1017話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その8

 そして、インド

 今まで長々と書いてきたような手続きをして、やっとインドに行った。ネパールにも行った。ネパールのポカラは登山基地の町で、まだ観光地にはなっていなかった。1973年の時点では、多分、ぺワ湖畔にはホテルはおろかゲストハウスなど宿泊施設も飲食店もなかった。ただし例外的に、1969 年に対岸にオープンした、フィッシュテイルロッジという高額ホテルだけはあった。
 初めからここでインド旅行記を書く気はないが、飲み物のことは、ちょっと書いておこう。ただし、紅茶のことは、話し始めるとあまりに長くなりそうなので、一切触れない。
 1973年の金銭出納帳というか、単なるメモなのだが、料金を見ていると、Rs(ルピー)と並んでP(パイサ)が結構ある。100パイサが1ルピー(当時35円)だ。チャイ(ミルクティー)は、たいてい30Pと書いてある。路上で食べたに違いない「チャパティーと煮豆」も30Pになっている。コーラ60Pというのは、「カンパ・コーラ」のことか? ウィキペディアによれば、カンパ・コーラの発売は1977年からとなっているのだが、それ以前から知っていたような気がするが、記憶があいまいだ。1973年時点では、コカ・コーラペプシ・コーラを売っていたが、1977年にインド政府はコカ・コーラペプシ・コーラを追放したことから、「カンパコーラ」という類似商品を売り出したと、ウィキペディアにはある。だからか、旅行者の間で「コーラの話」で盛り上がった記憶があり、雑誌「オデッセイ」にもインドのコーラの話が載っていたような記憶がある。おそらく、このウィキペディア情報は正しくて、1973年の時点ではカンパコーラはまだ飲んでいないのだろう。
 インドのコーラのことを考えていたら、突然、Limcaという瓶入りの飲み物があったことを思い出した。これも、アメリカのコーラを追放したあと、インドの清涼飲料会社ゴールドスポットが売り出したレモン風味の飲み物だ。皮肉なことに、現在はコカ・コーラの製造販売になっている。私がカンパ・コーラやLimcaを知っているのは、1978年にインドに行った時に飲んだからなのだろうか。
 ノートに料理の名前と金額が書いてあるのだが、どういう店で食べたのかわからない。路上でも食べているが、同時にやや高級なレストランにも行っている。想像すると、路上の男が売っていた葉っぱの皿に入れた料理を、しゃがんで食って、1ルピー以内。街の食堂で数ルピー程度、日本円にすると100円くらい。冷房が入っているようなレストランで、その10倍くらい払っている。初めての海外旅行、初めてのインドだから、タンドリチキンも食べてみようと思ったのだ。
 ノートに、リキシャのことは何も書いてない。自転車式の三輪タクシーのことで、この乗り物に興味をそそられた。のちに東南アジアでも自転車式三輪タクシーを見かけて、ますます興味をそそられて、長い間の勉強の末、『東南アジアの三輪車』(旅行人、1999)に結実する。本当に重要なことは、メモなんかとらなくても、覚えているものだ。もし日記に書いていたとしても、「リキシャはおもしろい」というだけの文だが、それだけのことで、構想20年、調査5年ほどで、1冊の本になったのだ。

 インドとネパールを旅しても、リシュケシュ、サドゥー、アシュラム、ラジニーシなどといった精神世界用語とは無縁に過ごしたので、幸せにも「インド精神世界」に汚染されることもなく、「あの山の向こうには神がいる」などと叫ぶこともなく、ルンギのような「いかにもな、インドファッション」に身を包むこともなく、ブレスレットもネックレスも線香も買わず、菜食者にもならず、性格も風貌も言動も変わらず、「インドかぶれ」と呼ばれるような男にもならず、地べたに足をつけた俗人のまま、バンコクと香港にちょっと立ち寄って、悪い物はなにひとつ日本に持ち込まず、心身ともに無事に帰国した。インドはもうたくさんだから、今度は東南アジアや東アジアにしようと思った。