1944話 めこんにて 下

 

 できるなら何時間でも話をしていたかったが、桑原さんは仕事の手を休めて私とつきあってくれているわけだから、いつまでも厚意に甘えるわけにもいかず、「じゃあ、この辺で」と雑談の終了を自分で告げた。

 桑原さんは立ち上がり、「きょうは、何を持ってく?」といった。めこんに来ると本をお土産にしてくれるというのは、45年前に初めて会った時から続いている習慣のようなもので、去る者に手みやげを持たせてくれる。

 「きょうは、タゴールにする?」

 「う~む」。ためらい。

 タゴールというのは、あのタゴールが書いた『少年時代』のことで、めこんのHPで少し知っているが、正直に言えば、タゴールを読む好奇心はもうない。40年ほど前なら、好奇心はたっぷりあり、どんな本でも読んでみたかった。東南アジアの小説をあらたか読んで、インド亜大陸の小説にも手を伸ばしていた。カネはないから、「くれる」というなら片っ端から読んでいたのだが、もともと小説には関心がなく、資料として読んでいただけで、さほど興味のないインドの本だと、食指が伸びない。日本に大勢いるらしいインドマニアだってほとんど読まないのだから。まあ、それはタイの本に関しても同じことが言える。タイへの渡航者や滞在者は多くいるが、タイに深い関心のある人は極めて少ない。

 生意気にも、「タゴールは、いいかな・・・」と、好意を断った。

 「じゃあ、これはどう?」と、本棚から抜き出したのが、ずっしりと重い『バリ島の影絵芝居 ワヤン』だ。大判オールカラーの影絵人形図鑑だ。実に、美しい本だ。

 「えーと、これもいいよ」ともう1冊手渡されたのは、『現代東南アジアにおけるラーマヤーナ演劇』だ。ラーマヤーナは、古代インドに起源をもつ大叙事詩で、インドの影響を強く受けた東南アジア文化の基礎のひとつだ。ラーマヤーナといえば、インドネシアの影絵芝居で有名だが、タイでは「ラーマキエン」として伝わっている。かつて、タイの芸能を調べていた時に、ほんの少しかじったことがある。「ラーマキエン」がわかると、タイの絵画や彫刻が解読できる。

 桑原さんの自慢は、カラー写真にQRコードがついていて、読み取ると、踊りや影絵芝居の動画を見ることができることだ。この本に収録するために特別に上演したという。

 先日読んだ食文化雑誌でも、QRコードから動画を見ることができるようになっていた。「音だけなら、昔はソノシートがついていたのだがなあ」と、昔を知る男はつぶやいた。私は雑誌をほとんど読まないので、「QRコード付き」というのが標準装備なのかどうかは知らない。スマホを持っていないから、宝の持ち腐れなのだが、ありがたく頂くすることにしよう。

 これから埼玉・新座の立教大学でささやかに開かれる勉強会に行くから、重い荷物はつらいのだが、それはそれとして電車内で読む本が欲しいと思って、事務所の棚を眺めると『タイ語のことわざ・慣用句』が見えた。この本ももらった。

 タイのことわざの本は、すでにバンコクで何冊か買い、読んだことがある。『冨田辞典』から、食文化に関係のあることわざや慣用句を書き出した私家版辞典を作ったこともあるのだが、そういった記憶は経年変化で崩落している。きょうは数時間電車に乗るので、復習だ。この本はことわざ集というだけでなく、ことわざに発音記号がつき、単語帳もついている。つまり、タイ語のことわざを利用したタイ語勉強帳というわけだ。

 「ワニに泳ぎを教える」ということわざが紹介しれている。「釈迦に説法」という意味だとすぐにわかる。この本では、このことわざを使った例文や、ここの単語の説明をしている。

 ワニと言えば、バンコクタイ語学校に通っていたときに覚えた慣用句に、「ワニのように食う」というのがあった。単に「大食い」という意味ではなく、ワニには舌がないから、「味もわからず、ただバカ食いする」という意味なんですよという先生の説明を覚えている。「バナナの皮をむいて口に入れる」というのも、すでに知っている。「朝飯前、じつに簡単」という意味だということは、『冨田辞典』で読んだ記憶がある。まだ記憶力が正常に働いていた時代にはすぐに覚えて、しかもなかなか忘れなかったものだがなあ・・・。