1920話 『世界の食卓から社会が見える』について考える その1

 

 「世界一おいしい社会科の教科書を作りたい」という思いで書いたという『世界の食卓から社会が見える』(岡根谷実里、大和書房、2023)を読んだ。お料理本ではなく、旅先で食べた料理写真集でもなく、旅先の食文化を調べて書くいう点では私の興味と同じなのだが、その方向や深さが私の興味と違うところがあるから、疑問に思う個所もある。あるいは、「もっと知りたいのに」と悔しく思う個所もある。誤解のないように蛇足を書いておくが、この本を批判したいというのではなく、「もっと知りたい」という要望である。

 そこで、いつものように、この本を読んで気がついたことを書き出してみよう。著者がどのように書いているのか詳しく説明すると、それだけでかなりの行数になるから、ごくあっさりとしか書かない。だから、これから書く文章は、書評ではなく、私の読書ノートである。

ヨーグルト

 まずは、第1章の最初の項「ブルガリア ヨーグルトは本当に『伝統食』か?」について書く。

 著者は、こう書く。ブルガリアのヨーグルトは「実は由緒正しい伝統食ではなく」、ソビエト時代に計画された生産政策によって、生産・販売が強化された製品だから、ソビエト崩壊によって、「生乳が供給できなくなったことが、ヨーグルト消費量急減の原因だったのだ」。本書には、「ブルガリアの1日あたりヨーグルト消費量」の表がある。1989年以降、急激に消費量が落ちたことがわかる。だから、著者は「ヨーグルトはブルガリアの伝統食とは言えない」という結論にもっていく。

 しかし、だ。「100年前、200年前には、ブルガリアではほとんどヨーグルトは食べられていなかったのに」と証明されたならともかく、ソビエト時代以前のヨーグルト消費の話が出てこない以上、「伝統食ではない」という結論を出すのは無理だ。ソビエト崩壊後、ヨーグルト消費が減ったのは、「食べたくない」という者が増えたという「ヨーグルト離れ」ではなく、作りたくでも生乳が充分に手に入らず生産できなかったということだ。

 ついでに、日本における「ブルガリア」と「ヨーグルト」の関係について、私が調べたことをおまけの話として書いておく。こういう情報は、ネット上にいくつも出ている。1960年代なかば、元国会議員園田天光光(そのだ・てんこうこう 1919~2015)と駐日ブルガリア大使主人との交流や、1970年の大阪万博でのブルガリア館と明治乳業の関係などがあり、1973年に商品名に国名が入った「明治ブルガリアヨーグルト」が発売された。

 著者は、「伝統」だと思われていたものが、実は歴史が浅くとても伝統とは呼べないという例に、日本人とコメの話をしている。「庶民が今のように米を食べられるようになったのなど明治時代以降で、たかだか100年しかない」と書いているが、これはややこしい。「江戸わずらい」という言葉がある。。玄米を食べていた地方の武士が江戸に出てくると病気になる。江戸で毎日白米を食べていると、ビタミンB1不足になって発病するのが脚気だ。江戸では屋台に握りずしもあったくらいだから、米の飯は特別珍しいものではなかった。しかし、農村に目を向ければ、NHKドラマ「おしん」で有名になった「大根飯」のように、米に何かを加えて増量をするのは当たり前で、九州ならサツマイモを入れることが多かった。離島や山間部なら、1950年代になっても、雑穀やイモを主食にしていた村もある。だから、日本人が毎日米を食べるようになるのは「明治時代以降」だとは一概には言えないのだ。

 江戸時代、コメは作っているが年貢で取られるので、コメを食べられなかったという百姓もいれば、野菜作りに精を出し、コメは買っていたという百姓もいた。コメの話はややこしいのだ。