1960話 山下惣一を読む 下

 

  山下さんの怒りは、農作業を知らない都会人の勝手な発言に対するものだ。だから、「もういい。あいつらの食うものは作らない。オレは、オレの家族が食う分だけ作る」という結論に達した。

 そういう結論を出すまでに、こんなこともあったというエピソードを紹介している。

 農業講演会のような会場で、会場から「ぜひ、無農薬栽培をしていただきたい」という声が上がった。

 山下さんがテレビ出演した時の話も交えて書くと、家庭菜園なら、無農薬でできるが、事業として無農薬栽培はじつに大変な作業なのだ。真夏に腰をかがめて、一日中草取りをする苦労がわかるか? 30分や1時間の作業ではないのだ。農薬の被害は、実際に農薬を使っている百姓自身がいちばんわかっている。使わなくて済むものなら、使いたくないのだ。消費者は、「1円でも安く」と望むから、大量生産できるように農薬を使わざるを得ないのだという主張だ。

 村社会の問題も語っている。

 『タイの農村から日本が見える』で、こう書いている。

 「タイの農村の暮らしは、かつて、わたしたちの子供のころの日本の農村に似ている。かつて、そう、昭和三十年代の初めまでのわたしの村もそうだった。田植えの帰りに、まだ終わっていない田があると、どこの田んぼであろうとみんなで加勢したし、コメや牛馬の貸し借り、もらい風呂、農作業や普請の結いなど、べったりと共同体としての暮らしがあった」

 都会のマスコミなら、こういうエピソードを「古き良き時代の心の交流」とか「助け合いの美しさ」などと描くだろうが、それは違うと山下さんは書く。

 「逆にいうと、そうしなければ生きていけなかったのだ。選択してやっていたのではなく、やむを得ず、あるいは必要に迫られての暮らし方だった。」

 「そういう暮らしがいやで、うっとうしくてそこから脱出するために努力してきたのがわたしたちの戦後五十年ではなかったか?」

 山下さんの意見を読んでいていつも思っていたのは、日本の百姓が立ち上がって、反自民党農政の立場で、地元自民党議員を落選させれば、政府も考えるんじゃないか。そういう運動に至らずに、農産物輸入自由化反対のちょっとしたデモ程度で終わっているのは、結局政府の農政を支持しているんじゃないかと思っていた。

 村で生きていくというのは、そういうことができないということだという。地元を地盤とする議員は代々決まっていて、実力者の意向がそのまま村を支配する。自民党候補者の事務所に何回顔を出すかということが、村社会でのその人の査定になる。選挙活動は、神社の掃除も道普請も祭礼と同じように、村の行事なのだ。村社会では、「野党に投票したのは、アイツだ」とすぐにわかる。

 そういう村のすべてが嫌で、かつての山下少年は家出したのだ。百姓に誇りを持っていても、保守本流の村社会が嫌だという感情は、終生あったようだ。