた。  「その製品はすでに生産を終了していますが、なかの機械部分全部の取り換えなら可能です」という。それなら新品を買っても変わりないので、すぐさま通販で中古を買ったのが今使っている機種だ。前々回に買ったのは中国メーカーのもので、音フェチではない私には問題がなかったのだが、曲名表示は頭の部分だけだ。好きな日本の歌を聞く人にはそれでもいいだろうが、外国の曲だと、曲名も演奏者名も長いので、ほとんど表示できないことになる。それでウォークマンを買ったというわけだ。

 またウォークマンを買おうかと考えてフト思ったのは、もうウォークマンは生産中止になっているんじゃないかという疑問だ。どうぜ買うのは中古だから、新品がなくてもいいのだが、古いものしかないと困るなあと思いながらネットで調べると、ウォークマンはまだ生産していた。NW-WM1ZM2という製品をソニーストアで買う場合の定価は、440000円だぜ。4万4000円じゃなく、44万円だよ。唖然として、笑ってしまった。ウォークマンは、多分程度のいい中古品を買うと思うが、まだ検討中だ。

 最近問題を抱えている機械といえば、DVDレコーダーのリモコンだ。「戻る」ボタンがうまく反応しないので、買い替えようかと調べると、12000円。古い機種のリモコンだから高いのか。リモコンごときにそんなカネを払うなら、デッキを買い替えようかと思った。デッキには当然リモコンがついてくる。ウチのデッキはDVDとブルーレイに対応しているが、いつのころからかブルーレイディスクを挿入すると、「NO DISC」の表示が出て、受け付けない。汚れが原因かと思い、ブルーレイ用のクリーナーを買ってきて挿入すると、このディスクも受け付けない。デッキの修理を頼んで1万円以上も払うとすると、新しく買った方がいいか。リモコンもついてくるし。そうなれば、もう14年使っているテレビも有機ELに買い替えて4K生活か・・・・、20万円弱だな。

 リモコンは純正品でなければ安いのだから、1200円で汎用品を買った。その製品が届いたら、いままで不調だったリモコンが突然、正常に使えるようになったという不幸。

 テレビを買い替えるかどうかは、まだ考えている。家電量販店で4K放送を見ていると確かにきれいな画質だ。きれいな画質の大自然紀行番組をデモンストレーションに流しているのだが、普通のテレビ番組でも、ウチのテレビよりもきれいだ。しかし、大画面にヘビの大写しが突然でてきたらどうしよう。あるいは、ニュース番組などで、アナウンサーの顔をアップにしたままでニュースを読まれると、くたびれる。嫌いなタレントのアップもごめんだな。「迫力ある大画面」は魅力だけじゃないんだよ。そうじゃないですか?

 

 

1880話 20歳の妄想

 

 1856話で、若いころは将来やりたい仕事なんかまったく考えていなかったという話を書いた。やりたい仕事などないが、映画や旅行などやりたい遊びと、やりたくない仕事はあったといったことを書いたのだが、その後、「仕事の妄想」はあったなと思い出した。

 祭りなどに、的屋(テキヤ)が店を出している。焼きそばや、お好み焼き屋、金魚すくいや安物のおもちゃやなどを売っている。社寺で店じまいの作業をしている人たちを見ると、作業を手伝った後そのままくっついていくという妄想をすることがあった。その昔、旅芸人や浪曲師に惚れてくっついていく娘がいたそうで、かすかな記憶では井上ひさしの母親も旅の浪曲師に惚れて街を出たのではなかったか。

 童話風に言えば、ハメルンの笛吹きに誘われる少年のように、的屋といっしょに旅をするのは楽しそうだと妄想した。ただ、しばらくしてわかるのは、的屋は全国各地を旅して商いをするのではなく、ある狭い地域での営業だから、沖縄や北海道に出かけるわけではない。

 もう少し現実がわかってくると、日本のどこかのゲストハウスに泊まっているうちに、アルバイトをやり、そのまま居つくという状況も想像したことがある。現実にそういう若者もかなりいたのだが、職があるのは夏の繁忙期だけで、数か月で失職する。スキー場のアルバイトもあるだろうが、寒い場所に行く気がそもそもない。ゲストハウスのある場所や労働事情によっては、通年の仕事を得ることが可能だろうが、そうなったら旅するおもしろさがなくなる。

 21歳から外国を旅するようになった。旅に何かの目的があったわけではない。「ただ、世界を見たい」と言うだけだった。私は「自分探しの旅」はしたことがないが、「いい場所探しの旅」を考えていたかもしれない。積極的に「いい場所」を探していたわけではないが、「ここ、いいなあ。住んでみようか」と思える場所があれば、旅を中断して住むのも悪くないと思った。

 タイで定住を決めた男のほとんどは、女がらみだ。「女に惚れた。タイで、一緒に住む」。そういうきっかけで、仕事を探し、住むことを決めた男を何人も知っている。タイは日本人の観光客や住民が多いから、日本人相手の仕事は簡単に見つかる。タイ人と結婚すれば、配偶者ビザを得られるから、収入の問題はともかく、資格的には定住がしやすい。

 幸か不幸か、私はそういう道に歩み出さなかった。「好きな女と暮らせるなら、仕事なんか何でもいい」と覚悟させる出会いがなかったし、いつもふらふらしたい私は、そういう形の定住を本当は望んでいなかったということでもある。

 自分の趣味趣向がまだはっきりしなかった1970年代は、ゲストハウスの手伝いでなくても、「世界のどこかで、何かの出会いがあって住み始める」という妄想はあった。何かの手工芸であったり、何かの研究であったり、あるいは人との出会いで定住するかもしれないと思っていた。それは期待ではなく、「そういうことがあるかもしれない。そうなったら、住むのも悪くないか」という想像だった。

 しかし、日本以外のどこかに住む道を選ばなかった。タイには長期滞在したが、1回の滞在は6か月までにしていた。「長いと、飽きる」からだ。タイの専門家になる気などなく、1年か2年つきあったら、インドネシアに半年、ネパールに半年というように、どこかの国に移動しようと思っていたから、タイ定住を考えなかったのだ。タイ語を徹底的に学んで、タイ語の資料を自在に読めるようになると、ほかの地での研究を始めにくくなる。どこへでも気軽に行きたいのだ。『バンコクの好奇心』を書いたら、『ジャカルタの好奇心』を書こうと考えていた。

 ライターという日本語を使う仕事を選んだから、いつも日本語のそばにいたかった。1年の半分は、日本語の資料に囲まれた場所で過ごしたいと思っていた。もしも私が、日々の雑事を書くエッセイストとか想像力で書ける小説家だったり、絵や写真に関わる仕事をしていたら、どこかでの定住、それが1年か数年程度のものであるかもしれないが、大小説家のように世界各地で住む人生を選んだかもしれないが、私は調べて書くライターを選んだせいで、資料の山に埋もれていたかった。だから、日本を離れることができなかったというわけだ。「この国に住めるなら、仕事などなんでもいい」とは思えなかったのだ。

 

1879話 観光学・旅行学・旅学 その5(最終回)

 

 日本の大学で観光学を教えるようになるのは、1963年に東洋大学短期大学部観光学科が最初だ。これは、現在、東洋大学国際観光学部国際観光学科になっている。4年制の大学では、1967年に立教大学社会学部観光学科が最初である。その資金は、箱根富士屋ホテルが出したという。

 最近、全国の大学では「観光学科」とか「ホスピタリティー学科」などを設けて学生を集めようとしているようだ。旅行会社、航空会社やテーマパーク、リゾートホテルなどへの就職を希望しての入学なのだろうと想像したのだが、立教の場合はちょっと違うのだと、観光学部の教授が言う。

 「ウチの場合、広い意味の観光関連企業に就職するのは、まあ3割といったところです。観光業務の実用知識を求めて観光学部を志望する学生は、そんなものです」

 たぶん、短大の場合と就職事情はかなり違うのだろう。

 立教大学社会学部観光学科は、1998年に観光学部となる。その時のいきさつも教授が教えてくれた。

 「『観光』という呼称にひっかかるものがあるということで、『旅行学部』にしようという意見も出たんですが、最終的には観光学部になりました」

 私は旅は大好きだが、いわゆる観光地にはほとんど出かけないから、「旅行=観光」という公式で私の旅を定義されたくない。だから、「観光学」というものになじめなかった。私は、旅行というものを、移動とほとんど同義語だと解釈している。会社の出張であれ、移動していれば何かを体験する。通学でも出勤でも、移動していると何かが起こる。永六輔風に言えば、「横丁の角を曲がっても、旅です」ということになる。あるいは、20世紀のユダヤ人の大移動やパレスチナ人の移動も、旅行だと考えた方がいい。巡礼も、もちろん旅行だ。旅行に優劣をつけず、詳しく厳しい定義などせず、「移動すれば、旅」程度に考えている私には、「旅行=観光」とは考えにくい。しかし、カネが儲かる旅を「観光」としたいと業者や関連団体は考えているようだ。

 旅行を観光学の研究分野だとしたことで、こぼれ落ちた事柄はじつに多い。難民や移住者の放浪を持ち出さなくても、バックパッカーの行動も把握できない。バックパッカーは観光をしないというわけではないが、観光地を巡って何年も旅をしているわけではない。ある場所にしばらく定住するという行動も、観光学ではとらえにくい。私の関心分野では、観光学の最大の欠陥は、旅行史を無視していることだ。

 「観光の最初は、トーマス・クックの団体旅行で・・・・」といった記述はあるが深くはない。日本交通公社出版事業部が1982年から83年にかけて出版した10巻本『人はなぜ旅をするのか』は、第1巻が『馬蹄とどろく“王の道”』、第10巻は『戦争と平和。そして未来』。旅行が大衆化した20世紀の記述が少ないのが難点だ。

 旅行の近現代史を知りたい。若者の旅行史を調べたくなった。誰の資金的援助もなく、組織の枠を出た個人の旅で、だから詳細な計画などなく、思うままに旅する人達の歴史を調べたい。団体旅行の歴史は、旅行社や交通機関が押さえているだろうが、資料として残りにくい個人の旅行史を調べておこうと思った。大学で講師をやっていたころは、旅行史を中心にしゃべっていた。

 解説は一切なしに、若者の個人旅行史のメモを書いておこう。ひとりくらい、興味のある人がいるかもしれないからだ。

 若者の旅の黎明期はイギリスのボーイスカウトから始まり、その影響を受けたドイツで、ワンダーフォーゲル運動が始まる。それとは関係なく、ユースホステル運動もドイツで始まる。20世紀初めのことだ。パリでは「ボヘミアン」などがもてはやされ、ジプシー音楽お注目され、「放浪」や「自由」が魅力的なものとされる。

 その流れはアメリカに伝わり、ビートが生まれる。中心となるのは、ユダヤ人や同性愛者で、反キリスト教的であり、反政府、反権力という傾向がある。それとは別に、ヘンリー・デイビッド・ソローの著書『ウォールデン 森の生活』などで示した自然賛美と市民運動は、のちのヒッピーに影響を与え、バックパッカーと呼ばれる人たちが1970年代に登場する・・・・。

 こういう大筋を補強するために、ドイツの若者の行動やアメリカのトレイルなど、勉強しなければいけないことが多く、それは楽しいことではあるが、基礎学力が大きく欠ける私には、いままでまったく興味がなかったドイツ近現代史の専門書を読むのはつらい。いや、勉強がつらいというのは、大したことではないが、世間の多くの人は、旅行史というものにほとんど興味がないのだ。私の勉強に関して、ある旅行ライターは「そういうことって、何がおもしろいの?」と聞いた。若者がなぜ旅に出たのか、いかにして旅に出たのかという近現代史を、「つまんない」と旅行ライターに言われてしまうと、黙るしかない。旅行ライターの仕事はエッセイかガイドがその守備範囲で、旅行研究など誰も興味がないのだ。

 だから、ここでも詳しい解説なしに、旅行の近現代史の大筋を書いた。

 

 

1878話 観光学・旅行学・旅学 その4

 

 日本には学問としての旅行学はないが、観光学はある。文献も多いし、大学の学部や学科や専攻コースなどで、「観光研究」などもある。一方、旅行学が大学などで講義されているという事実はつかめない。文献も見つからない。「なぜだろうか?」という疑問が、立教大学観光学部で授業を始めたときから気になっていた。

 大学で観光を取り上げた最初は、アメリカのコーネル大学にホテル経営学部が設立された1922年のことだという。経営とはいえ、経済学部の学問だけではなく、もてなし(ホスピタリティー)を教えるという。ホテルがある土地の観光開発も考える学問である。リゾート地のホテルなら、ホテル経営は経営学を超えて、その土地にいかに客を呼ぶかという研究が必要になる。ホテルのことだけを考えていてはいけないのだ。

 ちょっと横道にそれた話をする。

 コーネル大学でホテル経営学を学んだふたりの人物に心当たりがある。もちろん面識はない。ひとりは星野リゾート代表の星野往路。もうひとりは、チャック・フィーニー。空港の店舗でよく知られるDFS(デューティー・フリー・ショッパーズ)の創業者。ハワイで日本人相手に免税商売で大儲けした。売れなくて困っていたブランデーを二束三文で大量に買い、日系人の店員が日本人観光客に「ナポレオン」の名で売りまくって大儲けした。「ウチの会社が空港を建設するから、免税店の独占営業権を認めろ」とグアム政府にせまり、成功させている。巨万の富を得ながら、そのほとんどを慈善事業に寄付してしまい、ハンバーガーを食い、エコノミークラスで移動していたという人物を描いた『無一文の億万長者』(コナー・オクレリー、山形浩生訳、ダイヤモンド社、2009)は驚きの傑作だ。「DFSは、LVHM(モエ、ヘネシールイ・ヴィトン)に売ったから何でも話すよ」と言って、聞き書き取材に応じて完成した本だ。観光学の教科書に絶好なのだが、なぜか観光学者はとりあげない。

 立教大学観光学部で「トラベル・ジャーナリズム論」という授業をやることになったが、「トラベル・ジャーナリズム論」というものが、どういうものかわからない。トラベルのジャーナリズムの論なのだろうが、よくわからない。「まあ、こういうことだろう」と考えた授業内容を学部長に伝えると、「お好きなようなさってください」と言ってもらえたので、本当に好きなことをやった。

 だから、私は正面切った「観光学」の授業などしたことはないし、観光学というものをまったく知らないので、専門書を読んだ。それで、理解したことはこうだ。

 観光学とは、観光で利益を得る地域や団体や企業のための学問である。団体は「観光立国」をめざす政府レベルから、「村おこし町おこし」をしたい地方自治体までの活動である。観光で利益を得る企業は、旅行業や宿泊、交通、飲食、土産物などさまざまな分野にわたる。

 それだけではまずいと考えた人が、旅先の文化とか、売春や薬物など負の側面(これをダーク・ツーリズムという)なども取り上げることがある。だから、立教大学観光学部には、観光学科と交流文化学科のふたつがある。私は一応、交流文化学科の講師だったが、すべての学部の学生を受け入れた。

 

 

1877話 観光学・旅行学・旅学 その3

 

 学問としての、旅学、旅行学、観光学について考える。

 ネット上に「旅学」という語はいくらか見つかるが、それは旅を研究するというものではないようで、「私は旅からこんなことを学びました」という報告や、「旅で学ぶには、こうしましょう」というタグイを、「旅学」と称しているらしい。つまり、学術用語ではなく、人生論や自己啓発のように見える。

 ドイツには、学問としての「旅学」があると教えてくれたのは、民族宗教学の山田仁史さんだった。研究会でたまたま会ったときに、「今、シーボルトと日本について調べようかと思ってましてね」というと、「ちょうどいい本がありますよ」と教えてくれたのが、『黄昏のトクガワ・ジャパン』(ヨーゼフ・クライナー編著、NHKブックス、1998)だった。さっそく読むと、そのおもしろさに驚いた。私が知りたいことがていねいに書いてある。私が知りたいことというのは、ドイツ人と旅の関係だ。旅をしていると、ドイツ人と出会うことが実に多い。人口が少ない国なのにオランダ人と出会うことも多い。調べてみれば、民族学や地理学は、ドイツ生まれの学問らしい。植民地獲得に出遅れたドイツだが、異文化に対する興味はスペインやポルトガルよりもはるかに強いように思った。スペインもポルトガルも、富の収奪とキリスト教化には熱心だったが、異文化に学ぶという好奇心はなかったように思う。

 ドイツ人でありながら、オランダ人と偽って、はるばる日本に渡ってきたシーボルトの文化的背景を知りたかった。幕末の日本人のオランダ語力が素晴らしいとわかるのは、シーボルトオランダ語が変だと気がついたことだ。「こいつは、どうもオランダ人じゃないな」と薄々気がついていたようだが、それに対してシーボルトは「オランダ高地の訛りだ」と答えたという。当時の日本人は、オランダに高地などないことを知っていたのだろうか。それはともかく、私の疑問に、山田さんが1冊の本で解答をくれた。

 その本で、クライナーはこう書いている。1762年に『旅する学者のための手本』を書いたヨハン・ダーヴィッド・ケラーは、1749年にすでに大学で「旅学」についての講義をしている。その後任となる学者たちも、旅学の授業を続けた。教師のシュレーツァーの講義は次のようなものだった。「旅する国を綿密に研究すべきである。そこで見ること、聞くこと、集めること、そしてそれらを記録することが大切である。そのためにはその国の言葉を身につけ、その国の文化に『潜む』ことが大切で、そして個人的な体験をすることである」

 18世紀のドイツで盛んに論じられた旅学を学んだのは、シーボルト父子である。旅先の文化を学び、物を買い集めるという行為が、博物館の時代と重なるのである。

 ドイツの旅学は、宮本常一の旅学の考えに近いように思えるが、宮本がドイツの旅学を知っていたのかどうかはわからない。『宮本常一の旅学』を書いた福田晴子さんが、ドイツの旅学を知っていたかどうかもわからないし、その著作に言及はない。旅行研究は、近現代のドイツ史と深い関係があるのだが、長くなるのでここでは触れない。

 東北大学准教授の山田仁史さんは、博識と人柄のすばらしさで、誰から敬愛され親しまれていた気鋭の研究者だったが、2021年1月に急逝した。まだ48歳だった。年に何回か会っていろいろ教えてもらえるのがうれしかったのに、残念だ。

 最期の会話は、「前川さんて、宗教学のすごい本まで書いているんで、驚いたんですが、別人でしたね」と笑いあった。私と同姓同名の学者がいるのだ。山田さんのことはこのコラムで何度か書いているが、何度でも書いておきたい。ネットで検索して見つからないと、その人物は存在しなかったことにされてしまう時代なので、アジア文庫の大野さんなど、機会に応じてその名を残しておきたい。人々の記憶から消えると、その人が本当に亡くなってしまうからだ。

 

 

1876話 観光学・旅行学・旅学 その2

 

 10代20代の私は、無知ゆえに教条的で、旅行ではなく「旅」という言葉にそそられるところがあり、「放浪」という言葉にもっと魅かれるところがあった。ひとり旅が好きで団体旅行が嫌いというのは、思想的なものではなく、ただ単に誰かと歩調を合わせて行動するのが苦手だからに過ぎないのだが、そこになにか理屈をつけたいという考えもあったかもしれない。

 30を過ぎて、心身ともに丸くなったせいか、旅行でも旅でも、どっちでもいいさと思うようになった。違いは語感、座りの良さだ。「ひとり旅」、「団体旅行」はすっきりするが、「ひとり旅行」はまだしも「団体旅」は座りが悪い。「旅はどうあらねばならない」と言った論議も興味がない。「旅は学びだ」と考える人がいるのはいいが、それを全人類に当てはめないでほしいと思う。旅の意味など、人それぞれでいいのだ。「いい旅」とは、旅をした人それぞれの価値観で判断するもので、冒険旅行がいい旅で、ホテルのプールサイドで本を読んでいるだけの旅がつまらない旅だと、他人が判断することではない。

 そういう私でも、いままで他人の旅に言及したことはある。旅の目的を、「異文化体験」とか「自分探し」だとするなら、できればひとり旅が適しているし、カタコト以上の外国語会話力、最低でも英語での会話ができるだけの力を備えておいた方がいいといったことを書いたことがあるし、大学生にしゃべったこともある。しかし、旅する人全員がそうあるべきだと思っているわけではない。人それぞれに、好きなように旅すればいいのだ。

 旅行の仕方に関して、宮本常一や観文研の影響は全く受けていないと思っていたが、『宮本常一の旅学』で、宮本の父善十郎の考えを紹介している記述に付箋を貼った。

 常一が16歳で進学のため山口から大阪に出るとき、父は息子に旅の心得ともいえる十カ条を申し渡したという。そのポイントを、いくつか書いてみよう。

 ●汽車に乗ったら、窓の外を見よ。畑の作物を見て、家を見て、屋根を見よ。

 ●駅に着いたら、人々の服装に注目せよ・・村でも町でも、かならず高いところに登れ。村や町の詳細を観察せよ。

 ●時間の余裕があれば、できるだけ歩け。

 この記述になぜ付箋を貼ったかというと、これが私の旅でもあるからだ。森の木々を観察する基礎学力はないが、畑なら外国でも多少はわかる。見慣れない作物を見つけ、「さて?」と考えて、「あ、そうかタバコか!」。50センチ以上のタケのあるタカナを見つけたのも、北タイのメコン川沿いの畑だった。田の作り方や農機具を眺めたりもする。農作業の時の服装も見るのも楽しい。

 町ではかならず、人々の服装も履物も、なんでもよく見る。市場も食堂にも行き、食材と料理も見て、食べるが、人々の食べ方もよく観察している。もちろん、町をよく歩いている。

 私の旅の仕方は、誰か指導されたものではなく、私が楽しいと思うように行動しているだけだ。「こういう旅の仕方が正しいから、皆も見習いなさい」などと言う気は、まったくない。私の旅は誰かに依頼された「調査」ではなく、ただの遊びである。街を歩き、人を眺め、誰かと話し、資料を読むのが好きだというだけのことだ。だから、旅はこうあるべきだという主張は苦手なのだ。「旅学」というものが、望ましい旅の形を規定するのなら、そういうものに、私は興味がない。

 

 

1875話 観光学・旅行学・旅学 その1

 

 かつて観文研(日本観光文化研究所)という組織があった。近畿日本ツーリストが1966年に設立した機関で、所長は民俗学者宮本常一。その宮本は81年に亡くなり、研究所も89年に閉所した。

 『宮本常一の旅学 観文研の旅人たち』(福田晴子、八坂書房、2022)という本を知ったとき、宮本常一と観文研の関係者について書いた本なんだろうと思って注文したのだが、届いた本は私の想像とは違った。誤解した私が悪いのだが、この本は、「宮本常一が旅をどう考えていたか」であり、その宮本のもとに集まってきた若者たちがどのように宮本に鍛えられたのかという教育論だった。

 観文研という組織は、活字の世界ではよく知っているが、組織そのものと深くかかわったことはない。この本の冒頭に、「主な登場人物」として、25人の名と簡単な紹介リストがある。その25人のなかで、名前を知っていて著作も読んだことがあるという人が半分の13人いる。会って話をしたことがある人が、8人いる。食文化研究会でよく会っていた神崎宣武さんが観文研関係者だということは知っていて、宮本常一の話をしたことがあるが、同じ食文化研究会でよく顔を合わせていた愛知大学教授の印南敏秀さんが民俗学者だということはもちろん知っていたが、観文研関係者だとはこの本を読むまで知らなかった。1980年前後に何回か会っていた森本孝さんが、2022年2月に亡くなったとこの本で知った。

 「旅が学びだ」といった宮本の考えは、この本の著者が作っているサイト「旅学喫茶晴天堂」に詳しくあるから、興味のある方はそちらをどうぞ。

 観文研にはふたつの柱があった。ひとつは、宮本の流れを受け継ぐ民俗学研究の旅を志向するグループだ。もうひとつの柱は、宮本常一の長男宮本千春が大学探検部の出身だということから、探検や冒険を志向する若者たちのグループだ。このグループの若者たちが、のちに「地平線会議」を作る。

 私は旅情報の近くに身を置いておきたいとは思っていたが、観文研に近づくことはなかった。民俗学というものに、いまでも関心が弱い。例えば「農耕儀礼」とか「通過儀礼」といったテーマの研究でも、どこかの村の儀礼を調べればそれで終わるのが民俗学だが、私の興味は外国ではどうなのかといった比較文化だから、文化人類学に近い。竹細工研究ならば、外国の編み方は日本と同じか違うのか、その歴史的伝播を知りたくなる。

 探検冒険にも興味がなかった。私は人が生活していない土地に興味はないし、大きな街の文化に興味があるから、秘境探検や辺境の縦断や横断などに、まったく興味がないのは今も同じだ。

 だから、その名はよく知っているものの、実情をまったく知らない観文研の歩みをこの際知りたいと思ってこの本を買ったのだが、そういう内容の本ではなかった。

 著者は「旅は学ぶ場だ」といった宮本の考えに共鳴しているようで、それはそれでいいのだが、私はまったく違う。この本のいい読者にならなかったのは、そういう考えの違いによるものからかもしれない。