1961話 私の1973年物語 その1

 

 最近、マスコミで「1973年」という語を目にし、耳にすることがしばしばあり、73年に何か大事件があったのだろうかと考えていて、気がついた。「この50年間」あるいは「この半世紀」という節目にちなんだ話題を探しているらしい。

 1973年は、20歳から21歳になったときで、私にとっても大きな岐路になった年だ。生まれて初めて海外旅行をした年だからだ。赤ん坊のころから「家族でハワイ旅行」を体験している若者(30代以下か)には、「初めての海外旅行」など意味のないことだろうが、私の世代では重要な大イベントだった。

 小学生時代から見知らぬ国に行くことに興味があったようだ。探検記や冒険記は小学生時代に読み、中学生になると、ジャーナリストの取材記や学者のフィールドワーク報告などを好んで読んだ。秘境探検に興味がなくなったのは、色気づいたからだと思う。大自然よりも人間の生活の方に強い興味を持ち、今日に至る。

 高校生になっても、「外国に行きたいなあ」と思ってはいても、それは小学生の「将来はサッカー選手」という夢よりもあいまいなものだった。サッカーや野球の選手になるには、どうすればいいのか中高校生くらいになれば、少しはわかる。自分の実力がどの程度かは、だいたいわかる。しかし、海外旅行となると、どうすれば実現できるのか、まったくわからなかった。私の周りに海外旅行をした人がいなかった。もしいても、企業の視察旅行という旅なら、私がやろうとしている自由気ままな旅の現実がわからない。

 高校生の私がわかっていたことは、「とにかく、カネを稼げ」だが、いくら貯めれば、どこでどれだけ滞在できるのかといった具体的な情報はまったくなかった。そこで、本屋を巡り資料を集める。地元の本屋にそういう資料はないから、神保町を歩かないといけない。高校時代にわかったことは、海外旅行は「とにかくカネがかかる」であり、、「足らない資金は旅先で稼げ」だった。     

 1971年に高校を卒業した。すぐさまカネ稼ぎの労働についた。あのころ、日本交通公社実業之日本社の旅行ガイドがすでに出ていたが、団体旅行客が使うガイドだから、パスポートとはどういうもので、どうやって手に入れるのかといったことは載っていない。両替のしかたも載っていない。安ホテルの情報など、もちろんでていない。つまり、個人旅行には役に立たないのだ。

 神保町歩きをやって、少しは海外旅行の事情がわかってきた。ヨーロッパ往復の航空券は約100万円だ。日給2000円ほどの仕事をしていた私にとって、どうあがいても買える航空券ではない。ひと月、休みなしで働いても月に6万円。1年で72万円。1年半休みなしで働いて、やっと航空券が買えるが、滞在費はまだない。100万円はそのくらい絶望的な金額だった。できるだけ早く日本を出たいと願う若者は、片道切符を買って、旅先で仕事を探すという方法を考えた。

 資料を買い集めると、船情報が載っていたが、1970年代初めだと、船の旅はすでに時代遅れになっていて、船会社に問い合わせても、「その航路は、もう廃止しました」という返事だった。1960年代だったら、ヨーロッパはもちろん、ベトナムにもタイにも、船で行くことができた。小山海運という会社名はまだ覚えている。

 1960年代の若者は、「自分はとうてい海外旅行に行くチャンスはないだろう」という絶望感があったようだ。1970年代に入ると、1964年の海外旅行自由化以後に日本を出た若者の旅行記も世に出て、「実現不可能」というほどの野望ではないという気がしていたが、具体的にどうすれば夢がかなうのかわからなかった。海外旅行の資金を作るという労働に疲れて、国内旅行や東京散歩にカネを使ってしまうこともあった。あのころは、カネもなかったが、情報もなかった。