425話 人生はおもしろい  ―活字中毒患者のアジア旅行

 ケニアの北、エチオピアとの国境上にあるトゥルカナ湖のほとりに建つ掘立小屋の飯屋で、テラピアのフライを食べていた。淡水魚だが、海水魚のような味でなかなかうまい。店の柱にくくりつけたトランジスターラジオから、雑音まじりでなつかしい歌声が聞こえてきた。ハムザ・エルディーンの「アッサラメッスーガ」だ。日本で、この曲が入ったレコードを何度も聞いている。
 そんなことを思い出しながら読んだのが、『ナイルの流れのように』(ハムザ・エルディーン著、中村とうよう訳、筑摩書房)だ。ナイルのほとりで育ったミュージシャンの半生記で、ローマに留学するまでの話がとくにおもしろい。しかし、私が本当に読みたいのは、このような有名人の成功物語ではなく、旅すればそこここですれ違う人びとの物語だ。
 おもしろいといいなあと期待して読み始めた『わがふるさとのインド』(プラフルラモハンディー著、小西正捷訳、平凡社)は、期待した以上におもしろい本だった。多分、今年のベスト3に入るだろう。著者が生まれ育った村で、村人たちに「カースト」、「女性たち」、「教育」などといったテーマでインタビューし、同時に村の教育史の解説も載せている。調査した村は著者が育ったところで、著者はその村を出てイギリスに留学した。だから、村人の視点と教育を受けたよそ者の目の両方で、村人にインタビューしている。
 『変なニッポン』(別冊宝島117)は、台湾のマンガ事情や韓国の日本語学習事情などの記事もあり。よくある「誤解された変な日本。お前ら、日本をもっと学びなさい」という記事だけで終わっていないところは評価できる。しかし、日本のマスコミ全般に言えることだが、日本語の看板や映画などの「誤解された変な日本」特集はよくやるが、それと同じくらいに「世界を誤解する日本人」という特集もやるべきだ。インド人は皆ターバンを巻いているわけではなく、アフリカは年中どこでも猛暑ではないことなど、書き出せばきりがない。
 さて、先日、久しぶりに味わい深いタイ小説を読んだ。日本語訳のあるタイ小説は、単行本になっているものはすべて読んでしまった。雑誌に載ったものもいくつかはすでに読んだから、もうタイ小説を読むチャンスはないだろうと思っていたところで出会ったのが、『ナーンラム』(吉川みね子編訳、大同生命国際文化基金)だ。タイの詩や短編小説や戯曲を集めたアンソロジーで、表題作になっているアッシリ・タマチョートの「ナーンラム」と「わらの女」の2作が特にいい。
 美人と評判だった娘が漁村を出て、踊り子(ナーンラム)になったという噂を耳にした。そして時間が流れ、その娘は赤ん坊とともに村に戻って来た。「ナーンラム」と名付けた舟に乗る漁師となって、沖にこぎ出すりりしくたくましい女になっていた。「わらの匂い」は、夜の公園で肌を合わせる娼婦と田舎者の男の話だ。「男は女に、遠い昔、原野の端にあった掘立小屋のたいまつの火を思い起こさせた」という書き出しで始まる。読後感は、矢島正雄の『人間交差点』に似た雰囲気を感じさせる。
 残念ながら、大同生命国際交流基金のアジアの文芸シリーズは市販されていない。図書館などで借りるしかない。                         (1990)
付記:『わがふるさとのインド』の続編、『わがふるさとのインドの変貌』が2年後に出たが、ついつい読む機会を逸している。「ナーンラム」に関連した話を、アジア雑語林(204)に書いている。アッシリ・タマチョートの短編は、同じ大同生命国際交流基金アジアの文芸シリーズの『タイの大地の上で 現代作家・詩人選集』にも入っている。もちろん、こちらも読んでいるが、とくに感想はない。