1830話 時代の記憶 その5 トイレ

 

 私と同世代の人のほとんどは、物心ついたときの自宅のトイレは、汲み取り式だったと思う。「いや、水洗だったよ」という人は、都内中心部の近代的豪邸で育ったか、銀座のビルが自宅だったというようなごく一部の例外だろう。例え自宅が水洗トイレでも、学校など自宅以外で用を足すときは汲み取り式だったと思われる。

 資料によれば、1963年当時のトイレの水洗普及率は9.2パーセントだった。東京はそれより高いといっても、23区内のことで、しかもその中心部の区だけだった。1965年の資料では、水洗普及率が80パーセントを超えているのは千代田区中央区、港区、文京区などだけで、周辺の区である大田区、世田谷区、練馬区、北区、足立区、葛飾区、江戸川区などは20パーセント未満という普及率だ。つまり、東京とはいえ、そういう地域の区民の家の8割は、汲み取り式だったのだ。

 練馬、板橋、北3区の下水道普及率の資料がある。3区の下水道普及率が30パーセントを超えるのが、1970年代初め、50パーセントを超えるのが75年頃、80パーセントを超えるのが1980年代初めだ。世田谷区や杉並区などもそれほど変わらないようだから、1980年代の東京でも、まだバキュームカーは現役で走っていたということになる。

 全国レベルで言うと、水洗化率が50パーセントを超えるのは、1980年ごろだ。東京都全域の資料が見つからなかったが、大阪府の資料を見つけた。1980年53.1%、1986年60%、1998年頃80%を超え、2004年に90%という数字だ。

 こういう数字を見れば、1950年代生まれはもちろん、1960年代生まれでも、地域によっては1970年代でも、自宅のトイレが汲み取り式だったという記憶があるはずだ。ただし、1950年代後半から、「子供の時から、ウチは水洗だぜ」という人が急激に増えてくる。水洗トイレとは縁のなかった農村に、1950年代以降、各地に日本住宅公団の団地が続々と建設されるようになるからだ。

 鉄筋コンクリート造りの団地では、水洗トイレは当然だが、できるだけスペースを狭くするために、しゃがみ式便器をやめて腰掛式便器を採用した。したがって、団地育ちの子供は、若くして腰掛式水洗便器、ロール式トイレットペーパーが日常のものとなる。団地の学校も当然コンクリート造りだから、トイレも水洗だった。

 さて、私の体験だ。自宅はもちろん汲み取り式で、小学校・中学校ともに木造校舎で、やはり汲み取り式だった。

 中学の修学旅行前に、担任教師は腰掛式便器の使い方の説明をした。「トイレに入ったら、ドアの方を見て座る」といった説明だったと思う。そういうこと私はすでに知っていた。多分、東京のデパートなどのトイレを使ったことがあったからだと想像するのだが、当時はそういうトイレも、水洗であってもしゃがみ式が主流のはずで、私がなぜしゃがみ式を知っていたのか思い出せない。

 高校は鉄筋コンクリート造りだから、水洗だった。卒業した小学校や中学校が鉄筋校舎に建て替わるのは、1970年代のことだ。

 

 

 

1829話 時代の記憶 その4 水道

 

 電気も水道もない場所で過ごしたことは、日本では後で話す1例だけあるが、外国では何度も体験している。

 例えば、1974年のバリ島では、電気があるのは中心地デンパサールとバリビーチホテルのような高級ホテルだけで、クタ地区もウブド地区でも、電気も水道もなかった。ホテルがないのだから当然で、わずかな旅行者は民家に泊めてもらっていた。1985年のフィリピンのボラカイ島には安宿はあったが、電気も水道もなかった。電気はないのに冷蔵庫があるのを不思議に思ってたずねてみたら、ガス冷蔵庫だという。プロパンガスで冷却するらしい。今、調べてみたら、自動車搭載用(キャンプ用でもある)のカセットボンベを使う冷蔵庫があることを知ったのだが、えらく高い。

 今でも、アジアやアフリカなら、山間地や離島や貧しい農村なら、電気も水道もない土地はいくらでもあるはずだ。

 1950年代の奈良の村に水道はなかった。いや、学校には水道があったから、水道設備はあったのかもしれないが、もしかして学校も井戸水をポンプで汲み上げていたのか。

私が知る限り、村の平地に住むどの家も井戸水を利用していたはずだ。山中で暮らしている人たちは、沢の水を引き込んでいたのだろうと思う。

 我が家も、物心がついたときには庭に井戸があり、手押しポンプがついていた。炊事の水は、バケツに汲んで台所に運び、たぶん水がめに入れていたのだと思が、あまり記憶がないのは、野菜を洗ったりするのは井戸端だったからだ。風呂の水は、父がトタン板で作った管を手押しポンプから窓越しに風呂桶に伸ばして水を流し込んでいたのを覚えている。

 買ったばかりの洗濯機で使う水はどうしていたのか、まったく記憶がない。バケツに水を汲み、何度も洗濯機に入れるのは大変だから、もしかすると水道設置が我が家に導入されたのと、洗濯機購入は同じ頃だったのかもしれない。

 1960年代に入り、我が家は奈良県から千葉県に引っ越してきたのだが、そこは電気も水道もなかった。これには事情がある。父は分譲地の一角を買って、奈良の家の材木を運んで、知り合いたちと家を作ることに決めたのだが、土地を売った不動産会社は販売直後に倒産し、まだ造成を終えていない土地がそのままになった。電気も水道もない場所で、父が家を作ったのは北海道の黒板家(「北の国から」)よりも早かった。「子供たちが新学期から新しい学校に転校を」と考えたのだろうが、広大な分譲地にポツンと家が建ち始め、周囲は林を更地にしたから、まるで沙漠のようだった。黒板家とは違って、近くに沢などないから、だいぶ離れた農家に頼んで水をもらい、バケツに汲んで天秤棒で家に運んだ。父が市とかけあって電気はまもなく来た。電気は農家の家までは来ていたので、何本もの電柱を立てて、我が家に電気を運んだのだ。水問題はすぐに解決するめどはつかず、井戸を掘った。井戸掘りは安全上の問題もあるので、業者に任せたような気もするが、もしかすると緊急用に父が自分で掘ったかもしれない。この井戸に手押しポンプをつけて使っていたのだが、しばらくすると隣に家が建つことになり、やはり水道もない土地なので、我が家の井戸を掘り下げ、電動ポンプをつけ、家じゅうに水道管の工事をして、晴れて蛇口から水を得る時代に入った。

 「水道のない分譲地」の対策として、もしかして市の補助があったのかもしれないが、分譲地内に大きな井戸を掘り、住民はその水を使うという組合方式となったが、我が家には自前の井戸があるので、組合には入らなかった。

 私が住む地域に県の水道が伸びてきたのは1980年代のなかばか後半だったか。そのころに、プロパンガスから都市ガスに変わった。我が家のある地域が、「電気水道都市ガス完備」と言えるようになったのは、1980年代なかが以降のことだ。東京からそれほど離れていない千葉県の住宅地の、これが実情である。

 

*横道話・・この「時代の記憶」という連載は今年いっぱい続きそうなので、ここでちょっと寄り道話を。「なんか、おもしろい本はないかなあ」と探している旅行好きにお勧めしたいのが、今読んでいる『空と宇宙の食事の歴史物語』だ。予想を大きく上回るおもしろさだ。機内食の写真に説明がついているような本ではなく、機内の食事の歴史を広く深く書いている。冬に旅客がいないスカンジナビア航空は、アメリカからアフリカに飛ぶ客を獲得するために、超豪華機内食をだして、業界から処分を受けた。パンナムの乗務員は、高級ワインを自宅に持ち帰るのが習慣だったという話は有名だから知っていたが、こういう話が満載されている。もっと知りたくて、旅客機関連本を次々に注文しているので、「積んである本」がなかなか読めない。姉妹本に、船や鉄道の旅と食事の本もあるので、そちらもチェックを。

 

 

 

1828話 時代の記憶 その3 洗濯機

 

 ウチにテレビが来たことを、母が大喜びしたという記憶はないが、洗濯機については何度も「うれしかった」と言っていた。

 「洗濯がつらい」といっても、冬の水が冷たいからだろうという程度にしか考えていなかった。もちろん、それだって大変な苦労なのだが、冷水での洗濯や食器洗いの苦労は、私にはわからなかった。あのころ、多くの日本人は「しもやけ」に苦しめられていた。

 のちに、バンコクで暮らすようになって、母の話がよくわかった。

 バンコクで暮らしていた1990年代、バンコクに住むタイ人の洗濯事情は、手洗いか、使用人に洗わせる、洗濯屋に依頼するかのどれかだったと思う。家庭用洗濯機はあるが、そういう電気製品を買えるだけの高額収入を得ている者は家庭に使用人がいるから、わざわざ洗濯機を買う必要がない。洗濯機を買い始めたのは、洗濯屋のない郊外住宅に住む若夫婦や、ボツボツと建ち始めた高層マンションに住む外国人家庭だったかもしれない。二層式洗濯機を何台か置いたコインランドリーが姿を見せるのは、私の記憶では1990年代末あたりかもしれない。私の生活圏外の事情は、もちろん知らない。すぐ近所に、コインランドリーは見かけなかったという意味だ。

 バンコクで手洗い生活をやるようになってわかったのは、洗うという行為はそれほど大変ではないということだ。毎日、ただ散歩しているだけだから汗は大量に吸っているが、汚れはほとんどない。下着などはモミ洗いでいい。ジーンズはブラシをかければいい。

 やっかいだったのは、すすぎだ。泡だらけの洗濯ものをよく絞り、水洗いする。文字にすればこれだけのことだが、シーツやシーンズは強く絞れない。泡だらけのままだと、何度すすいでも泡が残る。今は知らないが、あのころのタイの洗剤は「泡は多く出る方が、より洗浄力がある」という信仰があったように思う。日本では、川の水質浄化のため、できるだけ泡の出ない洗剤の開発が進められていたのだが、タイはまだ「より多くの泡を」の時代だったから、洗濯物から泡を消すのが苦労だった。すすぎを終えても、強く絞れないから、ポタポタ水滴が落ちるまま、洗濯ロープに吊るすことになる。それでも、乾季のバンコクの気温と湿度なら、あまり絞ってないシーツでも、1時間もかからずに乾いた。

 ひるがえって、母は左手の握力は極端に弱く、洗濯物を絞ることが難しい。洗い、絞り、すすぎ、絞り、水を替えてすすぎ、絞り、干すという行程がつらいうえに、真夏以外の日本の気候では、水滴が落ちるような衣類は戸外に干してもなかなか乾かない。

 そういう日々を過ごしていたから、のちに「洗濯機がありがたかったのよ」と話していたことがよくわかる。洗濯機を回している間にほかの仕事ができる。洗いが終われば、ローラー式の絞り機で絞る。不自由な左手は添えるだけで、右手だけで絞れる。両手が自由に使える者でもこれほど強くは絞れないというくらいに、この絞り機が役に立った。

 ちなみに、ウチでは今も二層式洗濯機を使っている。数年前に洗濯機が壊れたときも、「次はいよいよ全自動を」とはまったく考えなかった。ウチにはシルクもウールもないが、色落ちするものを洗うときは、別洗いが簡単にできるから、全自動を選ばなかった。自動車でいえば、マニュアル車を選んだようなものか。

 男女共同参画局の資料では、「電気洗濯機は,昭和32年には都市部でさえ20.2%の普及率であったものが,約10年後の45年には農村部まで含め91.4%の普及率となった」とある。1950年代末に洗濯機を使っていた母は、世間的には少数者だったことになる。おそらく、母が強くねだったのだろうが、それにこたえた父の愛情だったのだろうか。

 

 

 

1827話 時代の記憶 その2 電気 下

 

 電球に次いで、我が家の電気製品となったのは、多分、父親の手製のラジオだったかもしれない。父は電気や機械の専門家で、それは仕事であると同時に趣味でもあり、材料を寄せ集めてラジオを組み立てたのだと思う。私はその世界に疎いのだが、当時はラジオの組み立てはよくある趣味で、小中学生でもやる者がいて、そういう少年はのちに無線(ハム)青年やオーディオ・マニアへと進化していった。

 ラジオの後にウチに来た家電は、テレビだったか洗濯機だったか順序は覚えていない。時代は、1950年代末のことだ。1958年のテレビ受信契約者は100万台だったが、翌1959年の皇太子結婚をテレビで見たいという欲望が日本国中に広がり、結婚式直前の契約者は200万台を超えた。父もその波に乗ろうと、無理をしてテレビを買ったようだ。

 何度も書いているように家庭環境によって違いはあるが、1950年代前半までに生まれた者は、自宅にテレビがなかった時代の記憶があり、ラジオを聞いていた思い出がある。私はテレビに関心がなかったとは思えないが、我が家の大事件であるはずの「テレビが来た日」の記憶はない。その理由は、ラジオ少年だったからかもしれない。アメリカのポップスや日本人が歌うその翻訳版を聞いていた。「とんち教室」(1949~1968)をたまに聞いていた。まだ戦争は終わっていないと感じたのは、「尋ね人」の放送はよく覚えているからだ。戦前から戦後までに連絡が取れなくなった人に呼びかける番組だった。アジアの地名がよく出てきたので、印象に残ったようだ。

 1960年以降の生まれだと、「物心がついたときにはすでに、ウチにテレビがあった」となることが多いようだ。のちに外国を旅するようになると、電気が来ていない村で、人々が集まってテレビを見ている光景に驚いたことがある。電気は車のバッテリーだ。ビデオデッキでVHSテープを再生していたのだ。日本では、村に電気が来て、白黒の小さなテレビが家庭に入り、カラーテレビに変わり、ビデオデッキを買い・・・という順序なのだが、この村のように、初めて見るテレビがビデオのカラー映像だった例は珍しくないようだ。

 母が語ったテレビの話。

 「テレビジョンという映像が映る箱があることは、世田谷の兄さんから聞いて知っていたの。兄さんが学んでいた浜松高等工業学校(のちの静岡大学)がテレビの研究をしていたから、日本人のほとんどがまだテレビを知らない時代から、テレビのことは知っていた」

 「ウチにテレビが来た」というエッセイや時代解説は数多いが、幼い3人の子供がいて、毎日忙しく働いている母は、噂に聞いたテレビが自宅にあっても、テレビを見るような時間はほとんどなかったのだと気がついたのは、ずっと後になってからだ。

 

 

1826話 時代の記憶 その1 電気 上

 

 1952年生まれの私が見たこと知ったことのいくつかを書いてみたい。「あれは、懐かしいよなあ」といった思い出話をしたいのではない。「過去のある時代の記憶と記録」を書いておきたいと思う。私が子供だった頃、大人たちがしゃべったり書いたりしていたおかげで、「学童・縁故疎開」、「軍需工場」、「配給」、「学徒動員」、「灯火管制」、「配給」、「外食券」など、私が生まれる前の事柄でも、少しは知っている。

 1952年は、戦争が終わってからわずか7年後だ。空襲を受けた都市では復興が進んではいたが、まだがれきが残っている場所もあっただろう。幸いにも空襲にあわなかった農山村の生活は、戦前どおりのまま続いていて、それは明治時代と変わらず、部分的には江戸時代とあまり変わらない生活だったと思う。私と同時代に生まれ育った者でも、地域や家庭の環境によって見てきた世界はかなり違う。私の個人的な体験に加えて、資料によって他の地域の同時代体験も書いていきたい。

 まずは、電気の話から始めたい。

 1950年代の私の記憶では、電気のない生活の体験はない。10歳までを奈良県の村で育ったが、自宅前は郵便局で、村立小学校と中学校に徒歩5分という村の中心地に住んでいたから、物心ついたときからウチに電気が来ていたが、林業や炭焼きなどを生業として山の中で暮らしていた家庭にはまだ電気は来ていなかっただろう。だから、小学校の同級生の家庭では、電気のない生活をしていたかもしれないが、山に住む友人はいなかったので、その当時の山の電気事情をまったく知らない。

 1959年の山村にテレビが来たというドキュメントをNHKが放送した。山の分校の記録を見ると、当時の生活風景がよくわかる。都会で育った人には「じいちゃんの時代か」と思うかもしれないが、農村で育った者には「懐かしいあの頃」の風景だと思うだろう。

 今回探せなかった番組たが、同じように村の小学校にテレビが設置されたというのがあった。その村にもそもそも電気が来ていなかったから、簡易水力発電機を取り付けたという番組だったと記憶している。「ポツンと一軒家」(朝日放送)を見ていても、私とあまり変わらない年齢の人が、「子供の頃、ここにはまだ電気がなくて・・・」と話しているのを何度か聞いている。1950年代どころか1960年代に入っても、農山村離島ではまだ電気を知らない生活をしていた人がいた。

 岩手県の電化率の資料がある。これによれば、1950年代では県内の未点灯率地域は山村などで多かったが、その後電化事業を進めた結果、1965年の未点灯率は0.2パーセントにまで減っているという。ちなみに、北海道では、西部の天売島と焼尻島に電気が通じたのは1970年だった。

 私と同世代でも、コメの飯が「いつもの飯」ではなく、イモや雑穀を食べていた時代を経験している人がいる。銀幕世界では、石原裕次郎が銀座で遊び、スポーツカーを乗り回していた1950年代、農山村離島ではランプの生活をしている人もいた。

 私が暮らした奈良の村の家の「電化」とは、「電球のある暮らし」だった。居間にも台所にもトイレにも電球があり、明るかったのだが、もしかすると、それは「ちょっと前から」かもしれない。そもそも我が家が東京から奈良の山奥に引っ越してきたのは、電源開発の仕事で川にダムを建設する技術者として父が赴任したのだ。東京から村に来たのは1歳の時だから、そのときは電力設備が完成していなくて、村にまだ電気が通っていなかったかもしれないが、当然、私の記憶にはない。その時代をよく知っている両親は、もうこの世にいない。聞いておくべき話は、山ほど残っている。

 

 

 

1825話 校正畏るべし その4

 

 注文していた『おいしさを伝えるレシピの書き方Handbook』(レシピ校閲者の会、辰巳出版、2017)が届いた。レシピの書き方を学びたい読者はどれだけいるのか。主に女性雑誌の編集者やライターか、お料理の先生の助手がこの本の読者だとすると、マーケットがあまりに小さい・・・と思いながらこの本を読むと、想定している読者がわかった。「月間利用者数約6000万人」という「クックパッド」などに投稿しようとしているアマチュアが、この本を買うだろうと想定したようだ。なるほど。

 まずは、レシピの誤字の例に「じゃがいもは荷崩れに注意」を、「煮崩れ」と訂正するような例を挙げている。自動変換が危ないのは、レシピに限ったことではない。

 間違いやすい言葉の例があげてある。

 アボガドアボカド

 スナックえんどうスナップえんどう

 バケットバゲット

 カッペリーニカペッリーニ

 ケッパーケーパー

 望ましい表記として、こういう例をあげている。

 シーチキン(商品名)→ツナ

 万能ねぎ(商品名)→小ねぎ、細ねぎ

 プチトマト(市場名)→ミニトマト

 テフロン(商品名)→フッ素樹脂加工

 キッチンタオル、キッチンペーパー(どちらも商品名)→ペーパータオル。この前のNHKの料理番組で「キッチンタオル」を使っていたなと思い調べると、大王製紙ほか、ネピアも100円ショップのダイソーも「キッチンタオル」としている。校正を扱う本の校正は、より慎重になるはずだが。

 レシピを書かない私の場合、普通の文章のなかで、「白菜」、「はくさい」、「ハクサイ」というふうに表記に困ることがある。「白菜」や「大根」は漢字でいいが、「葱」や「蕪」や「牛蒡」では読めない人がいるだろうから、漢字にカタカナとひらがなを混ぜて使うか。植物学の本のように、すべてをカタカナ表記にするのもなんだなあ・・などと思う。この本でも、表記は統一しないという方針らしい。

 

 話は変わる。『文にあたる』の著者も含めて、校正者たちの座談会がネットで公開されている(「校正・校閲というお仕事」)。校正者が主人公というテレビドラマ「地味にスゴイ! 校閲ガール 河野悦子」は、出版界の日陰者である校正者にとって青天の霹靂的出来事だから、悪くは言いたくないが、「あんなのウソだよね」という本音が見えている。新入社員がいきなり校正ができるわけはなく、どこに間違いがあるのかもわからないのだから直しようがないのだ。このドラマについては、アジア雑語林1440話(2020-07-07)でコメントを書いている。

 テレビの世界にも校正はあるのか。多分、専門の校正者はいないと思う。校閲があるかどうか知らない。

 テレビ番組のテロップや報道番組の説明板などに誤字があるのはいつものこと、「絶対」と「絶体」といった間違いから、人名地名などの誤記は数知れず。どうしてこうなるかといえば、準備時間がなくあわただしいというのが第1の理由。第2の理由は、「送りっ放し」ですぐ消える放送だから「いーかげんに」やっているからだ。

 テレビドラマの世界には、校閲はないと思う。「こういう展開では、つじつまが合わない」などと言い出したら、成立しないドラマがいくらでも出てくる。これは多分、活字世界でもいわゆる「ノベルス」も同じだろう。

 校閲の訓練ができている者がテレビドラマを見ると、「1995年には、まだプリウスは発売されていない」とか「1990年代のオフィスのパソコンが液晶モニターということはない」といった指摘をしたくなるだろうなと思う。2021年のNHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」では、1980年代の京都市電の窓から見える風景に、現代の自動車が走っていると、自動車マニアが指摘したというネット情報があった。自動車や鉄道など、マニアが多いから、時代考証に苦労することだろう。

 今、ドラマで時代感を出すのは、登場人物が公衆電話や、「二つ折りケータイ」で話を始めるシーンだろうか。それでも、「その機種は、当時はまだ発売していないはず」などという指摘もあるだろう。「『5年前』だというのに、駅舎が現在のもの」とか、「2010年なら、そこにはまだヤマダ電機はない」とか、それなりに「間違い探し」は楽しいのだろう。いっそのこと、毎回のドラマで、「間違い探し」のクイズを出したら盛り上がると思うのだが・・・。

 

 校正・校閲の話は、今回で終わる。

 

 

 

1824話 校正畏るべし その3

 

 『文にあたる』に、「敷居が高い」という言い方に関して、こうある。

 「敷居が高い」は本来、「不義理をしていて、その人の家には行きにくい」の意味だが。「高級さ・上品さにひるんで行きにくい」の意味で使う人がいる。そういう使い方をしている文章があると、「『本来』の意味を提示して『ハードルが高い』などの言い換えを提案しています」と著者は書いているが、「ハードルが高い」で、いいのかという話をしたい。この言い方は、つい先日の朝日新聞の記事でも使っていて、すでに「公認」の判が押されているようなのだが、私はいつまでもなじめない。ハードルは高くしたり低くなったりはしないのだ。上げることができるのは、高跳びのバーだ。

 ハードル競技の場合、男女別と走る距離によってハードルの高さは異なる。110m競技なら男子は1.067m、女子は0.840m。400m競技なら男子0.914m、女子は0.762mと決まっている。だから「準決勝や決勝になるとそれぞれ5cm高くなる」などということはない。「状況によってハードルが高くなる」ことはないのに、なぜこういう誤った表現が広まったのか。私の想像を書いてみる。

 Hurdleという英語のもともとの意味は塀や柵で、「障害物」の意味で使われるようになり、陸上競技の障害物の「ハードル」としても使われるようになる。ハードルが障害を意味する例文は、例えばLONGMANのこのページにいくらでも出てくる。

 Hurdleが出てくるそういう文章を読んだ日本人が、「障害」と訳さなければいけないのに、「ハードル」とカタカナ表記したために、こういう誤記が生まれたのだろう。日本語の文章では「ハードル」とは陸上競技の種目とその障害物のことだ。それをそのままカタカナ表記して、「高いハードル」と言っていたのが、芸人たちが「ハードルを上げる」などと言い始めて広まった・・・と、私は想像している。

 ずっと前から気になっていて、このアジア雑語林でも書いたことがある表現は、「瞳を閉じて」だ。瞳は閉じたり開いたり自由にできないのに、「瞳をとじて」という歌詞はおかしいという意見はネット上に多く、それに対して文法用語を使ってもっともらしい説明をしている匿名氏がいるが、説得力はない。

 瞳=目だという比喩なのだというが、「そうかねえ?」。瞳にはもともと目の意味はなく、「瞳が合う」とか「瞳が悪くなった」などとは言わない。だから、「目を閉じて」とするよりも、「瞳を閉じて」という方が、なんだかかっこいいよな、詩的だし・・・ということではないか。何も考えずに、「ただの気分で」、そういう歌詞を書いた人のだろう。

 さあ、ここで校正・校閲の問題だ。論理的に不自然だからと言って、「そういう表現はけしからん」とは言えないのが校正だ。一応は誤りを指摘するが、最終的には表現者の意思を尊重してそのままの表現にするかどうかは、表現者と編集者との話し合いで決まることで、校正者は関与しない。私は「瞳を閉じて」といった言い方は好きではないが、校正者ではないから、「今や手垢がついた歌詞だから、うんざりだよ」とだけ言っておこう。

 今思い出したことを、最期に書いておこう。

 新聞記事に、「カナダ人の〇〇が・・・」という表記と、「カナダ国籍の〇〇が・・」という両方の表記があり、どう違うかわからない。現役とOBの新聞記者たち(ひとりは校閲担当)に聞いてみたのだが、皆さん「そんな違いがありましたかねえ?」という反応だった。ひとりが、「これは、推測ですが」と前置きして、「『カナダ国籍の・・』という場合は、偽造パスポートを持っているとか、国籍取得に犯罪の匂いがするといったニュアンスが込められているかもしれないと、思うのですが・・・」というが、確証ではない。朝日新聞校閲にメールで問い合わせたこともあるが、納得できる回答はなかった。