1836話 時代の記憶 その11 服 上

 

 かつてNHKで放送していた番組「新日本紀行」(1963~82年)をデジタル映像にして、その地の現在の姿を再取材した短い映像も加えた「よみがえる新日本紀行」を毎週楽しみに見ている。自分が生きてきた時代の、自分は知らない地域の映像を見ることができるのだから、極めて興味深い。

 この番組を見ていて、「ああ、昔はそうだったよね」と思うことは多いのだが、そのひとつは、人々の服装だ。

 上野駅のあたりを管轄にしていた元警官の思い出話をラジオでで聞いたのは、もうだいぶ前の話だ。「昔は、上野駅構内を歩いていれば、家出少年はすぐにわかったんですよ。服装で、田舎から出て来たばかりってのが、すぐにわかった。それで、挙動不審だと、声をかけるんです。東北訛りでおどおどとしゃべるか、顔を赤くして黙っている。だけどね、今はわかりません。その日初めて東京に出てきた家出娘でも、けっこうしゃれた服を着て、訛りもなくしゃべったりして・・・」

 「新日本紀行」で、1970年代の純農村の風景を見ていると、大都市と農村では人々の服装がかなり違うことがわかる。農村の小学生の服はヨレヨレで、女の子の髪は親がハサミで切ったようなおかっぱで、その親や祖父母が口を開けると金歯が見える。

 1970年代の、すでに「おばあちゃん」と呼ばれていた農村の50代以上の人たちの普段着、いわゆる野良着が着物という例が実に多い。そういう女性たちの晴れ着も、もちろん着物だった。1970年に60歳だったという人は、1910年うまれで、終戦時には35歳だ。子供の時から着物(つまり和服)で過ごし、母や祖母の着物をもらい、そのまま着てきた世代だ。1970年頃なら、都会でも中高年の女性なら、晴れの日には着物で外出するという人は決して少なくなかった。海外旅行が自由化されたばかりの1960年代後半の空港での団体写真をみると、男は背広、女は着物を着た人が多い。海外旅行は「晴れの出来事」なのだ。その時代から添乗経験のある旅行社社員は、「80年代に入ると、ハワイツアーなんか、ビーチサンダルに短パンで空港に表れる人もいて、びっくりしましたよ」と語っていた。

 さて、私自身の思い出だ。1950年代の後半の一時期まで、母はいつも着物を着ていた。着物に割烹着というのがいつもの姿で、割烹着のポケットから輪ゴムやちり紙やアメなど、何でも出てくるのが不思議だった。その時期、小学校入学前までの時代に私が身に付けていた服は、母の手製であったような気がする、パンツもズボンもシャツも、母がミシンを踏んで縫ってくれたのではないかと思う。冬のセーターも母の手製で、いっしょに毛糸屋に行ったことも覚えている。姉たちの服も母の手製だったが、それが特別のことではなく、あの時代の専業主婦としては普通のことだったのだが、今改めて母の苦労と愛情をつくづく感じる。

 末っ子の私が小学生になり、時間に少し余裕ができたからか、母は村の料理教室に通ったり、街に出て編み物教室に通ったりするようになり、服装は着物から洋服に変わった。その方が動きやすかったからだと思うが、母にたずねたことがないので、真相は知らない。着物を新調するよりも、自分で服を縫った方が安いと思ったからかもしれない。私のかすかな記憶では、1950年代末あたりには、村の女性たちは高齢者を除いて、農業に携わっていない女性はしだいに洋服に変わっっていったように思う。

 私が小学校に入った頃から、セーターを除けば、着ているものは下着のシャツや靴下からじょじょに市販品になったのではないか。昔は既製服が高く、だから母が服を縫い、毛糸を編んだ。「毛糸を買って自分で編むよりも、既製品を買った方がはるかに安い」という時代はいつからなのか、服事情に詳しくない私は、まるで知らないが、円が高くなって安い輸入品が出回るようになってからか。

 私の小中学生時代に普通にあった服で、今はもう見なくなったのは、トレパン、ブルマー(私の世代にとってのブルマーは、もちろんちょうちんブルマーだ)、サラリーマンが冬に着ていた毛糸のチョキ・・・、あと、なにがあるかなあ。