1768話 ある「農民作家」が語る「私たちの戦後五十年」

 

 7月10日、作家の山下惣一さんが亡くなった。面識のない人だから、普通は敬称略で書くのだが、いろいろ教えてくれた人だから、山下さんと敬称をつけたい。

 山下さんの本を最初に読んだのは、「タマネギ畑で涙して」(1990)だった。その本がタイの農村探訪記らしいと知って買ったのであって、山下さんがどういう人物なのかまったく知らなかった。この本を読んで、略歴を知った。中学を卒業後、百姓が嫌で家出したが、のちに帰郷して家業の農業を継ぎ、同時に小説を書き始め、「農民作家」と呼ばれるようになった。誇りをもって「百姓」を自称していたので、この呼ばれ方は不本意だったかもしれない。

 タイの農民の話だ。「農民が儲かっていない」と話していることに関して、『タマネギ畑で涙して』でこう書いている。

 「わたしたち日本の農民もそうだが、いい時は黙っている。悪いときは行政が悪い農協が悪いと騒ぐ。そして、よそ者に対して、まずいい話はけっしてしない」

「『今年は悪い、ことしはよくない』とぼやき、翌年になると、「昨年はよかった。今年は悪い」というのである。タイの農民もおなじではないか」

都会に住む文化人は、農民の「儲からない」と話を聞いただけで調査もせずに同情したり美化したり、こんな発言もするんだと、山下さんは書く。

 「GNPに表れない豊かさ、人情味、日本人が失った本当の暮らし、そんな讃美調が多いからねえ。奴さんたち、いったいどこみてんだろう」

 山下さんは自身、百姓だから、百姓の苦労も悲しさも、狡猾さも知っているから、都会のインテリのように印象だけで農業や農民を語ったりしない。過剰な哀れみも、過大な理想化もしない。

 『タマネギ畑で涙して』の続編にあたる『タイの農村から日本が見える』(1996)で、こんな話をする。タイの農村を訪れると、ホッとするものがある。「日本人が失ってしまった心の豊かさがあるからだ」と称賛する人が多いが、はたしてそうかと考える。長いが、その部分を引用したい。

 「タイの農村の暮らしは、かつて、わたしたちの子供のころの日本の農村に似ている。かつて、そう、昭和三十年代の初めまでのわたしの村もそうだった。田植えの帰りに、まだ終わっていない田があると、どこの田んぼであろうとみんなで加勢したし、コメや牛馬の貸し借り、もらい風呂、農作業や普請の結いなど、べったりと共同体としての暮らしがあった」

 これで文章が終われば、「心豊かな、かつての農村の絆」の賛美になり、NHKの番組ならそれが主題だろうが、山下さんは話を続ける。

 「逆にいうと、そうしなければ生きていけなかったのだ。選択してやっていたのではなく、やむを得ず、あるいは必要に迫られての暮らし方だった。」

 「そういう暮らしがいやで、うっとうしくてそこから脱出するために努力してきたのがわたしたちの戦後五十年ではなかったか?」

 山下さんのこの文章から、「なるほど、そうだなあ」と考えることは多い。

 テレビで「下町の人情」をテーマにすると、「味噌醤油やコメの貸し借りをするほどの関係」を強調する人が多いのだが、そういう貸し借りをしなくても、自分のカネで食料品くらい充分に用意しておける生活をめざしたのが戦後の生活だったのだ。

 6畳一間に8人で暮らすような生活から、団地に移り、子供部屋を用意できる豊かさをめざし、子供たちは高校大学に進学できる豊かさを求め、その結果核家族となり、地域や一族の関係性が弱くなる。今はやりの言葉で言えば、「絆」をより弱くする方向に進めるというのが、戦後の生活だったのではないか。職場の忘年会や運動会や宴会旅行をやめるというのが、理想的な人間関係になっているのではないか。かつての、深く強い絆で結ばれていた一族や村社会の関係は、都会のインテリが口にするような甘く美しいものではなく、うっとしく窮屈だと考えていた若者たちが、「希薄な昨今の人間関係」を求めたのではないか。がんじがらめの人間関係を、そういう関係の外に住んでいる人が、「絆」と呼ぶのだろうか。

 丸谷才一はエッセイで、「誰もが故郷を懐かしいと思っているわけではない」と書いている。ふるさとを石もて追われた者もいるのだ。

 そういうことを考えさせるヒントを、山下さんは教えてくれた。