1536話 本の話 第20回

 

 『おにぎりの文化史』(横浜市歴史博物館) その2

 

 インディカ米はパサパサパラパラだから、握れないという解説は間違いだ。インディカ米にもウルチとモチがあり、インディカでもモチ種を使えば、おにぎりができる。タイ東北部にカーオ・チーという焼きおにぎりがある。文字通り訳すと「飯・焼く」だから、日本の「焼き飯」よりも正しい表現だ。もち米の飯を円盤状にして、網で焼く。あるいは、丸くしたり、五平餅風に小判状もある。炭火で焼きながら、ときどきカピ(小エビの発酵ペースト)を混ぜた溶きタマゴを表面に塗りながら、焼いていく。香ばしく、うまい。もしかすると、この食べ物を日本で最初に紹介したのは私かもしれないが、どの本に書いたのか思いだせない。路上で見かけた料理だから、特別珍しいわけではない。このサイトでは、「カオジー」として紹介されている。ほかにも、ネット上にいくらでも画像がある。

 「インディカ米はサパサパラパラ」と言われ続けているが、「ウルチ米が」と限定しても、それもちょっと違う。日本人が好きなもっちりしたコメと比べればたしかにパラパラなのだが、タイを例にすれば、タイ人に人気のカーオ・ホン・マリ(ジャスミン米)という高級品種のコメを炊飯器で炊くと、ふっくらしていて、パラパラではない。「タイ米はまずい」という悪評が立ったのが1993年の米騒動だったが、あのころとはコメの品質もかわり、炊飯器で炊いた飯が主流になり、タイで炊きたてのタイ米を食べれば、タイ米に対する感想もだいぶ変わると思う。

 いままで、このアジア雑語林では、外国の握り飯についてしばしばコラムを書いてきた。

 中国や朝鮮のおにぎりに関しては、621話(2014-08-21)で書いている。中国人が書いたエッセイも紹介しているから、もし「中国人はおにぎりを食べるのか?」という疑問を持って調べれば、横浜市歴史博物館のスタッフもわかったはずなのに。台湾のおにぎりの話は、しばらくあとで触れる。

 イタリアはシチリアのおにぎりについては、写真入りで1109話(2018-02-26)で紹介している。そして最近のことだが、インドとマレーシアのおにぎりの話は、1470話(2020-09-10)で書いた。わざわざ書くこともないと思って触れなかったが、東アジアや東南アジアのコンビニにはおにぎりがある。「パラパラの米だから、おにぎりはできない」という地域のコンビニのおにぎりは、日本から輸入したコメを使っているというのだろうか。今は「現地産こしひかり」というのもあるのだ。コンビニのおにぎりの歴史は浅いが、それよりもずっと古いものもある。この本の著者たちが「おにぎり」と認めるかどうかわからないが、コメをバナナの葉で包んで茹でたナシ・ロントンというものがインドネシアにある。台湾などのちまきも、竹の皮で包んだコメを蒸したり茹でたりしたものだ。

 インディカ種のウルチ米を湯取り法(ゆでて、蒸し焼きにする)で炊くと、パラパラになる。「だから、おにぎりにできない」と考えがちだが、実は、そういうコメを食べている人は、毎食飯を握っているのだ。コメを手食する人たちの食べ方をじっくり観察していれば、私の言うことがよくわかるはずだ。パラパラの飯を手で食べるにはどうするか。手食経験のない人は、飯を手ですくい、その手を口元に持っていって犬のように食べようとしがちだが、そんな食べ方をすればその辺に米粒が散らばる。うまくたべるには、飯に汁などで湿り気を与えてこねて、小さめのすし1個分くらいに握り、そのかたまりを右手親指ではじくようにして口に放り込む。こうすれば、うまく口に入る。つまり、ひと口ごとに、おにぎりを作っているのだ。

 パラパラの飯を食べている人たちは、カレーのように汁をかけて食べる。汁がない場合は、水を振りかけることもある。モチ米を主食にしているタイ北部・東北部やラオスの人たちは、汁かけ飯にはしないが、ひと口大に握った飯に煮汁や炒め物などの汁をつけて口に運ぶことがある。ここでも、ひと口ごとに、飯を握っているのである。

 ということは、手で米の飯を食べている人たちは、いつも飯を握っているということになる。南・東南アジアの食文化を少しでも知っていれば、飯を握るのは日本人だけという本は書かなかったはずだ。握り飯の種類に関しても、食べられている量に関しても、日本は抜きんでているのだが、だからと言って、日本の事情だけを調べていればいいというわけではない。世界的な視野がないというあたりが、日本史や民俗学研究者の弱いところだ。もちろん、広い視野を持った学者も少なからずいるから、『食の考古学』(佐原真、東京大学出版会、1996)を注文した。

 

1535話 本の話 第19回

 

 『おにぎりの文化史』(横浜市歴史博物館) その1

 

 インターネットで『おにぎりの文化史』横浜市歴史博物館河出書房新社、2019)を見つけたのだが、詳しい内容がわからない。アマゾンでも「目次」が載っていない。大型書店で調べに行くというご時世ではないので、「そのうち、書評などで詳しい内容がわかるだろう」と時間稼ぎをしていたのだが、待ちきれなくてネット書店で買ってしまった。ちょっと魅力的なブックデザインだということも、購入の推進力になった。この本は、2014年秋に横浜歴史博物館で開催された「大おにぎり展」の展示図録を再構成したものだとわかった。

 本を手に入れてわかったのは、この本は日本人のコメの料理史に「おにぎり」をおまけに付け足したというものだとわかった。つまり、「おにぎり大全」ではないのだ。

 私が知りたかったのは、「おにぎりの世界と世界のおにぎり」なのだ。日本の「おにぎりの世界」は類書があるし、ある程度はすでに知っているのだが、さて、「外国では?」となると、どうなのかという興味でこの本を読むと、「なんだよ!」となった。「大おにぎり展」の企画段階で、外国のおにぎりは視野に入っていなかったらしい。書き手が、コメそのものとアジアのコメ食事情についてほとんど知らないらしいとわかった。ある物事に対して、「これぞ、日本独自の文化」だの「ニッポンの特有の文化万歳!」といった昨今のテレビ番組のテーマのような企画にむなしいものを感じているので、この本を批判的に読むようになってしまった。

 このアジア雑語林では珍しいことではないが、ああ、またしても、博士たちが書いた本を,一介のライターが批判するコラムになりそうだ。

 アジアのおにぎりに関して、小林正史(北陸大学)氏の論文を参考にして、「おにぎりを食べる伝統があるのは、もち米文化圏である東北タイ・北タイ・ラオス雲南地域だけだという」と報告を紹介している。小林氏の研究はおもしろそうで、ネットで読める論文には目を通した。

 上記地域以外にはおにぎりがない理由を、小林氏は2点あげているそうだ。「南アジアや東南アジアの大部分で食べられている粘り気が弱いコメ(インディカや熱帯ジャポニカのウルチ米)は、パサパサした炊き上がりで、おにぎりにまとめることができない。中国や朝鮮半島、東南アジアの一部では粘り気が比較的強いコメを食べているが、冷えた米飯を食べる習慣がない」からだとしている。

 そういう記述はあるものの、この本を読んでいると、書き手はコメの基礎とその料理法の広がりに、知識も興味もないようなのだ。このコラムで何度も書いているが、コメは大きく分けてインディカとジャポニカに大別できて、それぞれにウルチ種とモチ種がある。かつて「ジャバニカ(Javanica)」と呼んでいたコメは、今は「熱帯ジャポニカ」としている。したがって、「インディカだから、パサパサ」という説明はモチ種もあるから正確ではない。

 86~87ページに、「いろいろな炊飯の方法」を紹介している。「湯取り法(焚き上げる)」にこういう解説がついている。

 「コメをゆでる方法である。ゆで汁を捨ててから、さらに熱を加えて炊き上げる。現在の東南アジアでは、おたまですくって湯を捨てる湯取り法が行われている」

 おたまを使う炊き方を、私は知らない。家庭ではそんなチマチマした方法で湯を捨てるのだろうか。そんな方法では時間がかかるし、水分が残りすぎる。「現在の東南アジアでは、炊飯器を使うことが多いから、日本と同じように湯を捨てない炊き干し法が普通になっている」なら,正解なのに。89~90ページの解説は意味不明なので、引用しない。

 冷えた米飯を食べる習慣がないという説明は正しいようでいて、歴史的に見て、正しくない。保温機能付き炊飯器やガス調理器がある時代で、食事はいつも自宅で食べるということになっていれば、いつも暖かい飯を食べることはできる。毎食ごとに炊飯するなら、いつもあたたかい飯にありつけるが、そんな面倒なことを人々はいつもしていたのか? しかも、野良仕事も山仕事もある。火がいつもすぐに使えるわけではない。「冷や飯は嫌だ」といえば、すぐに暖かい飯にありつけた人は、そう多くないと私は思っている。

 長くなりそうなので、外国のおにぎりの話は次回に。

 

1534話 本の話 第18回

 

 韓国の本 その4

 

 『実物大の朝鮮・韓国報道50年』の前半は、1960年代に韓国を支えたが、表立って語られることのない人たちの話だ。

 1969年当時、韓国に駐屯する米兵は6万5000人ほどいた。その相手をする米兵専用売春婦、俗に「洋公主」(西洋人を相手にする姫)と呼ばれる女性が3万人ほどいたらしい。彼女らは、政府からの営業許可証を取得して仕事をしていた。基地周辺で営業する「公認国連軍クラブ」は、政府に毎月500ドルを上納することになっていた。1969年の京郷新聞によれば、政府の許可証を持っている洋公主は1万3000人いて(ということは、モグリが1万7000人ほどいたことになる)、月に60~70ドル稼いでいたという。米兵との間に生まれた子供は、韓国語で「アイノコ」と呼ばれた。血統を重んじる韓国社会では、そういう異分子は不要だから、「養子」という形で順次国外に輸出された。そこでまたドルを稼いだ。

 男はベトナムに行き、ベトナム人を殺すことで外貨を得た。表向きは、朝鮮戦争で韓国を守ってくれた米軍に対する礼として、ベトナム戦争に参戦するとしているが、実際に、戦争でカネを稼ごうとしたのだ。男や女が稼いだ外貨は、政治家や役人に吸い取られ、あるいは財閥に流れた。

 ベトナム戦争が終わると、韓国から米兵の多くが去った。カネづるを失った洋公主たちが見つけた新たなカモが、妓生パーティーにウツツを抜かす日本人である。米兵相手にはひと晩10ドルだったが、日本人相手だと83ドルだったという。1ドルが300円の時代だから、83ドルは2万5000円である。この構造は、タイでも同じだった。

 『変わらないから面白い日韓の常識』(前川惠司、祥伝社新書、2013)には、1963年から77年まで、西ドイツに鉱夫として渡った若者は6000人、看護婦は1万人送られたという話が紹介されている。この話は、以前に韓国のテレビを見て知っていたのだが、次の事実は知らなかった。西ドイツに韓国人労働者が来る前、1958年から日本人が「技術を学ぶ研修生」という名目で鉱夫をしていた。日本で働く倍の収入だったが、実際は過酷な単純労働だったので、日本からの派遣は436人で停止した。それが1963年で、日本人に代って韓国人労働者が「輸入された」というわけだ。

 『実物大の朝鮮・韓国報道50年』の前半は、このようにあまり語られなかった話、韓国人が語りたくなかった歴史の話が続く。後半は政局裏話のようなもので、あまり面白くなかった。

 生活に密着した話では、ソウルの銭湯の浴槽が、大阪と同じよういに、壁から半島型につき出していると指摘に驚いた。日本の銭湯は入口奥の壁際に設置された東京型浴槽と、壁から離れた島型の大阪型があることは、『くらべる東西』で知っていたが、大阪型がソウル型と同じであるという指摘は興味深い。やはり、大阪は韓国と深く結びついているのだ。『くらべる東西』は表紙がその浴槽比較の写真だ。内容は実に愉快で、古書は安いので、買うといい。

 

またしても、訃報だ。東北大学の山田仁史さんが亡くなった。若き天才と呼びたくなる俊英であると同時に、おだやかな人柄でまわりの人を包み込んだ。まだ、49歳の生涯。十数年前からいろいろ教えていただいていた。山田さんに紹介していただいた『黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本』は、このアジア雑語林でもたびたび取り上げている。シーボルトはオランダ人を偽装してまで、なぜ日本に来たのか。そして、彼の子供たちはどう生きたのかという話だ。昨年3月に会ったのが最後で、そのときも「おもしろいですよ、傑作です」と本を紹介してくれたのだが、大部の学術書なので、まだ手を付けていなかった。

 

1533話 本の話 第17回

 

 韓国の本 その3

 

 『実物大の朝鮮・韓国報道50年』(前川惠司)に、わずか14ページ分だが、「韓国実像―1969年春から71年春にかけて」と題した写真ページがある。最初の写真は、やはりチョンゲチョン(清渓川)だ。「やはり」というのは訳がある。今のチョンゲチョンは川沿いの美しい公園として知られていて、環境美化の美談が語られることが多いのだが、これもおかしな話なのだ。

 チョンゲチョン沿いは、日本時代からスラムが立ち並ぶ地域だった。韓国独立後は朝鮮戦争も混乱もあり、難民が住み着くことでさらにスラムが拡大していった。私が「やはり」と書いたのは上で紹介したJTBの大型本でも、そのスラム写真がカラーで撮影されている。『実物大の朝鮮・韓国報道50年』でも、チョンゲチョンの写真を最初に持ってきているので、「やはり」と思ったのだ。この本には書いてないが、次の話はここで書いておきたくなった

 ドブ川に蓋をする工事は1958年から67年までかけて完了した。そのあと67年から川沿いで高速道路の工事が始まり、76年に完了したものの、不具合が見つかった。完成から15年後の1991年からの調査で、この高速道路がすでに「老朽化」していることがわかり、度々補修工事が行われてきた。補修工事を繰り返しても、安全が保障できないという理由で、2003年からソウル市はついに本格的な河川改修工事をすることになった。川の蓋と高速道路を取り除いて、川を復元する工事だ。

 調べてみると、あまり表向きには語られない事実がわかってきた。工事が完了してそれほどの年月が経っていないのに、すぐに補修工事をしなければいけないような高速道路の建設をしたのは、現代建設である。1965年に現代建設に入社したその男は、なんと1970年には取締役になり、高速道路が完成した直後の77年には社長になり、88年には会長になっている。

 その男、李明博は、1992年に国会議員になり、2002年にソウル市長になった。そして、市長が主導してチョンゲチョン改修工事に着手することとなった。高速道路完成後15年にして、「老朽化が激しく、安全が保障できない」と宣告された高速道路を建設した会社の元社長にして元会長が、ソウル市長になって河川復元工事を行なう。工事にあたるのは、もちろん現代建設だ。

 ネットで調べると、韓国のマスコミは「名市長」と彼を讃え、大統領への道を開いた。しかし、土木建設工事の過去には言及していない。

 これを日本では、「マッチ・ポンプ」という。

 

  

1532話 本の話 第16回

 

 韓国の本 その2

 

 『韓くに紀行』に、1971年取材時のソウルの写真が載っている。ソウルの1970年代も80年代も私は実際に見ているのだが、写真は一切撮らず、記憶も断片的だから、当時の風景写真を見たくなった。

 1950~60年代のソウルをカラー写真で見ることができる本は、このコラムでもたびたび紹介してきた『発掘 カラー写真 1950・1960年代鉄道原風景 海外編 』(ジェイ・ウォーリー・ヒオギンズ、JTB、2006)だ。アマゾンで定価よりもだいぶ安く買えるので、鉄道ファンだけでなくアジア現代史に興味がある人にもおすすめしたい。

 戦後50年ほどの韓国の姿を知りたくなった。その風景を見たくなった。1970年代に入ってからだが、韓国にちょっと興味を持ち神保町で資料探しをしたのだが、そのほとんどは政治向きの内容で、おもしろくなかった。

 そうだった。あの時代は、「韓国」という語の印象は、左翼・進歩派からは、アメリカ帝国主義をバックにする反共の国と思われていた。日本の右翼や自民党やヤクザと韓国政府との深い関係、金大中事件コリアゲート事件、そしてキム・ヒョンウク失踪事件などの暗黒事件などを知ると、韓国関係で利益を得ているもの以外、支持を表明する気にはなれない国だった。一方、朝鮮民主主義人民共和国に関しては、その名称とは裏腹に「民主主義国」ではないことは中学生の私でもわかっていたが、その詳細は日本には伝わらなかった。だから、「朝鮮」という語は差別語であると同時に、反米反帝国主義を唱える左翼からは支持されていた国と思われていた。したがって、当時の韓国関連本は、民主主義を弾圧する独裁国家韓国に関する本がほとんどだった。

 言語と政治という話になると、「赤旗」のピョンヤン特派員だった萩原遼(1937~2017)の若き日のことを思いだす。高校生時代から朝鮮半島事情に興味を持っていた彼は、その当時、日本で唯一朝鮮語を学べる大学だった天理大学を受験したが、不合格になった。成績優秀な高校生が試験に落ちるわけはないと調べてみると、当時の天理大学朝鮮語科は、韓国・朝鮮人を取り締まる警察関係者の教育機関だとわかった。だから、高校生時代にすでに共産党員になっていた萩原は、入学不可となったのである。大学で朝鮮語を学ぶことをあきらめて、どこかほかに学習機関はないかと調べたら私塾のようなものがあることを知った。早速行ってみると、そこは朝鮮総連教育機関だった。北朝鮮に帰国する朝鮮人の夫と同行する日本人妻の朝鮮語教室だった。日本人の萩原は、今度は官憲のスパイを疑われて入学を拒否された。大阪外国語大学朝鮮語科が開設された1963年、萩原は第1期生として入学した。萩原はもう26歳になっていた。韓国・朝鮮語ラジオ講座テレビ講座もなく街に教室もなかったという時代だ。

 朝鮮半島の南は、腐敗した政治の国、北は地上の楽園と信じる日本人がある程度いた時代だ。韓国も南ベトナムも(そしてタイ)など腐敗した反共親米国に対する批判は正しいが、北朝鮮には甘すぎた。

 世間の目は、1988年のソウル・オリンピックの時代になるまで、朝鮮半島の言語を学ぶものは、「北」か「南」かの政治姿勢を明確にするよう求められた。私は、1970年代にハングルをちょっと学んだことがあり、料理の名前ならある程度は読めるようになったのだが、それゆえに外国の韓国料理店では、メニューが読める私は在日韓国人だと思われていた。日本人がハングルを学ぶわけはないと思われたようだ。中国語はいまでも政治的な言語で、用いる文字によって中国派か台湾-香港派かがわかる。私が中国語の教科書を初めて買ったときは、まだ「同志」という呼びかけの語が生きていた。それが嫌で、私は台湾人に教師をお願いした。

 1988年のソウル・オリンピック便乗本が多く出て、政治問題以外をテーマとする韓国本も出るようになったが、それ以前の韓国生活や都市や農村の風景がよくわかる本の記憶がない。だから、ウチの書棚にも写真が多い本はない。そこでネット書店で探し出したのが、『実物大の朝鮮・韓国報道50年』(前川惠司、公益財団法人新聞通信調査会、2020)だ。著者は1946年生まれ。フリーカメラマンから朝日新聞社に入り、ソウル特派員などを経て2006年退職した。元朝日の記者が書いた韓国本だからといって、ネトウヨが大喜びしそうな内容の本ではない。「言うべきことは、ちゃんと言うぞ」という本だ。

 

1531話 本の話 第15回

 

 韓国の本 その1

 

 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの2冊、『韓くに紀行』と『耽羅紀行』(たんらきこう)を読んだ。いままで、この「街道をゆく」シリーズの何冊かを手にしたものの、最後まで読んだのは「台湾」編と「南蛮」編だけだから、韓国を旅した2冊とも最後まで読んだのだのは、私としては上出来なのだが、期待していたほどのおもしろさはなかった。それなのに、いずれこのシリーズの「ニューヨーク」や「モンゴル」も読んでみたいと思っている。たぶん、読みでがある旅行記を求めているのだろう。

 2冊を読んで、付箋を付けたのは、それぞれ1か所だけだった。本筋とはまったく関係のない枝葉末節だ。『韓くに紀行』は1971年の旅を書いている。その当時は、農村に行けば草ぶき屋根の家がいくらでもあった時代だ。私が付箋を張り付けたのは、扶余の宿の朝飯のくだりだ。

 「汁も菜も強烈に甘」かった。同行の韓国人案内人によれば、「歓待のしるしなのです」。砂糖が貴重品だった時代の風習で、とびきりのもてなしなのだが、ソウルや釜山にはむろんとっくの昔になくなっているのに、ここ扶余は田舎だから歓迎のための甘い料理が残っていると説明された。僭越ながら、日本人の私が異論をはさみたくなった。1971年当時なら、農村部ではまだ砂糖は貴重品という意識が強かった。ソウルなど都市部では、砂糖を入れた料理がしだいに普通になり、甘くなったというのが事実のような気がする。つまり、都会では甘い料理がすでに定着したのだ。現在でも、韓国の家庭料理の動画を見ていると、砂糖、オリゴ糖、水あめ、ハチミツを入れた料理はいくらでもある。ここ数十年に登場した赤い料理には、トウガラシとニンニクと砂糖がたっぷりと入っていることが多く、コチュジャンそのものがかなり甘いのだ。韓国の田舎では料理を甘くし、都市では「もう甘くしていない」というのは間違いだと思う。都市部では、特別の機会でなくても料理を甘くできるほどにはぜいたくになってきたということだろうと想像している。

 日本人も同じような歴史をたどった。砂糖を多く入れた料理が「ごちそう」という考えだ。日本では、ここ数十年の間に、西洋料理や中国料理がよく食べられるようになり、砂糖を大量に使う日本料理を口にすることが少なくなったせいで、日本では甘い料理がかつてほど多くはないが、田舎の「昔ながらの料理」には残っている。ただし、中国人は、日本の中国料理を「甘い」と感じる人が多いようだ。

 『耽羅紀行』(たんらきこう)は、1985年の取材旅行をもとに書いた文章だ。付箋を張り付けたのは、伊丹空港でのことだ。ここもまた、本筋とは関係がない部分だ。韓国に出発するために空港に集まった在日韓国人の同行者たちが、空港で買い物をしていた。同行者のひとりが、「バナナです」と解説した。韓国人への日本土産はバナナなのだという。そういう事情があったから、空港でバナナを売っていたということか。

 韓国では、外貨節約のために、基本的にはバナナは輸入禁止だったが、台湾が韓国の船を買ったので、そのお返しに韓国は台湾のバナナを買うことになったことで市場に出回ったというのだが、きれいなのは、バナナ1本が1500ウォン(約300円)もするという。韓国とバナナといえば、ドラマ「応答せよ1988」では、1988年のソウルで真っ黒になったバナナが3本で2000ウォンだったという話をすでに書いた。エストニア人とバナナの話は、1305話に書いた。

 1970年代なら、台湾に行く人は土産にリンゴを買っていった。私も頼まれてリンゴ5個を台湾人に届けたことがある。台北松山空港に日本からの便が着くと、リンゴ箱をカートに乗せた旅行者を見かけたものだ。台湾への日本土産の定番はほかに、救心など日本時代から有名だった医薬品があった。同じ時代の羽田では、ハワイ帰りの新婚客のなかには、箱詰めパイナップルを土産にお持ち帰る人もいた。日本にも韓国にも熱帯の果物はあまりなく、台湾には寒い土地でできる果物がなかった。そういう時代があった。そういえば、1990年代までのタイでは、日本の柿が高かった。リンゴは、ニュージーランドからの輸入品が安かった。

 『旅行みやげの世界史』といった本を読みたい。スコッチウィスキー「ジョニー・ウォーカー」やタバコ「555」(いずれもイギリス製品)をある国に持ち込めば、すぐにカネに変わった時代の話も含めて、だれか書かないかなあ。

 

1530話 本の話 第14回

 

 『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その6

 

 「スイレン」の項に、茎の料理が紹介されている。

 「茎の皮を、手際よくフキをむくのと同じようにはぎとると、それを7センチメートルくらいに切り、油を敷いた鍋にクミン、コリアンダーカラシナとニオイクロタネソウ、フェネグリークの種をパチパチはじけさせ、鬱金、生姜、唐辛子を加えて炒め物にした」

 スイレンの茎は見た目も食感もフキのようだと書いている。

 ところが、スイレンについてネット情報を集めると、「食用にするのはハスで、スイレンは食べられない」といった記述が目に付く。

 スイレンスイレン科)とハス(ハス科)については、すでに『インド花綴り』で触れているが、復習しつつ考える。ふたつの植物は、植物学上まったく別の植物なのだが、一見似ているので、遠目では間違いやすい。花の形が違うので、花を見慣れていればすぐにわかるのだが、花がないと間違えるかもしれない。ちなみに、英語lotusはハスもスイレンも両方をさす。

 スイレンの食べられない部分は、ハスにおけるレンコンにあたる地下茎で、スイレンの地下茎は竹の根のようで食用になるとは思えない。タイでもインドでも、なぜかレンコンをほとんど食べない。タイのレンコンは中国系住民が薬用に使うか、砂糖煮のようにすることはあるが、通常のおかずにはほとんどしないと思う。家庭で料理をするかもしれないが、料理店のメニューでは知らない。

 西岡さんは「ベンガル地方では蓮根を食べる習慣はあまり一般的ではない」(『インド花綴り』)と書いている。インドのほかの地域のことはわからないので、インド全域のことは『食べ歩くインド』を書いた小林真樹さんが詳しいかもしれない。

 タイ人やインド人がよく食べるのは、沼の底の潜むレンコン(地下茎)と水面に顔を出す葉や花をつなぐ、水中の茎の部分だ。直径1~2センチ、長さ60センチ以上あり、食用の場合はもっと短く切って売る。お供え用の場合は花がついて輪にしてある。ありがたいことに、スイレンとハスの茎を比較できる写真がここにあった。スイレンの茎の断面は、フキのようだが、ハスの茎の断面はレンコンのように穴がいくつも空いている。極細レンコンという感じだ。

 ハスがいくらでも育つ地域でもレンコンを食べない地域が多くあるのに対して、日本人のように地下茎レンコンは大好きだが、茎は食べない民族もいる。韓国の寺の料理には、ハスの葉の料理もあった。そういえば、日本人はハスの実をほとんど食べないなあ。

 ハスやスイレンの文化誌を知りたいと研究論文を調べてみたのだが、植物学が中心で食文化も含めた内容の本はあまりないようだ。法政大学出版局の「ものと人間の文化史」のシリーズに『蓮』(阪本祐二)があるが、詳しい内容はわからない。世界の食文化の中のハスについては書いていないような気がするが、いつか機会があれば読んでみよう。近所の図書館が工事中でなければ、行ってすぐに確認するのだが・・・。

 想像で書くと、レンコンを重視すると、レンコンの生長のために花や茎は枯れるまで放っておく。花や実や茎が重要だと考えると、レンコンのことなど考えずに、茎を収穫する。そういう違いではないかと想像しているのだが、しょせん素人の空想である。

 それはそうと、もし、本屋で『とっておき インド花綴り』を手に取るようなことがあれば、222ページの「ヒジョル」(サガリバナ科)の冒頭の文章を読んでみるといい。きっと、この本を買いたくなるにちがいない。

 今回で『とっておき インド花綴り』の話を終える。