2043 続・経年変化 その9

音楽 9 洋楽ヒット曲

 ビートルズの初シングルがイギリスで発売されたのは1962年だが、日本での発売は1964年だった。その頃には、日本でもビートルズが大人気になり…と思っていたが、東芝の販売担当者だった高島弘之氏の話だと、雑誌やラジオでもビートルズの紹介を依頼しても「そんなバンド、売れないよ!」と拒否されたという。日本ではなかなか売れなかったのだ。

 1964年当時、日本で流行っていた洋楽は、「ロシアより愛をこめて」(007テーマ)、「夢見る想い」(ジリオラ・チンクエティー)、「太陽の彼方」(アストロノウツ)、「ラ・ノビア」(トニーダララ)などで、ビートルズは9位と10位だ。

1965年は、「ダイヤモンドヘッド」(ベンチャーズ)、「キャラバン」(ベンチャーズ)、「真珠貝の歌」(ビリー・ボーン)、ビートルズは7位と10位。1966年でも、サイモンとガーファンクルモンキーズの方が売れていたらしい。社会的に話題にはなっていたが、洋楽ファンの間では、もっとおとなしい、わかりやすメロディーの歌が求められていたのだろう。当時、バンドはベンチャーズのような「演奏のみ」が主流で、作詞作曲歌を自分たちでやるバンドは少なく、当時の若者の大多数にはなじみにくいものだったようだ。

 私は65年に中学生になるのだが、その後のロックの雨嵐を自分からは浴びていない。アメリカンポップスもハードーロックはラジオから流れているのは認識していて、何曲かは記憶がある。プログレシッブ・ロックもテクノ、80年代以降のヒット曲はほとんど記憶にない。パンクやヒップホップなど当時最新の音楽を聞くことを拒否していたようだ。

 小中高とラジオ少年だったから、ラジオから流れるロックは耳にしていたが、本を読む目を閉じてじっくり聞いていたのは、ソウルでありジャズだった。つまり、フォークも含めて白人の音楽にはあまりそそられなかったのだ。時代がもう少し後になると民族音楽なども聴くようになり、英米白人音楽からはますます遠ざかった。

 ロックのレコードは1枚も買っていない。CD時代になって、中古CD店の格安コーナーで、サンタナローリング・ストーンズは買った。映画「ウッドストック」の最高のシーンはサンタナ登場である(このDVDは買った)。ストーンズはテレビのコンサート放送はすべて録画して見ている。もっとも好きなのは“Gimme Shelter”で、レディ・ガガと共演したステージはYoutubeで見たが、CD化はされていないらしい。ライブの1曲目でよく演奏するのが”Start Me Up“だ。さあ、やるぞ!という宣言だ。ライブではめったにやらないが、”Time Is On My Side”もいい。スリリングでカッコいいのだ。

 これらは、例外である。CDは1枚も持っていないが、ラジオから流れるビーチ・ボーイズのコーラスを聞いていると、なつかしさを感じる。ファルセットが大嫌いだというのに、なんだかいいのである。

 何事にも例外があり、ブラックミュージックでもないのにレコードを買ったのが、ジム・クローチ。CDのボックスセットを買ったのはS&G(サイモン&ガーファンクル)。アメリカ旅行中にラジオで聞き、耳をすませばわかる歌詞で、なによりも旅を感じさせた。S&Gの「アメリカ」はグレイハンドバスに乗ってニューヨークに行くカップルの歌だ。ニューヨークにいたころ、ラジオからよく流れていたのがビリー・ジョエルの“New York State Of Mind”は、心にしみた。そういうことはある。

 ロックの波をもろにかぶらなかったせいだと思うのだが、「英米の白人音楽至上主義者」にはならなくて済んだ。話題のロックを聞いていないと友人との会話に入れないとか、このバンドを聞いているからカッコいいだろといった感情はまったくなかった。アメリカの黒人音楽への関心からアフリカ音楽も聞くようになり、ブラジルやスペインの音楽も聞くようになった。ナイロビでアフリカ音楽に耳を澄ませた。バンコクやバリの路上では、タイやインドネシアのテープを探した。日本から旅に持ってきた音楽を、ウォークマンで聞くことはなく、街のレコードショップやテープ屋に行った。

 

 

2042話 続・経年変化 その8

音楽 8ロックンロール

 フランスやイタリアの歌謡曲を聞いていた時代から長い時間が流れ、1990年代末から中古CD店に通うようになり、2010年代に入って、アマゾン遊びをするようになり、膨大な出品品から次々にCDを買うようになった。大人買いをするカネはないが、安いCDをまとめて買うようになった。4枚組、6枚組といったボックスセットで買いまくったのは10代に聞いた音楽ではなかった。「いいなあ、こういう音楽!!」と感動するのは、ロックンロールやドゥワップといったジャンルの音楽で、わかりやすく言えば1950年代から60年代初め音楽で、もっとわかりやすく言えば、映画「アメリカン・グラフィティー」で流れていたような音楽だ。ビートルズ以前の音楽といえば、もっとわかりやすいか。この映画は1962年の高校生が耳にしていた音楽、その時代のラジオから流れていた音楽が使われている。半分くらいは知っているが、同時代の体験ではなく、アメリカでヒットしてから数年後に日本でカバーされて、ケンイチ少年は耳にしたのだ。1950年代末から60年代初めのころだから、私はまだ10歳にもなっていない。その時代の洋楽ヒットが、私の心を揺さぶる音楽だとわかった。「懐かしの音楽」というのは間違いではないが、60年代に入ってからラジオで聞いていたと思われる。あの時代のラジオは、いつも新曲ばかり追いかけていたわけではなく、10年前、20年前の音楽をたえず流していた。昔は、歌の寿命は長かったのだ。

 YouTubeの時代になり、手当たり次第に音楽を聞いているうちに、ロックンロール、ロカビリー、ソウルといった音楽が流れてきて、50歳を過ぎてからだが、1950年代から60年代初めの音楽CDを買い集めるようになった。いわゆるヒット曲はよく知っているが、ドゥワップとなると、ほとんど知らない。日本で紹介されたのはごく一部だからだ。この時代は、ポピュラー音楽の本流は白人だった。黒人音楽を流すラジオ局は限られていた時代だから、日本のラジオで放送されるチャンスは非常に低かった。

 大人買いしたCDを毎日聞いた。そのなかに、知っているようで、知らないような、しかし魅力的な歌に出会った。チャビー・チェッカーのLet’s Twist Again(1961年)は、グラミー賞ベスト・ロックンロール・レコーディング受賞曲だ。ピーター・バラカンは嫌いらしいが、いいなあ、このメロディーとリズム。知らない歌ではないが、はっきりとした記憶はない。1961年は、私は9歳で、ラジオを聞くより、その辺で遊びまわっている方が楽しい時代の、日本では大ヒット曲でもない歌だから記憶にないのは当たり前だが、でも、知っている。しばらく考えて、わかった。日本版カバーを聞いているのだ。大瀧詠一プロデュースのLet's Ondo AgainNIAGARA FALLIN' STARS、1978)だ。大瀧自身がDJをやったラジオ番組で、この歌を聞いた記憶があり、のちに本家の歌を聞いて、「どこかで聞いたなあ」と感じ、題名から大瀧のカバーに気がついたというわけだ。

 かつて、1950年代から60年代初めのアメリカのヒット曲を、日本語でカバーして発売するという時代があった。渡辺プロダクション(通称ナベプロ)時代といってもいいし、テレビの「ザ・ヒットパレード」(1959~70)や「シャボン玉ホリデー」(1961~72)で、数多くのカバー曲を放送し、日本でもそれなりにヒットした。ロックンロールという音楽は好きだが、その時代を象徴するリーゼント、革ジャン、オートバイの文化は嫌いだ(同じく、ディスコは嫌いだが、音楽としてのディスコやファンクは割合好きだ)。

 私の心がウキウキしてくる音楽は、その時代のヒット曲だ。1950年代から1963年までの「その時代」を別の言葉で言えば、エルビス・プレスリーの時代であり、1964年からはビートルズの時代ということになる。プレスリー時代だが、「1950年代ヒット大全集」と言ったコンピレーションアルバム(寄せ集め)のセットがあると、プレスリーパット・ブーン、そしてサム・クックといった名が曲リストに載ってたら、買う気を失くす。甘い、ソフトな声が嫌いなのだ。反逆者のイメ―ジだったプレスリーはすぐに映画俳優になり、太ったエンターテイナーになった。同じ軌跡を、石原裕次郎がたどる。反逆者が保守本流の人になった。

 

 

2041話 続・経年変化 その7

音楽 7 カンツォーネ

 歌をフランス語ではシャンソン(chanson)、 イタリア語ではカンツォーネ(Canzone)というのだが、日本では限定的な意味でフランスの歌謡曲シャンソンで、1960年~70年代イタリアの歌謡曲カンツォーネと呼んでいる。カンツォーネのCDを探すと、「オー・ソレ・ミオ」や「フニクリ・フニクラ」なども収録されているのだが、日本では1960~70年代のイタリア歌謡曲を「カンツォーネ」と呼んでいる。

 私はフレンチポップよりもカンツォーネの方が好きだった。これは、ポップスよりも歌謡曲の方が好きという趣味のせいなのだろうか。だからといって、「布施明が好きでしょ」と問われると口をつむぐしかない。カンツォーネといえば、次のような歌手の名と歌声に記憶がある。

 ジリオラ・チンクエッティー

 ボビー・ソロ

 ミーナ

 ドメニコ・モドゥーニョ

 ジャンニ・モランディ

 ウィルマ・ゴイクなどの歌が日本でも大ヒットした(この歌が好きだ)。

 私はなぜか非英語圏の音楽が好きだったが(もちろん、アメリカのブラックミュージックは除くが)、特に、カンツォーネに聞き入っていた。センチメンタルな歌が好きで、なかでもミーナの歌が記憶に残っている。「月影のナポリ」や「砂に消えた涙」が沁みた。ただ、彼女の歌は70年代の短い期間に聞いていただけで、その後のことは知らないし、ラジオで聞いていただけだからその姿も知らない。当然、話している姿も歌っている姿も見たことがない。

 そのミーナがNHKの番組に登場したのだ。1964年に「砂に消えた涙」がヒットしてから50年近くたった2011年のことだ。音楽番組「Amazing Voice驚異の歌声」シリーズで、ポルトガルのドゥルセ・ポンテスが紹介されていて驚いたのだが、同じ番組のシリーズで、ミーナが紹介された。動いているミーナを初めて見た。この番組のプロデューサーは私と似た好みのようだ。ハワイのIZ(イズ。ISRAEL KAMAKAWIWO’OLE)もその番組で取り上げていたし。それはそうと、カンツォーネと言えば、伊東ゆかりの魅力がわかるのは、もっと後になってからだ。英語ではない歌に、新鮮さを感じていたのかもしれない。

 2000年代初め、テレビからなつかしのイタリアのポップスが突然流れて来た。大ヒット曲ではないが、私の記憶に残る程度の小ヒット曲だった。芸人ヒロシの自虐ネタのバックに流れているのは、「ガラスの部屋」。歌手名は覚えていなかったので、調べた。ペッピーノ・ガッリャールディと言う名に記憶はないが、この曲ははっきり覚えていた。ウィキペディアによれば、「日本においては1970年に大ヒットしたレイ・ラブロック主演映画『ガラスの部屋』の主題歌」だというのだが、大ヒットしたという記憶はない。

 2017年にイタリアを旅していて、ラジオから流れてくる歌のいくつかに、「ああ、これ、知っている」という少年時代の記憶があった。

 イタリアの南部バーリの朝は雨だった。激しい雨で、道路が冠水している。歩道は歩けるが、交差点を渡るときはつま先立ちで歩くことになる。雨宿りしている人が「雨」と言っているような気がした。ジリオラ・チンクエティーの「雨」が頭に浮かんだ。この歌の原題がLa Pioggiaだということは知らなかったが、あの歌のリフレインで「ラ・ピオージャ」のように聞こえるのを記憶している。イタリア語は聞き取りやすい。帰国して調べたら、あの単語はやはりイタリア語の「雨」だった。その思い出を書いたのが、アジア雑語林1102話だ。ここで書いているようなことを、そこでやや詳しく書いている。

 数年前に初めて見たテレビ番組「小さな村の物語 イタリア」(BS日テレ)のテーマソング、「L'appuntamento」(Ornella Vanoni、1970)を聞いて、すぐさまアルバムを買った(もちろんその前に、「カンツォーネ全集」は買っている)。あの時代のイタリアの歌だ。この番組は村で生活をしている老人を紹介することが多く、その老人たちが若いころ聞いていたに違いない歌が流れている。番組では、毎回家庭での料理と食事風景が出てくるから、食文化の興味も満たしてくれる。

 先日放送したのはローマのちょっと北のラツィオ州の山村が舞台。家庭でピザを作るというのだが、まずトウモロコシの粉をこねた。ポレンタかと思ったが、違う。練ったトウモロコシ粉を厚さ2センチくらい、直径30センチくらいの円盤状にして、暖炉で両面をあぶり焼く。、トマトソースもチーズものせない。ナイフで切って食べるパンのようなものだ。イタリ語で料理名も出たが、確かにpizzaの文字はあった。「ヘェー!」という体験ができる番組だ。調べてみると、、ネットにこの料理が紹介されていた。ピッツァ・エ・・フォイユというらしい。この情報では、「アブルッツォ州の郷土料理」とあるが、番組で紹介しているラツィオ州はその隣の州だ。

 観光地の紹介がない番組、芸能人が出てこない旅番組は心地いい。

 

 

 

2040話 続・経年変化 その6

音楽 6 フレンチポップ

 私の世代では、小学校6年生から中学生で、ベンチャーズビートルズに出会い、高校時代はロックやフォークを聞き、ギターを買う。その時代に始まった深夜放送をよく聞いていた少年少女たちの過半数はフォークを聞き、英米のロック&ポップ音楽を熱心に聞いていたのはそれよりも少ないだろうと思う。それでも、今の高校生よりもはるかに多くの外国音楽を聞いていた。なにしろ、60年代だ。と言って、わかる人にはわかる表現だが、60年代後半はビートルズローリング・ストーンズジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスサイモン&ガーファンクルなどの時代だ。

 そして、20代になる70年代になると、以前ほどには音楽を聞かなくなるというのが大筋の流れではないか。レコードを買わない。コンサートに行かない。ラジオをあまり聞かなくなる。音楽と疎遠になっていく。まだ、カラオケはない。

 音楽とは密につきあいながら、この流れの中にいなかったのは、「幼少時代からピアノを始めて芸大受験を目指す」というような少年少女たちで、もう少し時代が後になると、そういうピアノ少女はバンドに誘われてキーボード担当になる。あるいは、ソウルからディスコへの道やラテン音楽、そしてジャズに目覚めた少年少女たちは、ロックやフォークに深入りしなかったのではないか。現実として、大学生が好む音楽と、中卒・高卒者(あるいは中退)が好む音楽は、明らかに違っていたという気がする。フォークやプログレッシブロックやクラシックは、おりこうさんが聞く音楽という印象がある。

 ケンイチ少年は、小学校高学年からラジオを友としていて、音楽ばかり聴いていたが、小遣いは本に消え、高校を卒業してからは稼いだカネは旅行資金に貯めるから、レコードを買うことはなかった。音楽を聞いている時間は長かったが、特定のジャンルや歌手・バンドのファンにはならなかった。音楽に淫するほどのめり込むことはなかった。

 中学生になったころ、どうしても買いたいレコードがあった。シルビー・バルタンの「アイドルを探せ」(1964)だった。それが、私が生まれて初めて買ったレコードだ。前回紹介したシャンソンのファンは60年代後半には中年になり、フランスでは若者の心をつかむ新しい音楽が登場した。日本でフレンチポップと呼ばれる音楽の時代だ。ロックンロールの影響を受けたイェイェYÉYÉと呼ばれる音楽が流行った。イギリスのロックバンドの歌のなかにある”Oh Yeah”という掛け声がフランス人には「ロックだなあ」と感じたようで、フランスのロック歌謡をYÉYÉと呼んだらしい。私流に解釈すれば、程度の差はあるが、リズムを強調したシャンソンだ。日本でも「イエイエ」として、多少は知られている。レナウンのコマーシャルソング「わんさか娘」はシルビー・バルタンも歌ったが、ひどい歌なので、これは黒歴史だ。弘田三枝子との歌唱力の差が目立ちすぎるヘタな歌だ。ちなみに、この「わんさか娘」は作詞作曲が小林亜星で、出世作だ。

 シルビー・バルタンの魅力はここにある。彼女のほかに、あの時代、次のような歌手がいて、日本のラジオからフランス語の歌が流れていた。こういう歌手の歌だ。

 アダモ

 ミシェル・ポルナレフ

 ジェーン・パーキン

 フランスワーズ・アルディー

 クレモンティーヌ

 ダニエル・リカーリなど耳なじみの名がどんどん出てくる。名前だけでなく、その歌も知っている。

 フランス・ギャルやダニエル・ビダルといったアイドル歌手も登場した。

 数年前のことだ。ラジオの電源を入れたら、フレンチポップが流れていた。NHKFMが特集番組を放送していたのを途中から聞くことになったらしいとわかった。番組にはアナウンサーのほか、やたらにフレンチポップに詳しいおばちゃんが出演していた。関西弁ではないが、しゃべり方とその量とスピードは、「大阪のおばちゃん」だった。外国人のアクセントはあるが、達者すぎる日本語だった。フレンチポップにやたらに詳しいおばちゃんって、誰だ? そんな人は知らないぞと思いつつ番組を聞いていたらそのおばちゃんの正体がわかった。なんと、元美少女のダニエル・ビダル。腰を抜かしそうなほど驚いた。1980年に日本人と結婚(のち、離婚)して、日本で生活していたそうだが、私はまったく知らなかった。彼女がモロッコ出身だということも知らなかった。

 

 

 

2039話 続・経年変化 その5

音楽 5 なつかしい音楽 2 

 アメリカの歌の次によく耳にしていたのは、シャンソンだった。シャンソンは好きではないというより、苦手な部類に入る音楽ジャンルで、中村とうようが「大げさに歌うシャンソンが嫌いだ」というようなことを書いていて、「そうそう」と相づちを打った。いろいろな音楽を聞きたがる私だが、シャンソンとオペラのCDは買ったことがない。シャンソンは嫌いな音楽ジャンルなのに、なぜか歌手名をよく知っている。ラジオで聞いて覚えたようだが、名前と顔と歌が一致する歌手はそれほど多くない。思い出すままに名前を書き出すと・・・、

 イブ・モンタン

 エディット・ピアフ

 シャルル・トレネ

 モーリス・シュバリエ

 ダミア

 ジュリエット・グレコ

 イベット・ジロー

 まだまだいくらでもでてくるなあ、好きじゃないのに。日本のラジオでフランス語のまま放送されることは少なく、石井好子芦野宏高英男、丸山明宏(現美輪)らの歌で聞いた。その後の時代は、加藤登紀子や金子由香利、長谷川きよしやクミコなどがいる。シャンソンファンは、終戦直後の高校生や大学生で、だから私とは無縁だ。それなのに知っているのは、開高健(1930~89)のエッセイにシャンソンがよく出てくるし(例えば、ダミアの「暗い日曜日」)、永六輔(1933~2016)がシャンソンの大ファンで彼のラジオ番組でよく紹介されていたからだ。そして、「音楽がどこにでもあった」時代だから、テレビやラジオでもシャンソンを耳にした。

 「私の記憶では」という限定がつくが、1950年代から60年代前半あたりにもっともよく耳にした外国の音楽はもちろんアメリカ音楽で、50年代は日本語カバーがほとんどで、60年代に入るとオリジナルと日本盤の両方が放送されていた。

 1950年代から60年代前半はアメリカンポップスのカバー全盛期だった。その話は次回に比較的詳しく書くことにして、60年代なかば以降の話をしよう。

 ロカビリー、ツイストに浮かれてた青少年の心を一気につかんだのはベンチャーズだった。エレキギターが前面に出てくるエレキバンドの音楽が、若者の音楽趣味を握りしめた。”Walk don’t run”は1960年発売で、日本でもじわじわ人気が集まり、大人気になるのは60年代なかばだ。日本全土にエレキバンドを生んだ現象を考えると、その影響力はビートルズ以上と言ってもいいかもしれない。この時代、加山雄三の時代でもあり、映画「若大将」シリーズの時代でもある。エレキの時代を反映して映画「エレキの若大将」(1965)もあり、中学校の同級生がこのシリーズに夢中になっていたのを覚えているが、、エレキバンドも加山雄三も、「あんな映画の、何がおもしろいんだ」と私は思っていたから、完全に無視していた。それなのに、ずっとあと、1990年代になって、日本人の海外旅行史研究の資料として、この「若大将」シリーズをほぼ全部見ることになった。映画としては、やはり「なんだかなあ」なのだが、旅行史研究の資料としてはピカ一だった。特に若大将シリーズは、日本人の海外旅行史と連動していて、サラリーマンのボーナスで外国に行くことができる時代が来ると、映画のなかでもOLの海外旅行が描かれる。

 ついでにいうと、海外旅行史のもうひとつ重要な資料が、石原裕次郎の映画だった。荒唐無稽なようで、ある程度理屈に合った筋にしている。日活はヌーベルバーグの影響を受けた作品があり、バックにジャズが流れている映画があり、「憧れのパリ」を描く作品もあり、異国憧憬研究者にとっては、資料の宝庫だ。

 この文章に手を入れている今、ラジオからいしだあゆみの歌が流れている。低音で歌う曲がいい。西田佐知子、日吉ミミ北原ミレイなどと同じ系列の歌い方をする。歌謡曲の黄金時代だな。

 

 

2038話 続・経年変化 その4

音楽 4 なつかしい音楽 1

 一般的な話だが、生涯でもっともよく音楽を聞き、音楽に関心を持つのは中高校生時代だという説がある。人によっては10代だという説もあり、「中学入学から10年」という人もいる。英語のティーンエイジ(13歳から19歳まで)という説もあるが、だいたいその時代ということだ。家族構成によってそれぞれの音楽生活には違いがあり、兄姉がいるとやや早熟になって年上の人と音楽体験が重なることもある。親の影響もある。知人の場合だと、父親が大学時代バンドをやっていて、その影響で小学生時代から楽器をいじり、後にプロのミュージシャンになったというという例もある。

 少年少女時代に聞いた音楽が、生涯の愛唱歌になったり、その歌手やバンドとその後もファンを続けることになる。10代に出会った音楽と生涯つきあうことになる。中高年になると「懐かしの歌」になる場合もある。

 私と同世代の人たちの音楽生活はどのようなものだったか。幼児期から小学校低学年時代は、聞こえてくる音楽を聞いていたにすぎない。美空ひばり三波春夫などの歌が耳に入ってきた。テレビやラジオから「懐かしの歌謡曲」番組では、戦前・戦中期や終戦直後のヒット曲も流れていた。私が生まれる前の次のような歌も、戦後生まれの私でも知っている。

 酒は涙か溜息か(藤山一郎

 赤城の子守唄(東海林太郎

 丘を越えて藤山一郎

 二人は若い(ディック・ミネ

 誰か故郷を想わざる(霧島昇

 支那の夜(渡辺はま子

 こうして、書き出せばきりがない。1952年生まれの私の歴史は1950年代後半から記憶が始まるのだが、その当時の大人は戦前戦中期から記憶が繋がっている。そういう時代だから、戦後生まれの少年でも、戦前期の歌を耳にし、記憶に残っていたのだ。

 1950年代後半から60年代にかけての音楽事情は、戦前からの歌謡曲とともに、外国の音楽も入っていた。戦前から1950年代あたりまで使われた「ジャズ」は、本来のジャズに加えて、アメリカのポピュラー音楽も「ジャズ」と呼んでいた。ジャズを歌う歌手で、当時、ジャズに興味のない人でも顔と名前を知られていたのは、江利チエミペギー葉山、そして旗照夫くらいだろうか。

 カントリーは大学生の間でちょっと流行っただけだろう。テレビで見る機会があったのは、ジミー時田、寺本圭一、小坂一也くらいだろうか。クレージーキャッツはジャズバンド、ドリフターズはカントリーバンドだった。

 ハワイアンは日本人移民との関係があるので、バッキー白片など戦前から日本で活躍し、戦後も大橋節夫とハニー・アイランダース、エセル中田、などの名に記憶があり、日野てる子は「夏の日の思い出」(1964)のヒット曲を覚えているし、ちょっと好きだった。

 1950年代から60年代、大学にジャズやハワイバンドがあり、コンサートが開かれていた。ラジオでは、「大学対抗バンド合戦」を放送していた。早稲田のジャズコンサートで司会をしていた早稲田の学生が大橋巨泉であり、早稲田大学のジャズバンドの司会をしていたのが、タモリだ。ハワイアンバンドはビアホールで大いに稼いだという時代だ。

 

 

2037話 続・経年変化 その3

音楽 3 ムード歌謡とムード・ミュージック

 ふたたび、CDの大全集の話を続ける。

 ある日、「懐かしのムード歌謡」のCD大全集の広告を見つけた。ムード歌謡はキャバレーやカラオケでのデュエットというイメージがあり、苦手だと感じていたのだが、そうでもないらしい。例えば今、ネットで「永遠のムード・コーラス」(CD5枚組)を見てみたら、全90曲のうち、歌を知っているのは3割ほどしかないが、グループ名の8割以上は知っている。こんなに知っているとは思わなかった。テレビで歌謡コーラスを見たときは、長いドレスや揃いのスーツというスタイルのキャバレーやナイトクラブを意識して嫌っていたのだが、ラジオで聞いているうちに魅力がわかってきた。これは経年変化だ。

 私は、いわゆる洋楽好きだから、演歌よりも歌謡コーラスの方にまだなじみがあったのだ。。

 もともとキャバレーなどで、専属バンドとして演奏していたジャズやハワイアンやラテンのバンドで、歌手の伴奏もやっていた人たちがレコードデビューしたのが、歌謡コーラス・グループだ。例えば、内山田洋とクール・ファイブはジャズやラテンのバンドで、「ワッワッワッワ~」というバックコーラスはドゥワップだ。黒沢明ロス・プリモススペイン語で「いとこたち」の意味だが、いとこ同士ではないらしい)はその名でわかるように、ラテンバンドだ。和田弘とマヒナスターズはハワイアン(マヒナはハワイ語で月)だ。だから、コブシを回す演歌ではなく、外国の音楽の香りがするムードコーラスにちょっと魅力を感じたのかもしれない。

 ただし、ムード歌謡が大好きというわけではないから、ユーチューブで聞いても、CDを買い集めることはない。ムード歌謡の世界に一歩踏み出せないのは、歌詞の世界とキラキラ光る衣装と、ファルセット(裏声)のせいかもしれない。フォーシーズンズとか、テンプテーションズのようなポップさを求めてもしょうがないのだが、バンドのメンバーたちは、実は洋楽をやりたかったのではないか。志村けんは、ブラックミュージックの大ファンだった。歌謡曲をやりたくて、ギターやピアノやドラムを習った人は多くないだろう。

 ムード歌謡のCDは1枚も買っていないが、ムード音楽のCDはかなり買っている。ムード音楽はのちに「イージーリスニング」と呼ばれるようになり、多くは演奏だけで歌はない。私が買ったことがあるのは、マントバーニ、フランク・プールセル、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、ビリー・ボーン、バート・バカラックミシェル・ルグランなど数多い。

 若い時は、ムード音楽を積極的に聞くことはないと思っていたが、考えてみれば、小学生時代から映画のサウンドトラックが好きだから、実はイージーリスニングに親しみを感じていたのだろう。1960年代から70年代には、ラジオの洋楽ベスト番組には、必ずといっていいほど映画音楽がランキングしていた。「いそしぎ」とか「エデンの東」だの、「帰らざる河」、「ララのテーマ」(ドクトル・ジバゴ)など名曲の名を挙げるときりがない。寒い季節もスキーも大嫌いなのに、「白い恋人たち」(フランシス・レイ)を聞くと、暖かい気分になる。この映画も好きだ。十数年前までは、冬になると毎年ラジオから流れていた。夏なら「夏の日の恋」(パーシー・フェイス)や「浪路はるかに」(ビリー・ボーン)などを毎年耳にして、いつの間には曲名を覚えた。それ以後、何回聞いても耳タコにならない。10代から20代に、文化放送の「S盤アワー」(1952~69)やFM放送で「ジェット・ストリーム」(1967~現在)をよく聞いていたから、この番組でいつも放送しているムード音楽(BGM)に親しみを感じているのだろう。経年変化という話題に沿うと、ムード音楽は、少年時代は「あまり気にならない音楽」から、「なんとなくいい」に変わり、中年以降は「なかなかいい」に変わっている。「映画音楽大全集」は何セットか買っている。

 もし、大好きな映画音楽トップ10を選ぶなら、確実に入りそうなのは「ひまわり」(ヘンリー・マンシーニ)と「おもいでの夏」(ミシェル・ルグラン)だな。もちろん、音楽だけじゃなく、映画そのものも大好きだ。