海外旅行の自由化以前
蔵前仁一さんは「旅行人編集長のーと」で、萩尾望都、竹宮惠子、山岸涼子、増山法恵の4人が、1972年に、ソ連船に乗り、シベリア鉄道経由でヨーロッパに行った旅に関するあれこれを全5回にわたって書いている。私は旅行史、とくに若者の旅行史に強い興味があるのだが、同好の士はほとんどいない。旅行社から見たツアーの歴史を書く人はいるが、ツアー旅行者よりも個人旅行者の方が多くなった現在でも、個人旅行者の歴史を書いた人はほとんどいない。これから書こうとしているのは、1970年前後の日本の海外旅行事情だ。残念ながら、旅行好きという人さえ興味を抱かない話題だということはわかっているが、なにかの参考になるかもしれないので、書き残しておこう。当時を知らない人にはわかりにくいテーマなので、意識的に何度か同じは何度か繰り返す。思いつくままに書いていくから、のらりくらり行きつ戻りつの文章になるだろうと予測できるが、重複を気にせずに書いていくことにしよう。
戦後日本の旅行史は、いままで何度も書いているテーマだが、今回は1972年以前の旅行事情を書いてみようと思う。私が初めて外国に出たのは1973年だから、1970年代初めから海外旅行の資料を少しずつ集めている。のちにわかったことだが、1970年代前半に、日本人の海外旅行事情に大きな変化が起きていたのだ。
蔵前さんのコラムで触れた『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦、白陵社、1969)はすでに手に入れているが、その本の話は後回しにして、まずは交通史の流れを簡単に書いておこう。
1964年4月に、海外旅行が自由化された。それまでは日本政府の許可がなければ外国に出られなかったのだが、1964年から年1回に限り、どこへでも自由に出かけていいということになり、すぐに「何回でも」と回数制限がなくなった。
海外観光旅行がまだ解禁になっていない1964年以前でも、カネやコネがある人は、海外旅行ができた。石原裕次郎は建設会社の社員という書類をでっち上げて、業務渡航という形で外国に行ったというのは玉置弘がテレビで語った話。本名で仕事をしていて、日本中に知れ渡った顔だが、役所仕事は書類さえ整っていれば問題ないし、強大なコネがあればなんでもできるということだ。その石原を取材しようと、雑誌「平凡」は、リコーの社員が海外出張するという書類をでっち上げようとしたが、時間切れで同行取材はかなわなかったと、当時の編集長が思い出話を書いている。石坂浩二は最近のテレビ番組で、自由化以前に形ばかりの「業務渡航」という書類を作り、外国に行ったという話をしていた。
1964年の海外旅行自由化以降は、コネなどなくても、「業務渡航」を偽装しなくても、堂々と「観光目的」で渡航できるようになった。コネは要らなくなったがカネは必要で、若者たちはカネを稼ぐ方法と安く旅行する方法を探した。
自由化直後に日本を出た植村直己は、大学時代に建設作業で作った10万円のほとんどを使って、移民船に乗って太平洋を渡りカリフォルニアに向かった。飛行機はまだ高かったのだ。小田実はフルブライト留学生として、1958年にアメリカに渡ったのだが、船ではなく飛行機だった。小田以前は船を使っていたらしいが、アメリカの機関が費用を負担する渡航の場合、移民船ではない普通の客船と飛行機の運賃は、小田の時代に逆転し始めたのかもしれない。船の運賃は客室の等級によって大きく変わるから、資料を突き合わせてあれこれ言うのは簡単ではない。
1969年ごろの交通事情は、『若い人の海外旅行』(紅山雪夫、白陵社、1969)の「船と飛行機とどちらが安いか」という章にこうある。
「これは一概には言えない。ある地域へ行く時は船の最低クラスの方が飛行機より安く、またある地域では船の最低クラスでも飛行機より高いということがある。今のところ韓国、東南アジア、ニューギニア方面に行くには船の方が安い。ハワイ、アメリカ方面に行くには飛行機のチャーター(貸し切り)がもっとも安く、普通の定期便の飛行機と船とでほぼ同じである。中近東、欧州、アフリカに行くには、ナホトカ航路とソ連の鉄道、国内航空を使うのがもっとも安上がりだ」
次の記述が、さらに興味深い。
「これまで中近東方面を目指す多くの若い人が、フランス郵船の三等でコロンボまで行き、そこから連絡船でインドに渡り、鉄道とバスを乗り継いでイスタンブールあたりまで行ったものだが、残念ながらフランス郵船は1969年9月限りで東洋への航路を全廃してしまった」
フランス郵船は、旅行者の間ではMMと呼んでいた。それがMessageries Maritimes(メサジェリ・マリティム 郵便海運)の略だということを私は知らなかったが、安くヨーロッパに行くことができる船だということは知っていた。旅先で「MMで、ヨーロッパに行ったときは・・」と話す30過ぎの男たちの口ぶりが、20代の私にはちょっとうらやましかった。私の記憶では、この本にあるように、ヨーロッパをめざしていた若者は、インドから陸路というルートではなく、ヨーロッパまでそのまま乗っていくという人の方が多かったと思う。
確かな記憶ではないが、玉村豊男はMM最後の時代に「船で渡仏」したのではなかったか。フランスに向かう途中、船はベトナムに立ち寄り、生まれて初めてベトナム料理を食べたという話を玉村さんから聞いた記憶がある。
MMがなくなった1970年に、日本からフランスに船で行ったという旅行者に会ったことがあるから、貨客船などをこまめに探して船長や船会社と直接交渉すれば比較的安くヨーロッパに行くことができた時代がもう少し続いたようだ。