出版社めこんの桑原さんから、「毎日事務所に来ているから、いつでもいいから遊びに来てよ」という電話をもらったので、夕方から用がある日の午後、本郷に向かった。
バッグに本を2冊入れておくのは、いつもの習慣だ。電車内は気が散らないので読書には最適なのだ、少々目が疲れて、本から目をはなし、車内を見ると、本を手にしているのは私ひとりだ。何も持っていない人がふたり。スマホを手にしてはいるが、膝に置いた手で握りしめているのが3人。あとの数十人はスマホで何かしている。何年も前からわかっていることだが、これじゃ本が売れないわけだ。あの人たちには、スマホで遊ぶ以上に楽しい事はないのだろうか。
桑原さんに会うのは2年ぶりかと思っていたが、調べたら前回会ったのは2020年10月だから、約3年ぶりということになる。
コロナ前は、ほぼ毎月会っていた。桑原さんが世話役となって、アジアに関する勉強会が毎月開催されていて、研究者やジャーナリストが講義をしてくれて、質疑応答の時間もたっぷりある。この会がいつから始まったかはっきりとは覚えていないが、たぶん1990年前後からだろうと思う。参加者は10~20人くらいの小さな会だが、素人の旅行話ではなく、その分野のトップクラスの専門家が解説してくれるぜいたくな会だ。コロナのせいで、ここ数年この会は一度も開かれなかった。
3年ぶりに桑原さんに会って、開口一番の挨拶をした。
「めこんも桑原さんも、ともに健在であることが確認できて、その幸運をお喜びいたします」
コロナに関係なく、商店も企業も次々と閉店倒産している昨今だ。神保町の書店もだいぶ減って、ラーメン屋やカレー屋に変わったが、それも1年もせずに「貸店舗」の看板が掲げている時代だから、あまり売れない本ばかり出しているめこんが生き残っていることの奇跡とその社主の健在を心から喜びたい。
「それは、お互い様だよ。お互いに、生き残っていてよかった」
桑原さんと初めて会ったのは、私がコックをやめた1970年代後半で、当然まだ20代。桑原さんもまだ30代だったから、もう45年ほどの付き合いになる。だから、めこんで本を出した研究者やライターたちの消息話になると、当然ながら物故者が多い。新聞で死亡記事が出ていたある女性の夫は知り合いだが、何年も交流はない。「あの人は・・・」というと、「この前会ったよ。カラ元気だと思うんだけど、変に陽気にふるまっていてさ、だからちょっと痛々しかった。まあ、そういう話はいくらであるよ」
お互いの健康を祝して乾杯はしなかったが、「まだ元気でいられた」という喜びは、20年前ならまるで気にかけない感情だろう。
昔と違って、若き研究者が書いた文章におもしろいものはないねという話をした。大学院博士課程か、せいぜい助手か講師というくらいの若き研究者が、好奇心に任せて歩き、考え、迷ったままを書いた本が、かつては多く出ていた。それは若者の異文化体験という枠組みで出版されたのだろう。いまでは、外国に出る若者など珍しくないが、ただの旅行者ではなく、研究者の、まだヒヨコの目に映る異文化を描いた本を読みたい。
「アンケートを載せれば、博士論文一丁上がりっていうようなものが出版されているようね」などと、ひと通り言いたいことをいい、「そういう意味では、風間さんの本は素晴らしく良かったね」というと、桑原さんも「そう、すごくいい本だったね」と応じた。風間さんは、東京芸大で、小泉文夫の最期の学生という世代に当たる。『ジャワの音風景』(風間純子、めこん、1994)は、ジャワの大衆演劇の団員となって、寝食を共にして書き上げた博士論文をもとにして書き上げた名作だ。団員へのアンケートなどない。こけおどしのための、有名な西洋人学者の論文引用で行数を稼いだりしない。すでに発表されている有名な論文の読書ノートではなく、自分が見聞きして考えたことを、自分の言葉で書いている。
権威ある学者の論文を並べておかないと学術論文だとは認めないという指導教授の元では、こういう本は書けなかった。元になったこの博士論文の指導教授は、村井吉敬上智大教授だ。
というわけで、目下、村井さんの本を作っているという桑原さんと村井さんの話を少しした。村井さんとは一度も会うことないまま、2013年に亡くなっている。彼の数多くの著作の中で、最高傑作だと思っているのは、まだ迷い続けている若き時代に書いた『スンダ生活誌―変動のインドネシア社会』(NHKブックス、1978。のち『インドネシア・スンダ世界に暮らす』として岩波現代文庫、2014)だ。