1519話 本の話 第4回

 

 『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 1

 

 語り下ろしのこの新書は、筆者の知の獲得史だが、ここにも1960年代の海外旅行の話が出てくるので、まずはそこから始めよう。

 1959年に東京大学に入学した立花隆は、「当時の若者たちが誰でもそうだったように、僕もまた、とにかく一度でいいから外国へ行きたくてたまらなかった。しかし60年当時、そもそも一般の人は外国へ行けなかったし、パスポートを取ることすらできなかった。取れたとしても外貨を入手できない。飛行機も船もチケットは全部外貨でしか買えなかったから、必然的に日本人は外国へ行けなかったのです」

 まず事実関係の訂正をしておくと、パスポートが取れても外貨を入手できないのではなく、外貨に両替する許可が出ないと、パスポートの申請ができないのだ。パスポートだけ先に入手しておくことはできない。こう書くと、「前に使ったパスポートがあるじゃないか」と思う人がいるだろうが、当時はまだ数次旅券はない。一度使うと帰国時に無効になる一次旅券の時代だ。飛行機代も船賃も外貨で支払わなければいけないというのも、誤り。日本円で支払えるから、あとで書くように航空運賃が日本円で表示されているのだ。

 海外旅行が自由化された1964年以前に外国に行きたいと思っていた若者は、学力優秀であれば奨学金を受けて留学するという手段があった。体力自慢なら、スポーツの国際大会に出場するとか、登山隊に参加するという手段がある。体力と学力の両方があれば、探検隊に参加するという手段もあった。カネとコネがあれば、それを利用して渡航できる。カネもコネもない若者は、移民や船員という道を探す。変化球では、外国人と結婚して日本を出るという手段もある。

 詳しいいきさつは後で書くが、立花は大学2年になる直前の1960年に、日本を出た。

 上に引用した立花の文章を読んでいてふと思いついたのは、東大生の日本脱出というテーマだった。

 1932年生まれの小田実は、東大の大学院在学中の1958年に、フルブライト留学生としてアメリカに渡った。帰国したのは、立花がヨーロッパに旅立った2か月後の1960年4月だった。小田の旅行記『何でも見てやろう』が出版されたのは1961年だから、「外国に行こう」といろいろ画策していた立花は、当然ながらまだその旅行記を手にしていない。

 東京大学文学部の学生玉村豊男は、奨学金を得て1968年にフランスに留学し、70年に帰国した。名作『パリ 旅の雑学ノート』(ダイヤモンド社)が世に出たのは、1977年32歳の時だった。

 奨学金を得て留学するなら、海外旅行の自由化以前でも以後でも、手続き上も経済的にも問題はない。外国に行きたいと切望する東大生なら、留学を考える者は少なくなかっただろうし、卒業後に外交官になるとか商社や新聞社などに就職して外国に行けるチャンスを探す者もいただろうが、立花はほかの手段を選んだ。

 「そういう時代に、僕たちのような貧乏学生がヨーロッパ旅行を計画するなど、ほとんど実現可能性のない、夢のような話だったんです」

 「そこで思いついた計画が、原爆関係の映画を上映しながらヨーロッパの各地を転々とするというものです。現地のいろんな団体と一緒に、核兵器反対のための集会を開いて、そこで日本から持って行った映画を上映する。そのかわりに、滞在中の宿や食事、次の上映地への移動などすべて現地の人たちに面倒をみてもらおうという、ほとんど無銭旅行に近い形の旅でした」