『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』
『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』(書籍情報社、2004)が、2020年にちくま文庫に入った。文庫版は「大幅加筆訂正」はないだろうと推察して、内容の点検はしていない。だから、ここでは書籍情報社版で話を進める。
もし、私が旅をテーマにアンソロジーを編むなら、この本から何行か抜き出すだろう。ただし、それは私が立花の考えに共鳴しているからではない。こういう考えもあるという紹介だ。
━━基本的には無目的の旅(いわゆる漂泊の旅、風雅の旅)に出ようとは思わない。私の旅は、基本的には当座の目的を持った旅だし、無用の危険を避け、ある程度の安全ネット(少なくとも無事に帰りつけるくらいの路銀は常に用意しておく)を必ず張っておいてから出かける旅である。
しかし、だからといって、安全ネットだらけの、完璧にセットアップされた旅はもっとしたいとは思わない。21ページ
━━なぜものを書くことを職業にしていながら、字にしていない旅がそんなに多いのかというと、どの旅も、書くとなったら、書くことが多すぎて、まとめきれないと思うから、そもそも書くことに着手していないのである。70ページ
前川の注。探検作家角幡唯介は、旅は文章を書くためにするのだから、書かないなら旅をしないと、高野秀行との対談『地図のない場所で眠りたい』で語っている。私はと言えば、旅が楽しいから旅をしているだけだ。収入とつながらないブログに旅の話を書いているのは、書くことにすると、旅行の前・中・後にわたって旅行地の資料を読むという読書時間もまた楽しいからだ。ブログで旅の話を書かなくても旅はするが、読書量は確実に減るだろう。旅するちょっと前までほとんど知らなかった地域の資料を、ひと山もふた山も読むことはないだろうという意味だ。旅は、読書の動機を与えてくれる。
━━人生の大きな切れ目ごとに旅から旅への日々を続けてきた私は、その旅を利用して、最大限の自己教育というか自己学習をやってきたのだと思う。これまで外部に語ることの少なかった旅ほど、私の内部的自己形成に役立ってきたのだと思っている。60ページ
━━旅の本来的な目的が日常性からの脱出にあるとするなら、旅のパターン化(日常性化)などというものは最悪の退行現象といえるだろう。73ページ
━━旅のパターン化は旅の自殺である。74ページ
前川が異論をはさむ。旅の本来の目的など個人それぞれなのだから、退行も進行もない。外国に行っても、パソコンやスマホで日本のテレビドラマやニュースを見て、ゲームをやっているというのは「どーかネ」とは思うが、その人がそれを楽しんでいるなら、他人がとやかく言うことではない。
インテリの旅行記には、異文化ショックの話はあまり出てこないが、立花の1960年の旅の話をした第8章「ヨーロッパ反核無銭旅行」には、こんなエピソードを語っている。
「なにか困ったことはあったか」という質問に、洋式トイレの使い方がよくわからなかったことと、「ガウン」だと答えている。出発前に読んだ渡航案内で「ガウンが必要」と書いてあったので、探して持って行ったが、使い方がわからなかったと話している。その渡航案内がどれかわからないが、『外国旅行案内』(日本交通公社、1956年改訂3版)を見ると、「服装」の項に「バスローブ」がある。
「バスローブ(浴衣)が1枚。船内あるいはホテルの室内に風呂がなく、室外に出るとき必要。また室内でも朝夕パジャマ上に着てくつろぐことができる」
「服装」の項の「バスローブ」の周辺を読むと、「ステテコは外国にない」とか「パジャマ代わりに浴衣を持って行ってもいいが、洗濯代が高くつく」といった記述がおもしろい。トイレや風呂の使い方の説明があるかと思って探したが、見つからない。飛行機の「洗面所・便所」の項に、こういう記述がある。
「男女別も大型機は明白に区別し、洗面所も別に設けてあることもあるが、必ずしも男女別があるとは限らない」
昔は、飛行機のトイレに男女の別があったらしい。まったく知らなかった。
おまけで、1956年版のインド旅行事情を見ると、1米ドルは4.67ルピー、1ルピーは75.60円。ツインルームのホテル代は、最高級で90ルピー(6800円)、高級で70ルピー(5300円)、「普通ホテル」に分類しているホテルが40ルピー(3000円)。ちなみに、1958年の東京・帝国ホテルのツインは3600円。
ある本を読み始めたら、「ついでに、これも」と関連書を読みたくなるクセがあり、『知の旅は終わらない』を読んでいて、『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』を再読し始めたのだが、その間に注文していた『ぼくらの頭脳の耐え方 必読の教養書400冊』(立花隆・佐藤優、文春新書、2009)が届いた。想像通り、立花が必読と推薦する教養書をまったく読んでいない。理系の本は読まないし、教養人であるための基礎学力書も読んでいないからだが、だからといって、どーということもない。私の好奇心は、「知の王道、保守本流の教養」から大きく外れた場所から歩き出したのだから、教養人ではない私を恥ずかしいとは思わない(だからダメなんだと言われれば、「はい、おっしゃるとおりです」と答えるしかない)。読書のほとんどの時間を使って、豆腐脳みその私が「並みの教養人」もどきになる努力をするくらいなら、好奇心のままに本を読み続ける「変なことを知りたがるライター」のままでいい。「無知も、ときには味方する」という例を、しばしば体験しているからだ。「立派な教養」がある人は、その教養が邪魔をして、物事の偏った一部しか見ることができないということがあるということだ。
立花隆の本の話は今回で終了するが、本の話はまだまだ続く。