2063話 続・経年変化 その29

読書5 図書館4

 海外旅行が自由化された1964年当時の生の情報に接したくて、新聞記事をマイクロフィルムで読むことにした。後の時代なら、新聞は縮刷版があるのだが、60年代だとマイクロフィルだ。今なら、新聞社のデータベースを利用すれば、自宅(有料)か図書館(無料)で、過去の記事が読める。

 後の時代に編集した資料ではなく、その当時の資料は当たり前だが「活きがいい」。よく言われる話で、大掃除や引っ越しの時に、古新聞を見つけるとついつい読んでしまうという話題があるが、まさにそうで、図書館で古い記事を読んでいるのが楽しくて、「1964年の海外旅行」というテーマを離れて、事件報道でもマンガでも広告でも、何でも読みふけり、65年も66年の新聞も読むことになり、毎日図書館に通った。

 私が知りたかったのは、「目に見えぬ外国」と接する時代から、「現実に身を置く外国」へと変わっていく日本人の姿だ。だから、映画の広告も新聞のラジオ・テレビ欄を見ても、その資料はあった。外国の音楽の紹介番組や外国語講座でも、私のアンテナにひっかかった。このテーマは、のちに『異国憧憬』JTB)というタイトルで本になった。

 海外旅行が自由化された1964年前後という時代に私は生きていたのだが、まだ子供で世間を知らない。だから戦後史関連の資料を買い集めて読んでいたのだが、なんだかよくわからないのだ。現実感というものが、わからない。いわゆる隔靴掻痒(かっかそうよう、靴の上から足を掻く)である。それが、新聞を読んで少しはわかってきた。例えば、広告欄だ。

 求人欄を見ると、日産自動車の工員募集が出ている。「日給500円」。1964年に日給500円というのは、企業が自慢できる金額だということだ。中小弱小企業なら「当社規定により優遇」と書いて、具体的な金額は明記しない。当時はまだ土曜日は半休だったが、おそらく残業などがあっただろうから、実際の月給(日給月給)は500円×25日で、額面1万2500円。税金などいろいろ引かれて、手取りは1万円残るかどうかだろう。当時の若い労働者はその程度かそれ以下の生活だったとわかる。ちなみに、1964年の巡査の初任給は1万8000円、小学校教員の初任給は1万6200円だが、私は中卒高卒の若者を想像して、その懐具合を調べてみた。当時は、そういう若者がほとんどだったからだ。

 ちなみに、私が高校生だった1970年に書店でアルバイトをしたことがあるが、時給120円だった。交通費込みで、日給が1000円の時代に入ったとわかる。その当時、発掘のアルバイトもした。日給を覚えていないが、多分1000円弱だったと思う。

 所得水準を表す資料で、「銀行の大卒初任給」を例にする人が多いが、その当時大卒者がどれだけいたか考えていない。大卒者でも、「小学校教員の初任給」の方が、まだ現実的だが、大卒銀行員でも、海外旅行は夢のまた夢だったのだが、彼らには出張や駐在員という形で、外国に行く機会は、わずかばかりではあってもその可能性はあった。

 月に1万円ほどの賃金を得ている若者が夢想する「海外旅行」とはどういうものなのか、航空運賃などを調べて、その絶望感を想像するのである。当時のハワイツアー10日間は40万円ほどだ。手取り月給1万円の若者の40か月分だ。現在の手取り月給を20万円と仮定すると、その40か月分、つまり800万円だ。その絶望感を理解しないと、海外旅行史はわからない。

 不動産広告もおもしろかったので、コピーした。1964年の宅地広告だ。

 四谷3丁目 坪16万円

 牛込柳町 坪16万円

 武蔵境 徒歩12分 坪3万3000円

 横浜市上大岡 徒歩10分 坪1万9000円

 『地球の歩き方』が出版され、大学生たちが外国に行くようになる1980年代前半のアルバイトの時給は500円くらいだった。そろそろ定年を迎えるサラリーマンの大学生時代のアルバイト時給がそのくらいだった。40年でやっと倍だ。

 昔の新聞をていねいに読んでいると、鹿島茂の文章を思い出した。

 フランスのことを学び、論文を書くことについて、鹿島茂は『歴史の風 書物の凪』(小学館文庫)で、次のように書いている。

 「おれには暴力団の知り合いがいるぞ」といきがるのと同じレベルで、「フーコーが、デリダが、ドゥルーズが」と言うためだけにお勉強するんだったら、一九世紀の新聞でも読んでいたほうが、どれだけましかわからない。

 そうなのだ。学者の名前が出てくるだけの論文につきあうよりも、昔の新聞を読んでいた方が、「その時代の臨場感」が伝わってくるのだ。それがわかってない自称研究者が書いた読書ノートのような文章を「論文」と詐称しているのに、それを御愛想で評価する研究者が少なくない。