例によって、雑語林用の原稿を書いてしばらく寝かせている間に、新たなネタが見つかって、本来2回のはずのこの項目が全3回に延長することになった。団伊玖磨のエッセイシリーズ「パイプのけむり」から、旅関連のエッセイだけを選んだ『旅にしあれば』(朝日新聞社、1986年)を読んでいて、教養と紀行文に関する話を書きたくなったからだ。どうでもいいことを先に書いておくと、私はいままで団伊玖磨の文章をほとんど読んだことがない。理由は簡単、たいしておもしろくないからだ。もうひとつ書いておくと、彼は自分の名を、新字体で「団」と書かれるのを嫌ったという話を聞いたことがあるが、私は気にしない。
この本に収められている1編、旅先の目覚めについて書いた「幾夜寝覚めぬ」というエッセイは、世界各地の寝ざめと目覚まし時計について書き始め、筆は百人一首へと移っていく。旅先で目覚まし時計をセットしているとき、「幾夜寝覚めぬ」という言葉を口の中で繰り返しつぶやいているという。
淡路島通う千鳥の鳴く声に
いく夜寝覚めぬ須磨の関守(源兼昌)
この歌が頭に浮かび、「幾夜・・・」とつぶやいているのだという。旅先で、寝る前に思い出すもうひとつの歌は、これだ。
家にあれば笥に盛る飯を草まくら
旅にしあれば椎の葉に盛る(有間皇子)
有間皇子の生涯を思い描き、死地に向かう旅の途中で詠んだこの歌が頭をよぎると「涙が出てしまう」と書く。
このエッセイは、1979年6月の「アサヒグラフ」の人気連載「重ね重ね、パイプのけむり」で発表された文章だ。団は1924年生まれだから、このとき55歳である。今の55歳の紀行文に、こういう教養が見出されるのかと考え始めて、引き続き教養について考えてみようと思ったのである。「家にしあれば・・・」という歌は、中学か高校時代に習った記憶はある。なぜ覚えているのかと言えば、じつに単純な理由からで、食べ物関連の歌だからだ。食欲だけで記憶している歌だから、作者がなぜ旅の身なのかという教師の説明などまるで覚えていない。
バックパッカーと言ってもいいし、貧乏旅行者といってもいい。自分のカネで、自由気ままに旅してきた若者たちが、若い時代やのちに「元若者」になってから書いた紀行文には、もちろん私が書いた本も含めて、およそ教養というものは感じられない。旅をしながら考えた最後の世代を代表する著作は、立花隆の『思索紀行』(2004、書籍情報社)ではないかと思った。この本は2004年の出版だが、立花の旅はもっと前の、青年時代の旅を書いている。
例えばイギリス文学研究者が書いたイギリス紀行文と言った専門的文章を除けば、バックパッカーたちの紀行文になぜ教養がないのかというと、私のようにそもそも教養のない場合が多いのだろうが、能あるタカが爪を隠すように、教養をできるだけ見せないようにしているという場合もあるような気がする。団塊世代以降の世代にとって、紀行文に百人一首や万葉集をもってくるというのが、時代遅れのようで、なんだか恥ずかしいという感覚がある者もいる。だが、多くは、万葉集というものがあることは知っていても、自分の旅から「万葉集のあの歌が・・・」と思いおこすような教養がないという者の方がはるかに多いだろう。万葉集だけでなく、李伯でもT.S.エリオットでも、オーウェルでもタゴールでもいい、そういう著名人の文章を引用しながら、紀行文を書いていくという手法がもはや時代遅れのように感じ、できるだけ身辺雑記だけを書く紀行文のほうが肌に合うと考える。それが読者の好みでもあったのだ。ボブ・ディランの歌詞を引用しつつ、紀行文を綴るというのも、団塊世代までの手法だろう。紀行文から「思索」が消えたのだ。教養あふれる文章を若い読者はおもしろいとは感じなくなり、結局、団塊世代以降の書き手による紀行文は、のちの時代までほとんど残らなかった。バックパッカー世代の紀行文の名作は、まだ生まれていない。「抱腹絶倒」とか「刺激的」と評される文章はあっても、「珠玉の名作」とか「名文の誉れ高き」と評され、さまざまな文章で引用されるような紀行文は、おそらく今後も、多分生まれないだろう。