1826話 時代の記憶 その1 電気 上

 

 1952年生まれの私が見たこと知ったことのいくつかを書いてみたい。「あれは、懐かしいよなあ」といった思い出話をしたいのではない。「過去のある時代の記憶と記録」を書いておきたいと思う。私が子供だった頃、大人たちがしゃべったり書いたりしていたおかげで、「学童・縁故疎開」、「軍需工場」、「配給」、「学徒動員」、「灯火管制」、「配給」、「外食券」など、私が生まれる前の事柄でも、少しは知っている。

 1952年は、戦争が終わってからわずか7年後だ。空襲を受けた都市では復興が進んではいたが、まだがれきが残っている場所もあっただろう。幸いにも空襲にあわなかった農山村の生活は、戦前どおりのまま続いていて、それは明治時代と変わらず、部分的には江戸時代とあまり変わらない生活だったと思う。私と同時代に生まれ育った者でも、地域や家庭の環境によって見てきた世界はかなり違う。私の個人的な体験に加えて、資料によって他の地域の同時代体験も書いていきたい。

 まずは、電気の話から始めたい。

 1950年代の私の記憶では、電気のない生活の体験はない。10歳までを奈良県の村で育ったが、自宅前は郵便局で、村立小学校と中学校に徒歩5分という村の中心地に住んでいたから、物心ついたときからウチに電気が来ていたが、林業や炭焼きなどを生業として山の中で暮らしていた家庭にはまだ電気は来ていなかっただろう。だから、小学校の同級生の家庭では、電気のない生活をしていたかもしれないが、山に住む友人はいなかったので、その当時の山の電気事情をまったく知らない。

 1959年の山村にテレビが来たというドキュメントをNHKが放送した。山の分校の記録を見ると、当時の生活風景がよくわかる。都会で育った人には「じいちゃんの時代か」と思うかもしれないが、農村で育った者には「懐かしいあの頃」の風景だと思うだろう。

 今回探せなかった番組たが、同じように村の小学校にテレビが設置されたというのがあった。その村にもそもそも電気が来ていなかったから、簡易水力発電機を取り付けたという番組だったと記憶している。「ポツンと一軒家」(朝日放送)を見ていても、私とあまり変わらない年齢の人が、「子供の頃、ここにはまだ電気がなくて・・・」と話しているのを何度か聞いている。1950年代どころか1960年代に入っても、農山村離島ではまだ電気を知らない生活をしていた人がいた。

 岩手県の電化率の資料がある。これによれば、1950年代では県内の未点灯率地域は山村などで多かったが、その後電化事業を進めた結果、1965年の未点灯率は0.2パーセントにまで減っているという。ちなみに、北海道では、西部の天売島と焼尻島に電気が通じたのは1970年だった。

 私と同世代でも、コメの飯が「いつもの飯」ではなく、イモや雑穀を食べていた時代を経験している人がいる。銀幕世界では、石原裕次郎が銀座で遊び、スポーツカーを乗り回していた1950年代、農山村離島ではランプの生活をしている人もいた。

 私が暮らした奈良の村の家の「電化」とは、「電球のある暮らし」だった。居間にも台所にもトイレにも電球があり、明るかったのだが、もしかすると、それは「ちょっと前から」かもしれない。そもそも我が家が東京から奈良の山奥に引っ越してきたのは、電源開発の仕事で川にダムを建設する技術者として父が赴任したのだ。東京から村に来たのは1歳の時だから、そのときは電力設備が完成していなくて、村にまだ電気が通っていなかったかもしれないが、当然、私の記憶にはない。その時代をよく知っている両親は、もうこの世にいない。聞いておくべき話は、山ほど残っている。