1373話 最近読んだ本の話 その6

 食文化の本を書く 

 

 『消えた国 追われた人々』(池内紀)読了。ドイツに詳しく、ドイツ語もわかる人が平易に書く紀行文は、ややこしい歴史がテーマでも楽しく読めた。やはり、私は「行った、撮った」というだけの紀行文には、まったく魅力を感じない。

 『日本の中のインド亜大陸食紀行』(小林真樹)も読了。労作ではあるが、日本におけるインド料理とインド料理店の歴史を簡単でもいいから書いてほしかった。そして、もっとも大きな問題はカタカナ語だと思った。それは、こういうことだ。

 「この日お母さんが腕によりをかけて作っていたのはケチャップをつけて食べるムング・ワダ、ムングを発芽させスプラウト=ファンガベラ(グジャラート語)にしてサブジとして食べるムング・キ・サブジ、酸味の効いたセーウ・トマト、プーリーが一つのターリーに入っていて、別皿で甘いセーウ・キールもだしてくれた」(107ページ)

 書き出した文章の中で、普通の日本人でもわかるカタカナ語はケチャップとトマトくらいだろう。インドの食文化に関する知識がその程度の読者は無視して、インドの地理の歴史も料理もかなり理解している読者を想定したのだろうか。

 もしも、インドの食文化に関心はあるが知識はないという読者を相手にするなら、別な書き方がある。著者はインド食文化大全のような本を今年出版するというので、お節介ながら、食文化の本について考えていることをちょっと書く。

 読みやすい本にするなら、紀行文風にして、カラー写真を多用して、説明は極力省く。インスタ本のようなものだ。

 もしも、空前絶後の本格的食文化本を書こうというなら、基礎の勉強が必要だ。

 私が東南アジアの食文化の本を書こうとして、その基礎知識を得るのに5年ほどかかったのは、食材の身元調査をしていたからだ。今と違って、「レモングラス」や「パクチー」といっても資料がほとんどなく、パクチーコリアンダーのこととわかり、有用植物事典などで身元調査をしたのである。植物学の素人が、現地語名を調べて、次に英語名を調べ学名や和名を調べるのである。コメや野菜や香辛料や魚貝類や調味料の身元を調べ、場合によっては熱帯農業を調べだすと、独学だから5年くらいはすぐすぎる。とにかく、日本語の資料などほとんどない時代だったから、戦前期の熱帯農業の資料も買い集めた。そして、調理道具やコメの炊き方を調べた。

 ちなみに、1980年代前半に手に入れて読んでいた資料のいくつかをあげておく。

 本郷の植物学専門の古書店で入手したのが、この2冊。

 『熱帯植物産業写真集』(牧野宗十郎、東京開成館、1938)

 『熱帯植物写真集』(工藤彌九郎、第一教育図書、1973)

 那覇の古本屋で手に入れたのが、

 『熱帯有用植物誌』(金平亮三、南洋協会台湾支部、1926)の1977年覆刻版

 東京で買ったのが、

 『熱帯の野菜』(岩佐俊吉、養賢社、1980)だが、もっとも使ったのが次の2冊。

 『食用植物図説』(女子栄養大学出版部編、1970)

 『世界有用植物事典』(平凡社、1989)

 マレーシアで買ったのが、

 『The Illustrated Book of Food Plants』(Oxford University Press,1969)

 タイで買った英語とタイ語の両方の名前が載っている本。

 『Plants from The Markets of Thailand』(Christiane Jacquat、Editions Duang Kamol、1990)。これは便利だった。

 昔々は、こういう本を探して読んだのだが、今ではタイ語のカラー版野菜図鑑もあるし、もちろんインターネット情報もある。そういえば、「朝日百科 植物の世界」(全145冊)もあらまし買ったが、食用植物の記述は少なかったなあ。『熱帯の野菜』(吉田よし子、楽遊書房、1983)を知ったのは90年代に入ってからだったが、同著者の『熱帯の果物』同様、助けられた。

 私がタイの食文化の本『タイの日常茶飯』(弘文堂)を書こうと思ったときにまずやったのは、『タイ日辞典』(冨田竹次郎編)の2000ページを最初から読むことだった。この辞書を読むのは、それが3度目だった。ノートを広げ、食文化に関する語を書き出して、食文化辞典を作った。この辞書は動植物にはタイ語名とともに学名も入っているので、使いやすい。食べ物にまつわることわざも書き出した。

 辞書には写真がないから、わかりにくい。そこで英語の本を探すと、英語・タイ語・学名入りの本を見つけた。淡水魚に関しては、私の基礎知識がゼロだから、資料を読んでも知らない魚ばかりでかなり苦労した。

 答え合わせというわけではないが、冒頭に書き出したカタカナの文章をちょっと解説しておこう。

 ムングというのは、英語名mung bean、学名Vigna radiata、和名緑豆(リョクトウ)。日本ではモヤシの原材料として利用されている。ワダは、豆やジャガイモなどをつぶしてドーナッツ状にしたもの。スプラウトは英語sprout、モヤシのようなもの。サブジは炒め物や蒸し物などの料理名・・・といったように、いちいち解説をつけるのは大変だ。この話、長くなるので、次回に。