1963話 私の1973年物語 その3

 

 1970年代初めは政治と反体制運動の気風がまだ続いていて、新宿から中央線で吉祥寺あたりまでの喫茶店や小さな本屋に、さまざまなチラシやミニコミが置いてあった。チラシのなかに、オペア(フランス語 au pair)の広告があった。オペアは今風に言えば、ワーキングホリデーのようなものだ。イギリスやフランスの家庭に入り、午前中に家事や育児をやると、午後は語学校などに通う。宿泊費と食費はタダだから、給料は出ないという制度だ。ビラは、オペアのシステム仲介と往復航空券販売などをする会社のものだった。1972年ごろになると、比較的安い、あくまでそれまでと比べて比較的安い航空券を売る会社も出てきたが、信用できるのかどうかはもとより不明だ。

 私が見つけたのは、インド往復切符だ。出発日と帰国日を自由に決められるオープン切符はあまりにも高く手が出なかった。出発日も帰国日も決まっている航空券(fixという)は比較的安かった。のちに、「なぜ?」と奇妙がられたのだが、航空会社はアリタリア・イタリア航空だった。エジプト航空でも、エア・インディアでもない。ルートは、羽田⇒デリー⇒バンコク⇒香港⇒羽田というものだった。

 初めての旅はうれしかったから、旅のメモやスクラップもしている。詳しい内容もわかる。旅行社に支払った金額は10万8000円。もう少し後の時代で、1970年代後半になるが、羽田・デリーの往復運賃の相場は約20万円だった。制限はあるが、私が興味をもった航空券はその半額だから、当時としては安かった。しかも、往路復路に添乗員がつき、出入国からホテル到着までの面倒をみてくれる。インド到着日と出発前日のホテル代も込みだから、割安だと感じた。旅行知識も技術もないヒヨワな若者(私だ)は、安くて楽な方法を選んだのだ。

 この時の旅は、インド到着日の宿は予約してあったから何の心配もなかったが、それ以降の旅では、あらかじめホテルを予約しておくなど例外的なことだった。この時の旅でも、バンコクと香港は現地に着いてから自分で宿を探した。

 つい十数年くらい前までは、現地に到着してから宿を探すというのは、その時代の個人旅行者の当たり前の行動だった。私に限らず、旅行者の宿選びは、旅行者から情報を得るか、ガイドブックがあれば直接宿に行く。空港の案内所で安宿情報を仕入れるか、街の地図もらい、街の中心地か安宿がありそうな地区に行き、宿を探すというのが当時の当たり前の旅行のしかただった。旅行社を使えば、外国のホテルの予約はもちろんできるが、当然中級以上のホテルで手数料もかかる。

 フィリピンにいたときだ。東京便の予約がひと月先まで取れず、高いカネを払ってビザを延長してまでフィリピンにいる気はないので、マニラから韓国経由関釜フェリーで帰国の旅を思いついた。軍事独裁政権下の1978年のことだ(朴大統領は翌79年に暗殺された)。韓国の情報は何ひとつないから、ソウルに着いたら空港の観光案内所で、「一番安い宿を教えてください」と頼み、市内地図でその場所に印をつけてもらい、バスでの行き方も教えてもらった。当時は、それが普通のことで、日本でホテルを予約しておくようになったのは、インターネットを使うようになったここ十数年くらいからだが、現地到着地以外の宿は、いまでも歩いて探している。

イタリア語通訳、翻訳家、エッセイストの田丸公美子氏の『シモネッタの本能三昧イタリア紀行』(講談社文庫)によれば、著者の初めて海外旅行は1973年のイタリア旅行だったそうだ。その部分を引用する。

 「海外旅行は限られた人だけに許された贅沢で、私が買った、最も安いアエロフロートでも片道17万5000円もした。一流企業の初任給が4万円足らずの時代なので、今の料金に換算すると往復で200万円近い感覚になる」。旅行資金は、70年の大阪万博のとき「通訳で法外な収入を得た」と、東京外国語大学の雑誌「GlobeVoice」(2012)に出ていた。日本出発の日、羽田空港に12人の見送りがあったという時代だ。留学ではなく、ただの旅行でも見送りがある時代だった。もちろん、私には見送りも出迎えも無縁だ。