1493話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第11回

 

 ベトナム

 

 ベトナムに初めて行ったのは1996年だった。いま、こうして旅行した年をはっきりと書くことができるのは、いままで使ったパスポートを取り出して、出入国スタンプから旅行先リストを作ったからだ。スタンプが鮮明ではないものも多く、リストは正確ではない。1970年代前半の旅行は記憶がはっきりしているのだが、その後の旅は、「いつ、どこへ」の記憶が雑然としている。初めてベトナムに行ったのも、「ちょっと前か」と思っていたが、調べれば、もう24年も前のことだ。

 南ベトナム最大の街サイゴンは、1975年の統一後ホーチミンと名前が変わったという報道を信じていて、それは事実ではあるのだが、この街の人は昔と変わらず「サイゴン」という名を使っていた。

 「ホーチミンは、人名。この街の名はサイゴン。それなのに、ホーチミンと呼ばせようとしているのは、ハノイ共産党政府の矯正だ」という声も聞いた。24年前のその声は、今はどうなっているのかちょっと調べてみると、この街の駅は「サイゴン駅」で、それは市民の呼び名だけでなく、正式名な駅名だ。日本のマスコミが気をきかせて「ホーチミン」と呼んでいるだけで、地元ではこの街の名は昔通り「サイゴン」がふつうなのだ。

 そのサイゴンのことを、『タイ・ベトナム枝葉末節旅行』(めこん、1996)に書いた。サイゴンの第一印象はカルカッタだった。歩道の塀の脇は一面公衆便所化していて、糞尿臭でおおわれていた。その近くの歩道は夜になると寝床になった。路地裏ではない。ベンタイン市場前の大通りの広い歩道をねぐらにしている人が数十人は、いた。新しいホテルはできていたが、高層の近代的なビルではなく、中層のそれほど大きくないホテルだった。そのホテルの出入り口付近で、カブに乗った売春婦が外国人に声をかけていた。サイゴンは、まだベトナム戦争中のサイゴンだった。

 そんなサイゴンが、ちょっと目を離しているすきに、外見だけはガラス張りの高層ビルが林立する大都市に姿を変えていた。「ほんとに、これが、あのサイゴンか?!」という驚きだった。俯瞰図ではなく、路地裏の目で見れば、かつて見た「あのサイゴン」はまだ残っているはずだが、観光写真ではごまかせる外観である。

 蔵前さんは、1994年にハノイに行った。「ハノイの通りはまだとても静かだった」と写真に説明つけている。私がハノイに行ったのはそれから10年以上たった2015年のことだったが、印象はとてもよかった。当然、昔よりは交通は激しくなったはずだが、交通が激しい上に信号が満足にない1996年のサイゴンよりは、はるかにましだった。ハノイはそれほどおもしろくないんじゃないかという予想をうれしい方向に裏切り、気に入った。そこで、このアジア雑語林に長い連載「インドシナ 思いつき散歩」を書いた。

 30年以上前なら、落ち着いたハノイのような街よりも、ゴチャゴチャガヤガヤとしたサイゴンのような街のほうがはるかに好意を持ったはずなのだが、50歳を過ぎたあたりから、比較的静かな街のほうが好きになった。年を追うごとに人込みが嫌いになり、騒音にイライラするようになり、東京散歩もあまりしなくなった。自然と共に生きる田舎暮らしなんかまっぴらごめんだが、だからといて大都市での生活や散歩にも魅力を感じない人間になった。

 ハノイ旅行から帰ってすぐから、「また行きたいなあ」と思うことがよくある。ハノイは、大好きな街のひとつになった。行きつけとなった食堂にまた通いたい。ハロン湾には興味はないが、今度はハノイからフエかダナンあたりまで南下しようなどと考えていたのが昨年のことだ。新型コロナなどなければ、今年はギリシャ経由ブルガリアか、ベトナム北部に行ったはずなのだが・・・。

 

1492話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第10回

 

 ラオス

 

 ラオスに初めて行ったのは、1994年だった。同じ年、蔵前さんもラオスに行ったのだと、『失われた旅を求めて』を読んで初めて知った。そのちょっと前から、ラオスの個人旅行は解禁になっていたが、ビザ代が異常に高かったのでためらっていた。そのころタイで暮らしていたから、ラオスへの交通費は安いのだが、タイの物価を考えるとビザ代が「外国人の足元を見ている価格」に思えるほど高かったから、旅行解禁と同時に「よし、行くぞ!」とはならなかったのだ。

 1960年代のラオスを知っている日本人から、「ビエンチャンは、対岸のタイの町ノンカイよりも小さい」という話を聞いていた。以前にもノンカイに来たことがあり、外国人旅行者は渡れない渡し船を川岸で眺めたことがあった。1970年代なかばから20年ほどの間、ラオスは「行けない国」のひとつだった。94年にはすでにメコン川にかかる友好橋ができていたので、バスで入国し、オートバイを改造した三輪車に乗ってビエンチャンに向かった。山がちの風景になったが、タイ語が通じたので、外国に来たという実感はなかった。

 知人の話通り、ビエンチャンはノンカイよりも小さく、安宿も食堂も「ないわけではない」という程度だった。ビエンチャンは首都なのだが、タイの小さな地方都市の方が、食堂や商店など消費生活ははるかに豊かだった。社会主義国だから、ツアー客が利用するラーンサーンホテルなどは国営だった。いかにもソビエトが建てたという外観のホテルで、ずっとのちにチェコのチェスキー・クロムロフで似たスタイルのホテルを見かけて、ビエンチャンを思い出した。

 2度目にラオスに行ったのは、2007年だった。バンコクの友人から、ルアンパバンの話を聞いた。それほど興味のある町ではなく、写真で見ると、なんだかテーマパークのようだ。「そう、たしかにテーマパークのようではあるけれど、行く価値はあると思う。今後、過去の姿に戻るようなことはないのだから、見るなら今だ。すぐに行ったほうがいい」そう言われて、バンコクからルアンパバンへの飛行機に乗った。もう、ビザを取る必要はなかった。現実に目にしたルアンパバンは、感動はないが、失望もなかった。

 そういえば、知り合いのイタリア史の研究者から、ベネチアに関しても同じようなことを言われた。「ベネチアはたしかにテーマパークのようなところだけど、あんな街はほかにないんだから、1度は行ってみる価値はあると思うよ」

 ベネチアはすでに保存が決まった街だから、5年後に再訪しても変わりはないが、ルアンパバンは世界遺産に指定されても、変わりづけるだろう。

 3度目にラオスに行ったのは2015年で、メコン川下りの旅をした。その20年ほど前に、天下のクラマエ師はルアンパバンからタイのフェイサイまで川を上ったのだが、私はこのコースを逆に進んだ。『失われた旅を求めて』の62ページに載っている船はまだ現役で運航していたが、私が乗ったのはこの船の幅2倍、長さ2倍の船だった。1日目8時間、2日目6時間ほどの船旅だった記憶がある。クラマエ師ご所望の船内トイレはあるようだったが、船上では飲まず食わず出さずだったので、使用体験はない。

 クラマエ師が乗った62ページの舟をアパートに例えるなら、玄関で靴を脱いで上がる下宿屋タイプの3畳間(トイレ共同、風呂ナシ。入口の戸は引き戸)で、その20年後に私が乗ったのは下の写真の船で、4.5畳(台所・トイレ付、風呂ナシ)の木造モルタル2階建て、ドア隣に洗濯機が置いてあるアパートという感じだ。20年の差は、それくらいだ。クラマエ時代と違い、私が乗った船は新しく、川下りなのだが、船旅は「やや短かい」という程度だった。川幅が狭く、岩が多いので速度を出せないのだ。急ぐ客、スリルを味わいたい客は、直訳すると長尾舟となる細長い舟に自動車のエンジンを積んだ高速船でぶっとばす。客はライフジャケットにフルフェイスのヘルメットで、まるで競艇のように身をかがめている。あれも、つらい姿勢だ。

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  この時の旅は、2016年のアジア雑語林803~815話に書いている。そこでも書いているように、ビエンチャンは過去の記憶の断片はほとんどない別の街に変身していた。私の旅行体験のなかで、これほど変化した街はほかにサイゴンがある。

 

 

1491話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第9回

 

 ポカラ

 

 『失われた旅を求めて』には、まだのどかだった1984年のポカラ(ネパール)の姿を見せている。外国人にとってポカラは長い間、登山隊の基地だった。カトマンズから飛行機を利用するのが普通だったが、バスが通れる道路ができたのは1970年代初めらしい。

 1973年、私はヒマラヤ遊覧飛行も兼ねて、片道は飛行機を使った。74年には往復とも10時間ほどのバス旅行をした。バスに外国人はほとんどいなかった。ポカラは登山基地という歴史もあるせいか、それなりの街でホテルもある程度あったと思うが、街の宿には泊まっていない。郊外のペワ湖まで歩けば、現在も営業している高級ホテル、フィッシュ・テイルがあったが、貧乏旅行者の私には縁がない。湖畔を歩いていると、宿の看板を見つけた。それが、hotelだったか、lodgeだったか覚えていない。その宿の外観は、『失われた旅を求めて』の97ページ上段の写真のような農家で、土間にムシロが敷いてあった。74年には、この手の安宿が5軒ほどに増えていて、部屋にベッドもあり、カフェテラス(といえば、おしゃれそうだが、要するに野外の喫茶店だ)も1軒あった。

 湖畔に飯屋はないから、ポカラの町まで行くか、あるいは町に出るまでの途中にある食堂を利用するしかなかった。この食堂がクセ者だった。料理が出てくるまでに、時間がかかりすぎるのだ。私が料理を待っていると、顔なじみの旅行者が店に来た。「この店、なんで、遅いんだろうね」という話題になり、「オレ、チキンを注文したから、きっとこれからニワトリを買いに行くはずだ」などと冗談を言い合っていると、少年が店から出ていき、30分ほどして、羽がついたニワトリを手に下げて戻ってきた。注文を受けてから買い物に行くというのは、伝説ではなくノンフィクションだったのだ。チキンの料理が食卓に来るころに別の客が来て、小一時ほど雑談をしていると料理が出てくるという具合だから、この店に来ると、ついつい長居になる。

 その後、安宿は増えていったのだろうが、蔵前さんが訪れたのはその10年後の1984年なのだが、まだ「のんびりした湖畔」の雰囲気は残っていたようだ。

 ネパールは74年を最後に再訪していないから、旅行者が集まってくる「タメル地区」というものを知らないが、中心部には外国人旅行者が多かった。幸せなことに交通渋滞はまだなく、道路の中央部分が駐車スペースにしているという珍風景があった。カトマンズにまた行こうと何度か計画を立てたことはあるものの、旅行候補地のなかにカトマンズよりも魅力的に見える街がいくつかあり、そちらを優先するからなかなか行けずにいる。画像を見る限り、「ポカラは行かなくていいか」と思うが、山岳風景は変わっていないのだから行く価値はあるか。

 

1490話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第8回

 

 アフリカの街

 

 東アジアや東南アジアの都市を見慣れているせいか、ナイロビに高層ビルが増えても、それほどの変化とも思えない。ごくたまにテレビで見るナイロビの街は、スーパーマーケットなどはできているが、基本的には1982年に私が見たナイロビとそれほどの違いはない。ナイロビの変化は、高層ビルが見える俯瞰図のナイロビではなく、かつて郊外だった荒地に広がり続けているスラム街の存在だろう。こういう変化は、観光客にはわかりにくい。

 ドラマーの石川晶さんに初めてあったのは、アフリカのガイドブック『東アフリカ』(オデッセイ、1983)を出した直後だったと思う。石川さんが開いた恵比寿のアフリカ料理店「ピガピガ」の、開店記念パーティーで知人に紹介されてしばらく話をした。そこには、アフリカ専門旅行社の「道祖神」のスタッフや、アフリカ研究者の白石顕二さんたちもいたことを懐かしく思い出す。そのあと、アフリカ音楽のコンサートなどで石川さんと出会い、ロビーでちょっと雑談をした。石川さんは、1990年にケニアに移住し、2002年にケニアで亡くなったそうだ。そういういきさつを知らずに、石川さんがウガンダカンパラを再訪するというテレビ番組を見た。それがいつだったか覚えていないが、1990年代だっただろう。テレビに映るカンパラは、私が知っているこの街の十数年後の姿ということになるが、まったく別の街に生まれ変わっていた。

 蔵前さんは『失われた旅を求めて』で、1991年のカンパラを「まるで廃墟のような都市だった」と書いているが、1982年のカンパラを知っている私には、蔵前さんの写真を見ても、「大分よくなった」と思う。石川さんが紹介したカンパラはもっと良くなっていたから90年代末かもしれない。

 1982年のカンパラは、まだ内戦が続いていた。機関銃を持った兵士が街を闊歩していたし、夜は銃撃の音が聞こえた。街に食べ物は少なかった。1軒の飯屋は昼の1時間ほどの営業で、売り切れになった。ほかに営業している飯屋は見つからなかった。だから、食料採集民となって、街を歩いた。ビスケットを見つけたら買い、キャッサバのフライを売る露店があれば、新聞紙に包んでもらい夕食にした。欧米や日本で「アフリカの飢餓」が叫ばれるのはそのちょっと後だ。アフリカを救済しようというイギリスの活動「ライブ・エイド」は1984年。USA for Africaの活動で、「We are the World」を発売したのが1985年だった。

 ウガンダからトラックに乗せてもらい、スーダン南部の小さな町ジュバに行った。そのトラックは、ケニアのモンバサからウガンダ経由でスーダン南部に援助物資を運んでいた。そのトラックに乗せてもらっている間は、助手が作るうまい飯にありつけた。そして、到着したジュバではまた食い物が充分ではなかった。ここでもカンパラの飯屋同様、たった1軒の飯屋が夕方開店し、1時間ほどで売り切れになった。外国人旅行者がその飯屋にやってくると、反政府活動を訴えるビラが配られた。考えてみれば、印刷する紙さえ貴重品だったはずだ。この小さな町で、いつ来るかわからないナイルを下る船を待っていた。

 2011年に、スーダン南部が分離独立し、南スーダン共和国となった。その首都がジュバだと聞いて、「まさか」と思ったが、南部最大の町なのだから、当然といえば当然だ。私が訪れたころのジュバの人口は8万人ほどで、今は50万人ほどいるらしい。ちょっと疑問を書いておくと、ウィキペディアでも日本の外務省の資料でも、南スーダンの人口は1000万人を超えているのだが、ウィキペディアの「南スーダンの人口上位10都市」の人口を合計しても200万人だ。それなのに、総人口が1000万人を超える事情がわからないのだ。全国の村々に800万人も住んでいるのか?

 それはともかく、ジュバに空港ができたというので、首都らしくなったのかとネットの画像を見たら、大した変化ではない。

 南スーダンは、今のところ世界で「もっとも若い国」で、その前は東ティモールだった。そこで、この2国の首都比較をしてみる。ネット画像で見る限り、ジュバよりも東ティモールの首都ディリの方がはるかに都会的だ。

 

1489話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第7回

 

 沙漠の街

 

 沙漠が街になるのは、無から有だから、変貌と呼べるのかどうか、ためらいはある。

 シャルジャに行ったのは、1978年だった。シャルジャを国名だと知っている人は少ないだろうし、ましてやどこにあるのか知っている人はなお少ないだろう。私だって、知らない国に無理に連れていかれたのだ。

 エジプトに行こうと、バンコクからエジプト航空機に乗った。はっきりした記憶はないが、たぶんボンベイあたりを経由し、次はカイロだ。しかし、私が乗った飛行機が着陸したのは沙漠の空港で、どう考えてもカイロとは思えなかった。

 「ここは、どこですか? カイロじゃないですよね」と客室乗務員に聞くと、「シャルジャです」

 「それ、どこの国ですか?」

 「だから、シャルジャです。国の名前です。機体が故障したので、ここで1泊します」

 シャルジャなどという国の名を、私は知らない。

 乗客はバスに乗せられた。車窓の両側は、テレビ番組なのでおなじみの、砂の沙漠が広がっていた。少々解説しておくと、「さばく」といっても、テレビでよく見る砂のさばくは実は少なく、多くは岩や石がごろごろしている土地が多い。アメリカのデスバレーやグランドキャニオンなどだといえば、わかりやすいか。そういうわけで、「さばく」は砂だらけの場所というだけでなく、水の少ない土地ということで、砂漠よりも「沙漠」と表記したほうが実情に合っているというわけだ。

 沙漠の一本道を抜けると、小さな家が見えてきて、その向こうに孤立している高層ビルが見え、その前でバスが止まった。ビルの周囲に建物はない。人工物は何もない空き地で、まるで1960年代か70年代の晴海の埋立地を思い出したのだが、あのころの晴海の埋立地には草木は生えていたのだが、ここには草木はまったく見えなかった。その高層ビルの背後は見えないが、あとで調べると海だったらしい。その高層ビルは、ヒルトンだったか、インターコンチネンタルだったか、あるいは、ハイアット・リーゼンシーだったか覚えていないが、とにかく私でも知っている世界的に有名な高級ホテルで、その夜は私の宿になった。航空会社がスポンサーだから、サンダル履きでも、宿泊を断られない。

 部屋に荷物を置いて、ホテル周辺の散歩に出たが、もう薄暮だというのに息苦しいほどに暑く、何もない空き地を5分ほど歩き、小さな市街地に出たが、2階建ての住居兼用商店のほとんどは閉まっていた。どうせ現地のカネもないので、数分歩いただけで、ホテルに戻った。

 我が貧乏旅行で、高級ホテルに泊まったのは、それが2度目だった。団体旅行ゆえに泊まらざるを得なかったモスクワのホテル・ウクライナは高額ではあるが、高級とは言い難いサービスなので番外としておくと、生まれて初めて泊まった高級ホテルは、香港のエクセシオールだった。バンコクから乗ったエア・サイアム機が香港で故障し、乗客はホテルに送られた。1976年10月のことだった。エア・サイアムは76年末に運行を停止し、倒産した。その航空券を持っている旅行者たちが、旅先で路頭に迷うことになった。

 それが最初で、2度目がシャルジャのこの高級ホテルというわけで、町の散歩を早めに切り上げたのは、暑くて息苦しくておもしろみのない町散歩よりも、高級ホテルで今後体験することのない「入浴」というものを楽しんでみようと思ったのである。熱帯を旅することが多く、水シャワーが普通で、それで何の不満もないのだが、根が貧乏性でケチだから、タダならありがたいと、あまり好きでもないのに、風呂にゆっくりつかり、石鹸やシャンプーを確保し、裸で部屋を歩き、水泳の飛び込みのようにベッドにジャンプし、ノリのきいたシーツにくるまって寝た。ちなみに、夕食はステーキだった。もしかして、これは人生初のステーキだったかもしれない。

 帰国して、シャルジャを調べた。シャルジャはアブダビやドバイなどと結成したアラブ首長国連邦UAE)の1国だった。連邦の建国は1971年だから、私が行ったのは建国してまだ7年目だったことになる。産油国ではないが、産油国で働く人たちのベッドタウンのような国になっているらしい。

 今はもちろん、超高層ビルの都市だ。

 

1488話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第6回

 

 島 その4

 

 その国がまだビルマと呼ばれていた時代、インレー湖畔でしばらく遊んでいたことがある。1980年代半ばだった。湖畔にはニャウンシェという小さな町があり、ちょっとした買い物や、あるいはどこかに出かけるときは、この町の広場から出る小型トラック改造バスに乗った。

 ちょっとした好奇心で手織りの布を買ったのだが、何かの用途を考えてのことではない。町を散歩していると、布地屋を見つけ、店の隅でミシンを踏んでいる人を見たので、ふと服を作ってみようと思いついた。バンコクでもバリでも、暇つぶしのひとつとして、ときどきオートクチュール遊びをやっていた。手織りの布で、服を仕立てることなど、日本でやったら微細な我が身上(しんしょう)をつぶすことになるのだが、そのころの東南アジアでは仕立て代金は数百円からせいぜい1000円だった。

 ビルマでもいい遊びを見つけたので、数日おきにその布地屋に行った。若い店主は英語ができるから、世間話も楽しめた。夕方まで店にいると、帰り道がちょっと怖かった。月のない夜は田舎道が真っ暗で、道のわきの家にはランプの赤い明りが揺らいで見えた。狭いながらもニャウンシェの町には電気は来ていたが、数分も郊外へ歩けば、闇が待っていた。「そうだ、昔のバリもこんな風だった。あと何年かすれば、ここも観光地になるのだろう」と思ったとおり、インターネットで画像を見ると、どうやら有名観光地になったらしい。

 同じ1980年代なかばころ、フィリピンのボラカイ島でもランプで暮らしていた。フィリピンのセブやミンダナオなどガイドブックにも出てくる場所なら、なぜ行ったのかなどと考えないのだが、当時、ほとんどの日本人は知らなかったボラカイ島をどういういきさつで知り、その行き方をどうやって知ったのかが、まったく思い出せないのだ。旅行者から教えてもらったという記憶はないので、もしかするとロンリー・プラネットのガイドを読んだのかもしれない。

 数年前のテレビの旅番組だったと思うが、「ボラカイ島は、2012年のアメリカの旅行雑誌で、世界最高の島に選ばれました」というナレーションを耳にして、ホントかよと首を傾げた。おまけに、2018年に、「島周辺の海洋汚染がひどい」という理由で、半年間閉鎖されたというニュースも、「あの島が!」という驚きだった。

 どうしてボラカイ島に行ってみようと思ったのか覚えていないが、とにかく行くことにした。船でフィリピンを旅したいという欲求もあり、マニラから船に乗った。どのようにしてそのルートを知ったのかというあたりも、やはり記憶にない。

 マニラからパナイ島行きの船に乗った。ボラカイ島は、パナイ島の北端近くにある。1泊か2泊して、船は海上で停まり、ボラカイ島に行く乗客は、船の腹に空いた穴から海上の小舟に乗り移る。大きな船が着く港がないからだとわかったが、小さな舟が着く港もなく、小舟が浜辺に突き刺さるように着くと、客は海に降りて、じゃぶじゃぶと浅瀬を歩いて浜に上陸する。

 ゲストハウスは1軒あるだけだった。そこでランプの生活が始まった。翌日、自転車を借りて島を走ったが、農道や踏み分け道のような細い道しかなく、ほかにゲストハウスは見つからなかった。もしかすると、陸路では行けない場所にも宿があったのかもしれない。宿のすぐ近くの浜辺に、真新しいホテルが建っていたのだが、営業している気配はなかった。わがゲストハウスにすでにいた客は、ルフトハンザ航空勤務というドイツ人一家だけで、しばらくしてそのドイツ人もいなくなり、私ひとりになった。

 翌年、仕事でグアムに行った。繁華街タモンに出るために乗ったタクシーの運転手が、「ボラカイに行ったのか?」と話しかけてきた。「何で知っているの?」と聞いたら、シャツの胸を指さした。「ボクは、その島の出身なんだ」。

 そうだ。ボラカイで買ったシャツを着ていたのだ。わがゲストハウスの女将の営業活動で、島の名前が入ったシャツや袋を商っており、食事のたびにセールスをされるので、袖すりあうも他生の縁、”BORACAY”と染め抜かれたシャツを買ったのだった。

 ボラカイの名が入ったシャツを着ていたおかげで、フィリピン人運転手の案内で、グアムのフィリピン人コミュニティーのいったんを見せてもらった。

 

 

1487話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第5回

 

 島 その3

 

 その後も、インドネシアにはたびたび行ったが、バリに行くことはなかった。私は街の文化の方が好きだからだ。バリを再訪したのは、最初に行ってから13年後だった。『東南アジアの日常茶飯』の取材のためだ。1987年のバリは、デンパサールはちょっと小ぎれいになり、クタはどこの海岸にもありそうなビーチリゾートになっていた。派手な服やアクセサリーを売る小さな店が並び、スタンドバーやレストラン、ディスコや旅行代理店が並び、タイの海岸と変わるところはなかった。もはや関わりたくない場所になったから、10分ほど歩いただけで、すぐさまバスに乗りウブドゥに行った。74年のウブドゥはクタと同じように電気水道なしの村だった。87年のウブドゥはゲストハウスの町にはなっていたが、クタのようなけばけばしさはなかった。

 バリが大きく変わった分岐点は、1970年代後半からだと思う。私の想像に過ぎないのだが、変身させた元凶はオーストラリア人サーファーだろうと思う。1970年代前半までの、静かなヒッピーの島は若年化し、飲んで騒いで遊ぶサーファーの島になった。その時代にロンリー・プラネットのガイドブックが出版されて、オーストラリア&ニュージーランドとヨーロッパを行き来する旅行者の中継地点としてバリが注目された。ちなみに、『地球の歩き方』がインドネシア編を初めて出版したのは『’87~’88』だ。そのころから少しづつ、バリ島が日本人の観光地としても公認されたということだ。

 静かな島が観光開発されて魅力を失うクタのような例もあるが、うまい具合に開発され、依然として魅力的な島もある。ケニアラム島だ。アフリカのなかのアラブの街がある島だ。この島の魅力を教えてくれたのが、旅行雑誌「オデッセイ」の岩瀬編集長だった。この島はそれほど小さくはないが、人が生活できる場所は狭く、道路は自動車時代に適合していないので、自動車はなく、いわゆる「絵になる風景」にあふれていた。この島で、ひと月ほどを過ごした。1982年のことだ。その後、また行きたいとは思いつつ、ケニアの治安が問題でなかなか行けない。今は空港があるから、ナイロビで乗り換えれば、ラムに行くことはできるが、ソマリアから武装した観光客誘拐グループがやってくるから、やはり危ない場所らしい。

 インターネットの時代になり、現在のラムの姿を見ることができる。当然ながら、昔と違ってホテルが増え、高級化が進んではいるようだが、それでも魅力的な町だ。ラムはプーケットやサムイ島のようにはならなかったのは、治安の悪さで観光客が増えないせいか、それとも、イスラム教が島の歓楽化の規制になっているせいなのか。