最近の読書 2
須賀敦子の単行本未収録のエッセイを集めた『霧の向こうに住みたい』河出書房新社、2003、河出文庫2014)に洗濯の話が出てきた。ドイツでは洗濯物を煮るという話を2032話で書いた。イタリアの例がこの本にある。
1960年代に、著者の姑が「大洗濯の日」という習慣があったという話をしてくれた。著者の夫はイタリア人だ。
「田舎じゃあ、と彼女は言った。春になると一年に一回の<大洗濯の日>っていうのがあってねえ。一年に一回、朝早くから大鍋で洗濯物を煮るのよ。シーツやら、テーブル掛け、ナプキンも何もかも、前日から灰を入れた水に行けておいたのを、ぐつぐつ煮る」
洗濯を終えると、牧草に布を広げて干すという話に続く。これがイタリアの話だが、フランスにも同じ習慣があって、「フランスの作家マルグリット・ユルスナールの自伝を読んでいたら・・・」と話が広がっていく。ヤマザキマリと須賀敦子の文章はまったく違うが、ふたりとも「うまいなあ」と感心する。こういう見事な文章で綴られれば、どこの国の話でも、おもしろく読むことができる。
内田洋子の『十二章のイタリア』(東京創元社、2021)を買ってあるのだが、韓国の本を先に読んだので、後回しになっている。先に読むことにしたのは『朝鮮半島の食』(守屋亜紀子編著、平凡社、2024)だが、この本の紹介は長くなるので、別の機会にする予定(忘れなければ・・・)。しばらく後でこの2冊に触れる予定。
今回は、1554話から5回にわたってすでに紹介した『きょうの肴は場に食べよう』(クォン・ヨソン著、丁海玉訳、KADOKAWA、2020)に、きちんと紹介したい記述があるので改めてここで書く。
「私は汁ものには目がない」と、汁ものへの愛を展開する章で、こう書く。
「わたしは汁を口にする時はほとんどさじですくわない。熱かろうが冷たかろうが、みっともなくても器ごと持ち上げて飲んだり卓上でお玉ですくってたべるのが好きだ」
すでに紹介した本をまた取り上げたいと思たのは、ここ数か月に見た韓国の連続ドラマや映画で、韓国通を自任している方々が「韓国ではこういう食べ方はしません」と断言する食べ方、食器を手に持って食べているシーンが何度も出てきたからだ。このコラムでは、韓国人だって器を手に持って食べますよという話をくどいほど何度もしているのだが、私の主張などナノレベルの影響力もない。世に、韓国ドラマファンはいくらでもいるが、韓国人はどうやって食事をしているのかという点に、ほとんど興味がないようだ。何人かで鍋のラーメンを食べるシーンは毎度おなじみだが、器を持たずにどうやって鍋からラーメンを食べるのか考えてみるといい。丼に入った麺類、皿のジャジャンミョンの最期は、器を持ち上げて、唇を器につけて、最後の麺や汁を口に入れる。
箸はおかずに、サジは汁とご飯に、それぞれ役割があると説明する人が多いが、食事には流れがある。箸でキムチを食べる。次に飯をひと口・・・というとき、箸を置いてサジに持ち代えて・・・、おかずにはまた箸に持ち代えて・・・なんて、めんどう臭いことをいちいちしない。汁を飲むとき以外サジは使わないときもあれば、汁をいっぱい、一気に飲みたくて、器を持ち上げてぐいぐい飲むこともある。ドラマではなく、食文化を取り上げた韓国のテレビ番組で、丼を両手で持って一気に汁を飲み、「うまいねえ。汁は、こうして一気飲みだよね」と、出演者が口々に言うシーンも覚えている。
韓国文化に影響力のある人が、食事のマナーと現実の食べ方には違いがありますよという話をきちんとしてくれたらなあと、影響力皆無のライターは願っているのですよ。
先日、韓国の弁当業者の仕込みのようすをYouTubeで見ていたら、ユブチョパプ(いなり寿司)の飯に酢を入れていた(なんと、サンドイッチといなり寿司の詰め合わせ弁当だ)。キムパップ(海苔巻き)は酢飯にしないのが普通のようだが(明洞のある食堂はキムパップに酢を入れるという情報アリ。珍しい例らしい)、いなり寿司は違うらしい。日本に大勢いる韓国料理ライターたちは、そういう料理文化を伝えてくれているだろうか。
*タイムラグがあって、内田洋子の『イタリア十二章』を読了。合格点の作品。イタリア語を学び始めた大学生時代の話が興味深い。だが、「次はどの本を買おう」とならないのは、私がイタリアそのものに思い入れがあまりないからだろう。
次回から、また「続・経年変化』の話を再開し、適宜、小休止をはさむことにする。