1964話 私の1973年物語 その4

 

 1973年の旅では、400ドル分を両替している。日本円が外国で自由に使える時代はまだ来ていないから、日本でアメリカドルに両替しておく必要があった。400ドルの内訳は、トラベラーズチェックが370ドル、現金が30ドルだ。平和相互銀行の「通貨交換計算書」を見ると、1ドルを279円で両替している。日本円は4000円持っていた。それが、当時の私の全財産だった。400ドルは約12万円だ。航空運賃を支払って、これだけ残っていたのは、高校卒業以後働いて貯めていたからだ。

 メモによればインドでは、1ルピー=36円(現在1.8円)、ネパールでは1ルピー=27円(現在1.1円)だった。ブラックマーケットがあるはずだが、ドルの現金をほとんど持っていなかったので、相手にされなかった。

 メモには、インドで1ルピーあれば、バナナ6~8本、コーラは0.6ルピーと書いてある。多分、カンパコーラだろう。タイ・バーツは当時、1ドル=20バーツだったから、1バーツ=14円(現在4円)だった。楽宮旅社は1泊25バーツ、350円だった。大阪・西成の簡易宿泊所は、1畳半の部屋で、ほぼ同額だった。

 詳しい旅行ルートなどは忘れてしまったが、メモを見ると思い出す。初めての外国で、よくもこんな旅をしたものだと感心する。なにしろ、ガイドブックはないのだ。インドの地図もない。駅でもらった簡単な地図はあったが、それだけだ。だから、旅行情報は宿で旅行者から聞きだした。旅行のメモを見ていてびっくりしたのは、アグラから鉄道やバスや馬車を使って、3日でネパール国境にたどり着き、4日目にカトマンズに着いている。旅行者情報と駅での情報収取でなんとかなったのだ。ガイドブックがない時代の個人旅行とは、そういうものだと思っていた。もちろん不安だらけだったが、未知の世界に踏み込むおもしろさでワクワクしていたことも確かだ。鉄道時刻表など持っていなかったが、持っていても、どうせ時刻表通りには運行しないのだから、時刻表など必要ない。到着した時が「到着時刻」などとわかったふうなことを言っても、乗り換えがあるとのんきにしてはいられない。ホームで3時間待って、やっと来た列車に乗ろうとしたら、「それは、きのうのだ。お前が乗る列車は、もう少し待て」と言われたことがあった。

 その旅の最期の寄港地が香港で、海を見ながら「これが我が生涯最後の外国になるんだろうな」と思った。貧乏人が外国に何度も行くことができるとは、到底思えなかった。それから10か月後、横浜から乗った船でその香港に着いた。再び会えた香港に、「ざまあ見やがれ!」と叫びたい気分だった。

 海外旅行体験ゼロの若者が、1973年にちょっとした旅をしたことで、体験1になった。1から3や8に変わるのは大したことはないが、0から1は「突破」だった。「海外旅行はカネがあれば、何とでもなる」、「英語は中学レベルをちゃんとやれば、それで充分」、「旅行情報は、人に聞け」といった技を体得し、以後旅行を繰り返すことになった。そのきっかけが、1973年だった。