1028話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その19

 やむなく、続編を書くことに・・・  その1


 私のインド話は前回で最終回にして、これで身も心もさっぱりして、新しい生活が始まるはずだったのに、なんてこった。
 最終回のブログ原稿をアップして、「さて、自由に読書だ」と、机の脇に積んだ本の山に挑んだ。本は未読と既読が混じりあっているから、整理を兼ねて未読本を脇にどけていったら、下のほうに『僕は旅で生まれかわる』(立松和平PHP研究所、1993)があった。日本の若者の海外旅行史の資料になるかもしれないと思い、内容もわからず注文した本だ。
 立松の旅行エッセイを読んだことはあるが、感心も感動もなく、教えられることもなく、だからこの本が自宅に届いても、封を切っただけで、そのまま本の山に積んでいたのを発掘したというわけだ。
 せっかく買ったのだから、ちょっとでも目を通しておこうとページをめくったら、「カルカッタ」、「モダン・ロッジ」の文字が見えた。1972年の思い出話か。インド話はやっと終わらせたのに、そのとたんに、これだ。ああ、インドの亡霊が私の肩に手をかけて、「もう少し書け」と命じている。どうやら、続編を書かなければいけなくなりそうだ。
 立松和平(1947〜2010)の最初の海外旅行は、韓国だった。はっきりした年はわからないが、大学生だった1960年代後半だろう。東京から夜行列車を乗り継いで下関に行き、関釜フェリーで韓国に渡った。この時の旅がまとまった旅行記になっているのかどうかわからない。
そして、次の旅だ。
 「私にとって最初の東南アジアはタイだった。フランス郵船のラオス号に乗り、横浜から出帆した」
 「横浜からタイまでの旅費は、エコノミークラスで百ドルだった。三万六千円、ちょうど大学新卒の初任給ほどであった」
 銀行の大卒初任給を調べてみると、1969年は3万3500円、1970年は3万9000円だ。この時代、立松は早稲田の学生だから、「大卒初任給」と比較したのだろうが、高卒初任給なら、3万円になるかどうかというところだろう。
 「横浜からバンコクまでは、途中香港に丸一日停泊して、一週間かかる」このフランス船の航海は、これが最後だった。立松の旅がいつなのか明記していないが、フランス郵船の極東航路は1969年9月に廃止されたので、おそらく、立松の旅は1969年ということだろう。
 フランス郵船を、当時の旅行者はMMと呼んでいた。Messageries Maritimes(メサジュリ・マリティム)の頭文字を取った略称だ。ヨーロッパ、特にフランスに向かう留学生がよく利用していた。1960年代末になると、シベリア鉄道経由でヨーロッパに向かうルートが人気になった。1967年の料金の差を書いておく。参考資料は、『世界旅行あなたの番』(蜷川譲、二見書房、1967)。
 横浜→シベリア鉄道ヘルシンキ  9万0000円
 横浜→シベリア鉄道→ウィーン   11万5000円
 横浜→フランス郵船→マルセイユ 15万4216円
 私の想像だが、自費旅行者は旅費の安いシベリアルートを使い、公費留学生など旅費が支給される者は、船でフランスなどに向かったのだろうと推測できる。立松の前年にMMでフランスに向かった東大生が、奨学金を得た玉村豊男である。実は、以前から「MMと日本人」といったテーマに興味があって、いまその資料を注文しているところだが、そういう資料を読み始めるとこのコラムがまた長くなるので、本が届く前にこの文章を終わらせよう。
 MMの話をもう少しする。参考資料は、次回に紹介する『カンボジア号幻影』。この船会社は、フランス本国とその植民地を結ぶ郵便船として就航したようだ。だから、「極東航路」(エクストレム・オリエン)に就航していたのが、ベトナム号、カンボジアそしてラオス号という名の三隻だったというわけだ。フランス船なのに、フランスと関係のないタイやシンガポールに寄港したのは、1967年にインドシナ半島の紛争が激化して、旧植民地に近寄れなくなったからだ。1969年に極東航路を廃止したのは、中東紛争でスエズ運河を航行できなくなり、喜望峰経由では運賃の点で飛行機には勝てなくなったからだ。
 船であれ飛行機であれ、航路は政治的なものだから、調べていけばいろいろな歴史が見えてくる。