380話 1934(昭和9)年の日本の西洋料理

 このふた月ほど、スパゲティー関連の資料を集中して読んでいる。スパゲティーというありふれた食べ物なのに、じつは資料といえる本はほとんどない。作り方の本やムックならいくらでもあるが、その歴史を書いた本はない。パスタの本ならあるが、その本でもスパゲティーのこととなると、著者のペンはとたんに鈍る。
 だから、本筋の資料はないので傍流の資料を図書館とアマゾンで探し、アマゾン便が新聞のように毎日届き、すぐさま読み飛ばしている。
 スパゲティーの資料といえば、スパゲティーナポリタン誕生話には必ず出てくる横浜のホテルニューグランド終戦後にアメリカ軍の将兵が食べていたトマトソースのスパゲティーにヒントを得た2代目料理長が考案したという説が語られることが多い。このホテルのホームページなどでもそういう情報が載っている。しかし、ナポリタン研究者にはすでに有名な情報なのだが、『古川ロッパ昭和日記』では、昭和9年に、日本橋三越でスパゲティーナポリタンを食べたという記述がある。どういう料理かわからないが、同じ時代に「マカロニ・ナポリタン」という料理も日記に登場する。
 日本橋三越の食堂の資料はまだ探せないので、ホテルニューグランドの資料を読んでみることにした。ロッパはたびたび「ニューグランドで食事」と日記に書いているのだが、その内容がどうにも気にかかる。日比谷の東宝本社に行き、幹部といっしょにニューグランドで食事をして、そのあと舞台に出るといった文章があるのだが、昼間、日比谷で会って、わざわざ横浜まで出掛けるか? 交通の便利な現在でもこれは、あまり現実的ではない。ということは、銀座あたりにも、ホテルニューグランドがあったということか。後から思えば、ここですぐにインターネット検索をすれば、すぐに答えがわかったのだが、正攻法で、書籍でホテルニューグランドの歴史を調べ始めたので、えらく遠回りしてしまったので、正解がすぐにはわからなかった。
 インターネットで調べると、すぐに解答が見つかった。横浜のホテルニューグランドの支店として、1934(昭和9)年に数寄屋橋マツダビル8階に「レストラン・ニューグランド東京」が開店しているのだ。スイス人の総料理長サリー・ワイルが、横浜店と掛け持ちで面倒を見ていた店だから、かなり本格的はフランス料理店だったようだ。
 マツダビルとは、現在のどのあたりにあったのか調べてみれば、のちの東芝ビル、現在は東急不動産の手に渡り、モザイク銀座阪急が入っている場所にあったビルで、その外観もネットですぐにわかった。次の他、画像は多くある。
 http://ameblo.jp/axolotl/entry-10047665021.html
 同じ昭和9年のロッパの日記に、日本橋三越にスパゲティーナポリタンがあったという文章があったわけだが、それ以前の日記は残っていないので、9年以前にもナポリタンがあったのかどうかはわからない。この日本橋三越で、1930(昭和5)年に「御子様洋食」を出している。写真で見ると、皿に盛られた料理のひとつが、スパゲティーだ。当時の白黒写真ではよくわからないが、復元された料理写真では、赤いスパゲティーナポリタンが盛られたことがわかっている。この御子様洋食が、お子様ランチの起源だというのが、あたかも常識のようにウィキペディアで語られているが、1929(昭和4)年に発行された食べ歩きガイドに、東京の「エスキーモ」というレストランに、「子供ランチ」があったことを私は確認している。スパゲティーナポリタンも、お子様ランチにしても、ウィキペディアをそのまま信用してはいけない。
 さて、同じ時代、関西のイタリア料理はどうだったのか。1928(昭和3)年に大阪で開店した西洋料理「アラスカ」では、1930年に社長がイタリアに行き、イタリア人コックを日本に連れてきている。そのせいだろうが、メニューに「スパゲティ・ポロネーズ」や「スパゲティ・バジリコ」といった料理が登場している。
 ロッパの日記を読んでいると、1930年前後の東京や大阪の外食事情は、70年代の日本の地方都市よりも、西洋化していたのだとよくわかる。