424話 無知も、ときには味方する   ―活字中毒患者のアジア旅行

 私はなまけ者で、根気がない。だから、学問に関しても、基礎からコツコツと地道に勉強していくのはどうも苦手だ。中学卒業以後、まともに勉強などしたことがない。それが、数多くある私の欠点のひとつだと思うのだが、無知と無教養がときには味方することもある。
『東南アジアの現在』(小泉允雄、日本貿易出版会)を先日再読していて、前回読み落としている個所に気がついた。その部分に傍線を引きながら、「森本哲郎と同じだなあ」と、心のなかでつぶやいた。以前に、こういう出来事があったからだ。
 あれは1983年頃だったと思う。朝日新聞社の主催で「アフリカを考える」という講演会があった。アフリカの飢餓が話題になっていた時代だ。講演者のひとりだった元新聞記者で評論家の森本哲郎は、こういう話をした。
「日本人はアフリカを知らなすぎる。マリに王国があったことも知らない。トゥンブクトゥーの壁画や、ジンバブエの石積み遺跡など、アフリカにはすばらしいものがいくらでもあります。そういうものに、日本人は目を向けなければなりません」
 私は無知で無教養だから、この発言がいかにインチキかすぐにわかった。あとで質問コーナーがあったら、その点を指摘してやろうと考えていたら、次の登壇者が、私の言いたいことをそっくりそのまま言ってくれた。文化人類学者の川田順三だ。
「王国や石の建造物があるから、偉大な歴史があったという考え方は、西洋の価値観でしかない。日本人が西洋人の目でアフリカを眺め、価値判断するのはおかしいのです」
 この講演会に質問コーナーはなかったが、森本は自ら発言の機会を求めて、川田発言に反論しようとした。「私の真意は違うのです。西洋人の目でアフリカを見ろと言っているのではありません。かのロマン・ロランも言っているように・・・・」と、恥の上塗り。
 日本で「教養」といわれているのは、欧米および中国の知識と価値観を体に染み込ませることだ。正統とされる学問を積んだ日本人は、世界をヨーロッパ人の目で見ようとする。『東南アジアの現在』では、東南アジアが「未開」ではないことを説明するために、長い歴史やアンコール・ワットやボロブドゥール遺跡を持ちだして、日本人読者を納得させようとしてしまった。森本の論法と同じなのだ。この本は決してひどい内容ではないのだが、教養がじゃまして、ところどころ文章が曲がってしまった。
  東南アジアの通史におもしろい本が見つからない原因は、どうもそのあたりにあるのではないかと思う。王国や遺跡などにまったく興味がない私は、「教養」によってアジアを考察するという愚を犯す程度は低いにしても、人びとの歴史は知りたい。王朝興亡史ではなく、社会史や生活史を知りたい。
 永積昭の2冊の本、『東南アジア歴史散歩』(東京大学出版会)と『月は東に日は西に』(同文舘出版)は、私が初めておもしろいと思って読んだ東南アジア歴史エッセイだ。とくに前者は、球技セパ・タクローの話やチャボ(鶏)の話。男色や裸足に関する考察など話題の幅が広い。こういう本をもっと読みたいのだが、永積昭は、もうこの世にいない。
 東南アジアの学者たちは、食文化史はもちろん生活史もほとんど書いていないようだが、『タイ村落経済史』(チャティップ・ナートスパー著、野中耕一・末廣昭編訳、井村文化事業社発行)に収められている「タイ村落経済史」という100ページほどの論文は、実におもしろい。市(いち)の誕生や鉄道の敷設と物流などによって、村人の生活がどう変わっていったのかという記述が興味深い。
 誤解のないように再度言っておくが、『東南アジアの現在』はそれなりに良くできた本だから、一読をお勧めしたい。                    (1989)
付記鹿島茂のフランス話のような感じの、「東南アジア漫談」というようなエッセイは、まだ出版されていない(と思う)。アジア研究者には、「余談」を考えたり調べたりする余裕がないのだ。
上のような文章を読むと、私は森本哲郎を嫌っていると誤解されそうだが、そうでもない。少なくとも、1970年代には森本の本をほとんど読んでいると思う。だから、10冊以上は読んでいるはずで、『私の旅の手帖 または、珈琲のある風景』(ダイヤモンド社 1973年)は装丁も凝っていて、好きな本だった。70年代に森本の本をよく読んだ理由は、他に読むべき旅の本が少なかったからだろうか。活字で旅の臨場感を味わいたかったからかもしれない。小説家の旅行記よりも、新聞記者の旅行記の方が肌にあっていたのはたしかだ。80年代に入るとほとんど読まなくなったのは、多分、物足りなかったからだろう。「なまぬるい」と言ってもいいかもしれない。私自身が旅で鍛えられたからかもしれない。