1422話 音楽雑話 第4回

 謡曲はいいなあ その1

 

 タイ人と音楽について調べ始めたのは1990年代のことだった。資料は、ない。タイ人の音楽ライターと知り合ったので、タイ大衆音楽史といった資料はあるのかとたずねたら、「ない」ということだった。日本で言えば、雑誌「平凡」や「明星」のような昔の芸能雑誌に、当時の人気芸能人の記事はあるが、まともな大衆音楽史の本はないという。「タイ人は、そんなことに興味はないのよ」と、音楽ライターは言った。音楽は消費し、楽しむもので、研究するものだとは学者やライターは考えていないという事らしい。学者は天下国家に関係するものを研究するのが本流という考えだ。

 もし音楽評論家や音楽ライターが「タイ音楽の本」を書くなら、歌手や作曲家やプロデューサーやラジオDJへのインタビューと同時に、音楽的分析やコンサートやレコードの批評を載せれば完成だろうが、私は音楽を送り出す側の事情にはあまり関心がなかった。私はタイ音楽の本を書きたかったわけではなく、タイ人と音楽の話を書きたかったのだ。音楽の専門家は書かない話、音楽を聞く側の話を書きたかったが、まずはタイ音楽の基礎知識を仕入れておきたかった。

 私はタイ語の文献が読めるわけではないが、資料があるなら誰かに要旨を翻訳してもらうこともできるのだが、使える資料はないらしい。英語の資料は、のちには何冊か出版されたが、その当時は見つからなかった。何から手をつけたらいいのかわからないから、しかたなく、日本大衆音楽史に手をつけた。幸いにも、こういう資料はいくらでもあり、すでに昔から何冊も読んでいる。

 これは実に勉強になった。レコードといえば、音楽を録音したものと思いがちだが、レコードは「記録」だから、保存しておきたい講演などの音声を録音したものが最初だというのは、タイも日本も同じだった。そして、昔のタイにも日本にもレコード会社はないから、録音は現地でも、レコード制作はヨーロッパだったのだ。

 山田耕筰は、日本語のアクセントに合わせて作曲しなければならないと考えた。例えば、「赤とんぼ」という歌は、「垢トンボ」にならないように、「あ」が高く、「か」が低くなるように作曲している。声調言語であるタイ語の場合はもっと深刻で、赤と垢以上に、すべての音には高低など違いが決められているから、声調を無視して作曲すると、意味がつかめなくなる。タイでも日本でも、入ってきた西洋音楽にどう対処したかという体験は似たようなものだとわかってきた。だから、「西洋音楽とタイ人」という研究テーマは、「西洋文化と接したアジア人」と考えると、タイと日本の違いはない。

 タイにいるときは、タイの音楽をラジオやテープで徹底的に聞いていたが、日本に帰ると、日本の古い歌を聞きたくなった。タイの歌謡曲は、日本の歌謡曲の影響を強く受けているらしいということがわかってきたが、私は歌謡曲をまともに聞いたことがなかった。1950~60年代に少年時代を過ごしたから、テレビからもラジオからも、街でも駅でも、様々なジャンルの音楽が流れていた。クラッシクの英才教育を受けている気の毒な少年少女やその教師たちは、クラッシク以外の下品な音楽を聞く耳を持っていなかったが、それ以外の普通の民は、音楽の好みに関わらず、じつにいろいろな音楽を聞いていた。そして、歌謡曲自体が千変万化、ぬえのごとく姿を変えていく時代に私は生きていた。歌謡曲という怪物を、毎日感じて過ごしていたのが、50~60年代の日常生活だった。聞く気がなくても耳に入り、いつの間にか覚えてしまうという時代だが、積極的に歌謡曲を聞くことはなかった。

 タイの音楽史を調べようというこの機会に、日本の歌謡曲をじっくり聞いてみようと思った。当時はまだパソコンで音楽を聞くという時代ではない。昔のレコードを買い集める資金はない。それで思いついたのは、NHKの「ラジオ深夜便」の午前3時からの歌謡曲番組を聞くことだ。この番組で、それまでよく知らなかった戦前の歌謡曲を、ほぼ毎日たっぷり聞いた。

 

 

1421話 音楽雑話 第3回

 FENを聞く

 

 中学生のころだ。投稿ハガキを読むだけか、やたらにしゃべりまくる深夜放送にうんざりして、音楽を流している局はないかと探していた。そのとき、英語しかしゃべらない局が見つかり、北朝鮮朝鮮語放送のように、外国の放送が日本に流れ込んできたのだろうと思い、興奮した。「日本にいても、アメリカのラジオが聞こえるんだ!」。日本を出たい。外国を見てみたいと思っている日本の少年にとって、「外国のラジオ放送を見つけたぞ!」という喜びだった。電波を知らない中学生だった。

 ラジオの番組表をみて、その局がFENだということを知り、番組でしばしば” Far East Network , American Forces Radio”とか”Yokota base”と言っているのを聞き、米軍放送だと知った。横田基地(東京都武蔵村山市)を「ヨゴダ・ベイス」のようにアメリカ式の発音をしているのに気がついた。東京で放送しているのだとわかったが、アメリカ本国で制作された番組テープをそのまま放送していることもあるとわかってきた。そうだった、昔はFENの番組表が新聞に載っていたのだ。

 時間帯によるのか、それとも「グットモーニング・ベトナム」のように、軍上層部からの指示なのか、激しいロックはあまりかからなかったような気がする。(右翼・保守勢力が大好きな)カントリーが多く、深夜の深い時間になると、R&Bが流れた。伝説的DJウルフマン・ジャックをよく聞いていた記憶もあり、今調べてみると、1970~86年に”Wolfman Jack Show”を放送していたようだが、どういう音楽を流していたかという記憶はない。1980年代に入ってからだと思うが、毎朝3時20分ごろになると、なぜかBilly Paulの泣き節”Me and Mrs. Jones”が流れてきた。この歌がダブル不倫の歌だと知ったのはもう少し後のことだ。

 熱心にFENを聞いていたわけではなく、本を読んでいるときのBGMではあったが、もしかすると、のちの海外旅行に多少は役に立ったかもしれない。英語を覚えたというわけではない。バカ話か、「青春とは」とか「生きるとは」と言ったことを語りたがる深夜放送にうんざりしてFENを流し続けていただけなのだが、旅に出ても英語だからと身構えるとか緊張する「英語恐怖症」はなかった。学校の英語の成績は、それはもうひどいものだったが、FENを聞いていることで、少しは英語の耳ができたのかもしれない。

 ちなみに、FENAFNと変わった現在でも、時々聞いている。台所でラジオを聴きながら料理をしていて、どこの局も一斉に野球中継をする夏になると、AFNNHK第2放送の外国語番組を聞いている。

 

 私はテレビの大橋巨泉が大嫌いだった。セミリタイアなどと言わず、完全に引退し、テレビ界から去ってほしいと思っていた。しかし、60年代のラジオの大橋巨泉はジャズに対してジャズ評論家として向き合い、茶化すことはなく、真摯に解説をした。歌詞の意味を解説したり、ジャズのごく初歩を教えてくれた。ジャズを語るときは、テレビでよく見る「俺が、オレが」の巨泉ではなかった。晩年、永六輔に対して黒子にまわって支えている姿は、それまでの「テレビの巨泉」ではなく、意外であった。あの巨泉がアシスタントであり介護者であった。永六輔、2016年7月7日没。おそらく、その死を知らずに、大橋巨泉は4日後に死んだ。

 大橋巨泉と共にビリー・ホリデイの自伝『黒い肌』(のちに改題され『奇妙な果実』)を翻訳した油井正一のラジオ番組、「アスペクト・イン・ジャズ」(1973~79)をよく聞いた。時代は「天気予報番組のBGM」にふさわしいフージョンに入りつつあり、そういう音楽が性に合わない私には、1920年代のビックス・バイダーベックキング・オリバーなど、ジャズの歴史をさかのぼって解説してくれる好番組だった。現在は、大友良英の「Jazz Tonight」(NHKFM 土曜23時)をよく聞いている。大友と音楽の趣味はだいぶ違うが、自分ではまず聞かないジャンルの音楽が放送されるので、「ふーん」と聞いている。

 

 

1420話 音楽雑話 第2回

 ジャズの時代以後

 

 日本でも、ジャズの歴史は古い。戦前期にもジャズの時代があった。その昔は、おもにアメリカの大衆音楽をすべて「ジャズ」と呼んでいた時代があった。ヨーロッパ起源の音楽でも、ヒット曲を歌う場合も、「ジャズ、ジャズソング、ジャズ小唄」などと呼んでいた時代がある。例えば、こういう本がある。

 『モダンジャズ小唄集』 東京新民謡普及会、1929(昭和4)年

 あるいは、戦前期のジャズを集めた「ニッポンジャズ水滸伝」といったコンピレーションレコードがある。

 戦後のジャズブームは、終戦とともに始まった。ラジオはNHK進駐軍放送しかない。NHKを支配しているのは進駐軍だ。戦争が終わると、ラジオから突然ジャズが大量に流れ出した。

 進駐軍放送の歴史をちょっと振り返る。

 1942年 アメリカ軍直営のラジオ局AFRS(The American Forces Radio Service)開局。

 1945年7月 アメリカ軍が沖縄を占領し、ARRS開局

 1945年9月 AFRSを東京で開局。コールサインは、東京WVTR、大阪WVTQ、札幌WLKDなど全国に広がる。アメリカ音楽を聞きたい、歌いたい演奏したいという東京の若者にとって「WVTR」がアメリカだった。進駐軍時代をよく知る芸能人が懐かしげにWVTRの思い出話をしているのをラジオやテレビで何度も聞いた。AFRSは、日本ではFEN(Far East Network)で、私はこちらの方が親しみのある局名なのだが、東京在住日本人が、いつごろからこの局の呼称をWVTRからFENに変えたのかはわからないが、たぶん、1950年代のいつかだろう。

 1977年 FENAFN(American Forces Network)-Pacificと改称した。

 戦後日本のジャズブームは、終戦から1950年代末あたりまで続いた。ラジオからジャズが流れ、楽器ができる若者は米軍キャンプで仕事をした。アメリカから軍の慰問団として、有名ミュージシャンが来日し、日本人の前でも演奏した。米軍キャンプで演奏していた日本人は、その後もプロのミュージシャンになった者もいるが、渡辺プロダクションホリプロのように、芸能プロダクションを設立する者もいた。大学生のバンドは、卒業後放送局や雑誌社などマスコミに就職したり、ライターなどになった。

 1960年代後半にラジオ少年になった私が聞いていた番組に、元ジャズ青年がかかわっていた。ディレクターだったり、放送作家だったりDJなどとして、番組に関わった。ジャズの番組はそれほど多くないが、バラエティーのテーマ曲やコマーシャルにジャズがよく登場した。映画音楽にジャズが使われることが多くなり、ラジオでは映画音楽としてジャズが流れていた。のちに、「日本映画における異文化衝突」をテーマに日活映画をまとめて見たが、日活アクション映画のバックにジャズが流れているにも確認した。裕次郎がジャズ・ドラマーになる「嵐を呼ぶ男」(1957)でわかるように、当時の「ジャズ」は若者にとって、「カッコいい」音楽だったのだ。ジャズと映画を結びつけるのが、新しかった。

 前回紹介した、ジミー・スミスの「ザ・キャット」やラムゼイ・ルイスの「ジ・イン・クラウド」などは番組テーマ曲だったかもしれない。あの頃いろいろな音楽を聞き、そのうちのいくつかは記憶に残り、のちの音楽趣向に大きな影響を与えた。例えば、こういう音楽だ。今は「超有名曲」と言えるが、ガキにはそんなことはわかっていない。ミュージシャンの知名度も知らない。ただ、音楽を聞いて、「すごいぞ、これ!」と感じただけだ。

 “Mornin’” (1958)  Art Blakey and Jazz MessengersNHK美の壺」のテーマ曲)

 「死刑台のエレベーター」(1958)  Miles Davis

 「危険な関係のブルース」(1959)  Art Blakey and Jazz Messengers

 “Take Five”(1959) Dave Brubeck Quartet

 “Cool Struttin’ “ (1958)  Sonny Clark

 “Five Spot After Dark (1959)  Curtis Fuller

 “The Sidewinder”(1964)  Lee Morgan

 思い出せば、マイルス、スタン・ゲッツコルトレーンヘレン・メリルなど何人もの名が浮かぶが、まだジャズファンでもなく、LPを一枚も持っていないし、ジャズ喫茶にもまだ行ったことがない中学生のガキが、こういう音楽に接して、「いいなあ」と聞きほれた。曲名や演奏者名を覚えたのは、ラジオのジャズ番組のおかげだ。

 

 

1419話 音楽雑話 第1回

 

 「4歳児をなめんなよ」

 

 あるテレビ番組で、4歳の時に両親が離婚することになって、いろいろ苦しんだという男の話を受けて、おぎやはぎ矢作兼が「4歳児をなめんなよ」と言った。矢作自身、小さいころ両親が離婚することになり、父と暮らすか母と暮らすかの決断をすることになった。「母と暮らすと言えば、父が悲しむ。父と暮らすと言えば、母が苦しむ。4歳児だって、両親を悲しませないようにするにはどうしたらいいのか考えているんだよ。ガキだからって、何にも考えてないわけじゃない。4歳児をなめんなよ」

 関ジャニ∞横山裕も、そんなことを話していた。自動車の中で両親が離婚の話をしているのを、後部座席の彼が聞いている。そのときの車の外の風景もよく覚えているという。子供は、大人が考えているほど子供ではない。

 これから話そうとしているのは離婚ではなく、音楽の話だ。

 幼い時に聞いた音楽が、その後の音楽の趣味嗜好の方向がすでにある程度決まっていたようなのだ。私は1950~60年代のジャズや、60~70年代のR&Bが大好きなのだが、その趣味の基礎は1960年代初めあたり(つまり1952年生まれの私が10歳未満)ですでに決まっていたような気がするのだ。10歳未満、もう少し年齢をあげて「小学生まで」とすれば12歳までということにしてもいい。自分のラジオは持っていないし、好きなラジオ番組にダイヤルを合わせることもしていない。ラジオから一方的に流れ出てくる音楽の中で、心に届いたものが記憶に残り、のちにその曲名や演奏者名を知ることになる。クラシック音楽なら、親が「名曲」を聞かせたりするだろうし、「父が大学時代ジャズをやっていて・・・」という家庭なら、ビッグバンドジャズやフランク・シナトラリビングルームに流れているということがあるだろうが、我が家ではそういう音楽環境にはなかった。

 以下、小学生時代に聞いて、「これはいい!」と感じた音楽を書き出してみる。(  )内は発表年だが、当然、私がその年に聞いているわけではなし、聞いた当時に曲名や歌手名を知っていたわけではない。ずっとあとになって、「ああ、そういうタイトルなのか」としった曲も少なくない。

  • Only you(1955)  ザ・プラターズ
  • What’d I say(1959) レイ・チャールズ。彼の歌は、ほかに「Georgia on my mind」(1960)や「I can’t stop loving you」(1962)など、60年代にはよく聞いた。
  • Work song(1960) 作曲したナット・アダレイが吹き込み、兄のキャノンボール・アダレイも同じ年に発表している。私が何度も聞いたのがどちらのバージョンであったかわからないが、高校生以降の記憶では「キャノンボールの曲」と認識していたらしい。
  • Sherry(1962) The Four Seasons 。のちに、フォーシーズンズをモデルにした映画「ジャージー・ボーイズ」(2014)を見たとき、「ああ、これも彼らの歌だったのか」と初めて気がついた歌が何曲かあった。
  • The Cat(1964) Jimmy Smith。今調べると、ビルボードの12位になったらしい。あの時代、ジャズもヒットチャートに入っていたのだ。この曲は、どうも何かの番組のテーマソングだったのではないかという気がする。番組テーマ曲とジャズの話は、いずれ改めて。
  • The in Crowd(1965) Ramsey Lewis。この、ねっとりしたピアノが好きだった。中高校生時代にラジオでよく聞いた。CDを買ったのはそれから40年以上たってからだ。長年の憧れが爆発し、十数枚の大人買いをした。が、この曲以上のものはなかった。

 音楽史の上では、1960年代なかばは、プレスリーからビートルズに変わる時代なのだが、私はプレスリーには何の興味も抱かなかったし、ビートルズにも熱をあげることはなかった。ロックに足を踏み入れることもなかった。オーティス・レディングアレサ・フランクリンなどを聞いていた。どうも、白人音楽に食指が動かなかった。

 

 

 

1418話 下品な料理

 

 世間では、刺身は上品で、アラの料理は下品だと考えている人がいるらしい。あるいは、ヒレ肉やサーロインの料理は上品で、内臓料理は下品だと考えている人がいる。そういう考えにはくみしないが、下品な料理はたしかにある。

 資料を探すとこれから半日かかるかもしれないので、記憶で書く。伝説的ノンフィクションライターである本田靖春のエッセイに出てくる話だ。彼がまだ新聞記者をやっていた若い頃、先輩記者と小料理屋に入った。カウンターに着くと、店主が集めた食材や調味料などの自慢話が始まった。一方的にしゃべりまくったあと、「で、ご注文は?」と言った。すかさず先輩が、答えた。

 「何でもいいから、能書きのない料理をくれ!」

 料理の解説は、情報を食べたい人には上品かもしれないが、料理を食べたい人には下品だ。

 下品な料理の代表例は、金箔金粉料理だ。料理の上で金箔がそよいでいる。酒には金粉がゴミのように漂っている。金は食後一定時間がたつと、便器に排出される。人体には害ではないが、有効な働きがあるわけではない。単に、成金趣味を満足させる効果があるに過ぎない。だから下品なのだ。

 金粉ではないが、「これは下品だなあ」と思うのは、レインボーカラーに彩られたアメリカの巻きずしだ。コバルトブルーの軍艦巻きなんか、食べたくない。極採色の日本料理はアメリカでは大衆化に役立つし、大衆化していけばいずれ、”authentic”(正真正銘の、本物の)という形容詞で表現される日本料理店に行く客も増えるだろう。アメリカ人の好みに合わせて変化したのだから、これはいたしかたないのだが、でもなあ・・・。

 金粉料理よりもずっと前から「下品だ!」と思っていたのが、北海道で見たカニラーメンだ。

 カニラーメンいろいろ(リンクを貼る方法を独習しました。ヒマの効用です)

 「宴会に、カニは出すな」という法則のようなものを聞いたことがある。カニが出ると、全員が身をほじくる作業に没頭して、会話が途絶える。だから、宴会向きではないというのだ。それはゆでたカニのことだ。カニラーメンは、会話がなくなるだけでなく、麺がのびる、汁が冷める。

 その昔、ある雑誌の取材旅行をしているときに、少々高い定食を食べた。小さなイセエビの半身が入った味噌汁がついていて、高価に見せているが嫌な予感がした。エビの身をほじくると、指が汚れ、お膳に水滴が飛び、汁が冷めるから、今風に言えばインスタ映えだけの下品な味噌汁だった。

 カッコだけの、カニラーメンやエビ・カニの味噌汁は、じつに下品である。

 今、思い出した。もちろん取材で行ったのだが、某有名料亭の取材で昼のコースの話を聞き、撮影し、食べた。この料理がいけない。皿にさまざまなモノがのっているのだが、どれが料理で、どれがタダの飾りなのかがよくわからないのだ。モミジは細工モノか植物か。松葉は細工モノか植物か。小石は小石か、あるいは砂糖菓子かわからないのだ。料理の皿に料理以外のモノ、食べられないモノをのせるのは下品であり、危険な行為だ。

 

 

1417話 空想・将来の仕事 「下町ロケット」は嫌だ

 

 自分が、今もし高校生で、将来の仕事を考えたとすると、どういう仕事を選ぶだろうかという空想をした。「なぜ、そんな空想を?」と問われても、「ヒマつぶしです」としか答えようがない。

 いろいろな職業を思い浮かべて、「これはどうだ」とあれこれ考えていて、ふと両親のことを思い出した。両親は、こんなバカ息子を飽きもせずに育ててくれた。さまざまに支えてくれたが、何もしてくれなかったことにも感謝しなければいけないと気がついた。

 両親は、このバカ息子の将来に対して、地図を示すこともしなかったし、医者になれ、弁護士がいい、官僚になれ、一流企業に勤めろなどとも一切言わなかった。教師でも自衛官でも、市役所の職員でも、「安定しているのがいちばん。老後の心配もない」と、平穏な生活を奨励することも一切なかった。高校生のころ、母はたった一度だけ、「ウチには財産も土地も会社も、子供に残すようなものは何もないんだから、将来は自分で考えなさい」と言ったことがある。成績不良の落ちこぼれ高校生の行動に、釘を刺したのだろう。

 父も何も言わなかったが、想像すると、息子の将来に夢があったのではないだろうか。父は建設会社の重機技術者だったから、この息子も建設会社、できれば大手ゼネコンに入り、父と同じ仕事につくことを期待していたのではないか。「ウチのバカ息子が、今年なぜか大成に入って・・・」などと同僚に自慢したかったかもしれない。大手企業ではなくても、中小の建設会社の、例え事務職であっても、息子と酒を飲みながら現場の話を肴に楽しいひと時を過ごしたかったのかもしれないが、父は何も言わなかった。両親ともに、子供の好きなようにさせた。「口もカネも出さない」という方針を貫いた。今思うと、それはありがたいことだ。

 さて、話は戻って、もし高校生だったら・・・という空想の話だ。

 これはダメだというのははっきりしている。勤め人がダメだ。公務員であれ、企業人であれ、組織で働くというのが、どうにも性に合っていない。サラリーマンといっても、教師や医師や警官や自衛官もいるから、毎日スーツを着ている者ばかりではないのだが、どうも、組織で仕事をする気になれない。だから、例え、日本一、世界一の部品を作る会社であっても、そこの社員になりたいとは思わないのだ。凡作であっても、自分一人で作って売る方がいい。それが陶磁器であれ、木工製品であれ、金属加工製品であれ、自分ひとりで作った製品を売るほうがいい。

 最近、職人の仕事を取り上げたテレビ番組を見ていると、鍛冶屋というのもいいなと思うようになった。包丁やカマやクワなど、仕事に使う道具を作る。観賞用の美術品ではなく、実用品を作る職人になりたい。丸の内や大手町の高層ビルで仕事をしている自分より、瀬戸内の林の中の小屋で何かを作っている自分の方が、はるかに魅力的に見える。

 とりあえず会社員になるしかないかもしれないが、こういうのもいいなと思ったのが、楽器の修理だ。自分が作るわけではないが、修理もおもしろそうだ。ピアノの調律というのもいいなと思った。もちろん、自分の音楽的才能は考えない。

 翻訳者や通訳を空想しなかったのは、たぶん、目に見えるモノを作りたいという欲望が強いからかもしれない。

 ライターは、高校生の自分はたぶん考えない。どうやったらライターになれるのか、わからないからだ。料理人になるなら、料理学校に行く。芸人になるなら、養成学校に行く。イラストレーターもミュジシャンも学校があるけれど、ライターはどうだ。広告コピーを書くライターや脚本家養成講座があるのは知っている。調べたら、フリーライター養成講座というのもあるようだが、そんなこところに月謝払ってもライターにはなれないことを知っているから、「将来はライター」という空想をしなかったのかもしれない。ライターは、「高卒(あるいは大卒)即戦力」という職業ではない。そこが小説家と違うところだ。いろいろなことをやった結果、その経験を生かしていつかライターになるというのがいい。

 

1416話 それでもなりたい公務員?

 

 この「ご時世」だから、今後確実に変わっていくことがいくつもあると思う。決して大げさではなく、仕事のやり方やマスコミ事業にしても、変わっていくことは百でも二百でもあると思う。すぐにでも思い浮かぶのは、日本はいままでよりもいっそう「抗菌社会」になり、潔癖症優位社会になるだろうということだ。いつもバッグに消毒薬ほか抗菌グッズが入っているのは常識という人が増えるだろう。「清潔で、何がいけないんですか?」と言われそうだが、隔離病棟みたいな社会を日常として暮らしたくない。

 仕事では、公務員志願者が増えるような気がする。公務員を父に持つ大学生は、卒業までカネの心配がないが、自営業の父を持つ大学生は退学を考えなくてはいけないという例などいくらでもあり、「公務員でよかった」と思っている人は多いだろう。となれば、今まで以上に高校生や大学生は、「将来は公務員」となっても不思議ではない。

 ひと昔前、ある公務員と親しくしていたことがある。彼が高校生の時に父が急死し、母や弟の生活を考えて大学進学をあきらめて、堅実な公務員生活に入った。定年直後に会った時、これまでの温厚な会話口調とは打って変わって、「ああ、すっきりした。仕事を辞めて、せいせいしたよ」と言った。小説のありふれた表現を借りれば、「吐き捨てるように言った」という口調だった。

 「公務員てさあ、目立っちゃいけないんだよ。自分の意見なんて決して言わない。『はい、皆さまと同じで・・』と言っていないといけない。毎日頭を低く構え、風が当たらないようにして耐えていないといけない。そういう苦しい生活が、やっと終わったんだよ」

 こういう実例がある。

 だいぶ前のこと、テレビの「情熱大陸」を見ていたら、知り合いが登場したのでびっくりした。詳しく書くとわかってしまうから、ある公務員が組織改革の立役者として番組で取り上げられたとだけ書いておく。

放送から数か月たって、彼に会った。放送直後から大変な目にあったというのだ。職場にテレビ取材クルーが入るのだから、当然、各所の許可を得て、長期取材を行なった。放送は、組織の宣伝になればいいと、上層部は考えたようだ。

 そして、放送。翌日の職場。彼が職場に入ると、同僚が、わざと聞こえるように、いう。

 「もう、えらい先生といっしょに飯なんか食えないなあ。そんな失礼なことはできませんよ、有名な大先生なんですから」

 「我々下々の者とは、直接話もしないんじゃない? 住む世界が違うからねえ」」

 そして、誰も彼と話をしなくなった。それでは仕事にならないので、上司に呼び出された。業務遂行のために、皆に謝れというのだ。大事な仕事があるので、彼は渋々受け入れた。全職員の前に立たされた。

 「目立ったことをして、申し訳ありません。皆さまに謝罪いたします」と言って、頭を下げた。

 「それが、公務員なのさ」と、彼は私に言った。私企業だって同じことがありそうだが、どういうものであれ、組織を知らない私には、それだけで幸せな境遇だと思う。しかし、組織に属さない者は、この「ご時世」のようなことになると弱いのだ。組織から支払われる月給には、慰謝料が含まれているようだ。