1962話 私の1973年物語 その2

 

 その当時は何も意識していなかったが、振り返って事実を追っていくと、1970年以降の海外旅行史が少しわかる。海外旅行は1964年に自由化され、制度上は誰でも、目的が観光でも何であれ、年に1回海外旅行をする自由を得た。だが、実際は、旅行費用があまりに高いから、金持ちしか外国に行く自由を満喫できなかった。

 1970年、世間的には大阪万博の年だが、海外旅行事情が大きく変わった。まず、ジャンボジェット機導入により、団体旅行費用が大幅に安くなり、もう少しすると、そういう団体客用の航空券をバラで個人客に売る格安航空券が出回るようになるのだが、私のようなド素人の目にも触れるようになるのは、もう少し時間がかかる。

 外貨持ち出し限度額が700ドルから1000ドルに変わるが、貧乏旅行者にはほとんど関係ない。

 ユースホステル会員登録が1970年にピークに達し、北海道などを旅する「カニ族」と呼ばれる旅行者が出現する。横長のリュックサックを背負っていて、それ自体カニを連想させるのだが、狭い入り口や通路などはヨコ歩きするしかないからという理由でも、カニ族と呼ばれた。

 航空券は安くなりつつあるが、若者にはまだ高く、ヨーロッパをめざす若者はナホトカ経由のシベリア鉄道コースを選んだ。1970年にこのルートを使った旅行者は1万7000人で、これがピークだった。つまり、それ以降は何とか安い飛行機を見つけるとか、インド経由ヨーロッパなどの陸路ルートを探すようになる。

 1971年以降の社会事情や海外旅行事情も書き加えておく。

 アメリカドルは戦後長らく、1ドル=360円と決まっていた。ちなみに、円は360度だから、360円に決めたという説は、真っ赤なウソだ。「まあ、360円くらいが相場か」という感覚で決めたらしい。360円時代は、1971年12月のニクソン・ショックで308円に固定されたことで終わった。1973年4月に、これまでの固定レートから変動相場制に変わった。その直後には260円台まで円高が進んだが、オイルショックにより73年秋には300円近くまで戻った。

 社会的には、左翼運動が過激化していく時代だった。赤軍派日航よど号ハイジャック事件(1970年)、テルアビブ事件(1972年)、ドバイ日航機ハイジャック事件(1973年)、シンガポール事件(1974年)など1980年代以降にも過激派の事件が起きた。

 赤軍派などの事件はニュスとしてもちろん知ってはいたが、私とはまったく関係のない話で、いい加減に聞いていた。他人事だと思っていたが、こうした事件により、若い日本人に対する警戒が強くなった。私自身の体験では74年のシンガポール入国の税関で、荷物ひとつひとつをバッグから取り出して、詳しい説明をさせられるという嫌がらせを受けた。ロンドンでもアムステルダムでも、しばしば職務質問を受けた。あのころは旅行をしている韓国人も中国人もいなかったから、日本人のような顔をした者は、ほとんど日本人だった。赤軍派活動家と似た名前、あるいは同じ読み方をする名前を持つ日本人は、各国のイミグレーションで厳しい取り調べを受けたと、体験者から聞いた。

20歳になったばかりの私は、旅行情報をなんとかして集めたかった。いきなり航空会社に行って、「安い航空券をください」といっても無駄だよという話は雑誌か何かで読んではいたが、それでも「もしや」と思い、日比谷の航空会社に行ったことがあるが、もちろん安い切符など売っていない。どうしてもインドに行きたいと思っていた若者は、インド航空機が到着する時刻に羽田空港に行き、「いかにもインド帰り」という旅行者を見つけて、旅行事情を聴き出していたという話も聞いた。旅先で安い航空券を買ったという話は時々耳にしたが、日本を安く出る方法がわからなかった。

 若者はそれぞれに、様々な手段で、旅行事情を集めていた時代だった。