330話 教養がないと困るのか  2/3

 いままで、教養の無いまま生きてきて、困ったことは何もない。だから、このまま無教養の人生を歩んで行くはずだったのに、ちょいとしたことがきっかけで、教養がないことで苦労することになってしまった。西洋世界に足を踏み入れてしまったからだ。
 ある日、旅行の歴史を調べてみたくなった。普通の旅行研究書だと、トーマス・クックの話から始めるのが常道で、すでに『観光の文化史』(中川浩一、筑摩書房、1985)や、『トマス・クック物語』(ピアーズ・ブレンドン、石井昭夫訳、中央公論社、1995)や、『トーマス・クックの旅』(本城靖久講談社現代新書、1996)などの基本文献は読んでいた。しかし、そういう団体旅行以前の旅も知りたくなる。『グランドツアー』(本城靖久中公新書、1983)は、出版時にすぐ読んだ。じつに興味深い内容で、教えられたことも多い。だから、当然ながら、グランドツアー以前の、中世の放浪職人や巡礼のことも知りたくなった。
 もう少し専門的な本を探すと、『ヨーロッパ世界と旅』(宮崎揚弘編、法政大学出版会、1997)と、その続編『続・ヨーロッパ世界と旅』(2001)まではなんとか読めるのだが、ヨーロッパの中世史や近現代史の素養がないから、論文の中で、例えば、ゲーテの『イタリア紀行』に触れていても、書名を知っているだけだから、「ああ、そうだったのか」と理解が深まることもない。ドイツ人やイギリス人にとってのギリシャやイタリアが意味するものがよくわからないと、彼らの旅の衝動もわからない。だから、文学史や美術史や音楽史も一通り頭に入れておかないと、西洋絵画における風景画の意味もわからない。
 というわけで、わからないことだらけで、わからない歴史用語をひとつひとつウィキペディアで調べてみるが、何度読んでも理解できない。「ロマン主義」をまるごと理解することなど、とうていできない。こうなると、教養の欠如が身にしてくる。旅行人関係者で言えば、蔵前仁一さんや田中真知さんほどの基礎学力や教養があれば、こんなことは屁でもなく理解して、次のステップに進めるだろうにと、我がキリギリス的読書を嘆いてみても始まらない。高校の世界史の教科書を編集しなおした『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009)や大学受験の参考書など、やさしく書いた世界史の本を買い集めて読んでいくのだが、こういうやさしい本では、例えばロマン主義についても簡単な説明しかなく、とてもじゃないが満足できる内容ではない。やさしく書いてある本だと「簡単すぎる」と文句を言い、詳しいと「理解できない」と言いたがるワガママな読者である。
 西洋美術史をちょっとかじってみておもしろかったのは、西洋では「描く価値のあるものしか、描かない」から、題材はキリスト教関連か王侯貴族の肖像画になるわけで、風景画の誕生はずっと遅くなる。一方、日本ではありとあらゆるものが絵の題材になるわけで、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926〜 )は、初めて浮世絵を見たとき、画題の自由さと平等さに感嘆して、たちまち魅了されたと、テレビのインタビューで語っていた。西洋と日本のそういう違いを、私は気がつかなかった。日本では、屏風絵などを除けば、絵の背景を塗らないのが普通だが、西洋では塗らないことなどありえないという歴史がある。布や板に描く地域と、紙に描く地域の違いではないだろうかなどと、素人が勝手に想像するのも楽しい。
 ワンダーフォーゲルユースホステル運動に関する文章は、すでにこのアジア雑語林(275〜280話)でちょっと触れたが、ユースホステルワンダーフォーゲルといった運動は、ドイツ現代史と密接な関係があり、遍歴職人や放浪学者となれば、中世史から現代まだその流れを探らないといけないのだが、ドイツは私の旅心を刺激する国ではない上に、ドイツ史の本を何冊か当たってみたが、私が知りたいことが書いてある本は少ない。『ドイツ青年運動――ワンダーフォーゲルからナチズムへ』(ウォルター・Z・ラカー、西村稔訳、人文書院、1985)などがわずかにあるだけで、こういう本を手掛かりにしないと、ドイツ人とそしてイスラエル人の旅がなかなか理解できない。いままでの常識的な西洋史の本では読む気がしないので、ここ1年ほどはこのテーマにあまり手をつけていない。
 日本人の教養というものが、西洋と中国と日本という地域を対象としたものだが、限定されるのは地域だけでなく、テーマも限定されている。哲学や文学や歴史といった、岩波文庫が扱う範囲が「教養」であり、学問として研究する価値のある分野だと考えれている。岩波文庫は、衣食住など「下賤なこと」について考えはしない。だから、地域だけでなく、研究テーマも、私が興味を持つ分野は、「教養」の埒外(らちがい)なのだ。
 だから、「教養なんか、クソ食らえ!」と叫びたく私の感情は、理解してもらえるだろうか。
 このような原稿を書いているときに、書店でたまたま『旅行の進化論』(ヴィンフリート・レシュブルグ、林龍代・林健生訳、青弓社、1999円)を見つけた。すでに「品切れ。再販未定」だから、ネット書店で5000円近い値段がついているが、新刊書店では定価通りの1600円。これが、おもしろい。旅行史研究書として、この本を最初に読んだら、簡素な記述のせいで、著者の言いたいことがあまり理解できないことも多かっただろうが、少しは基礎学力がついた今は、内容がよく理解でした。
 で、教養の話はこれでお終いかと思ったら、もう1回分書くネタが出てきてしまったので、次回に。