1655話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その3

 海外旅行の自由化

 

 ここで改めて、戦後日本の海外旅行史を簡単に振り返ってみたい。

日本人に限らず、外国旅行事情を考えるには、国の経済力という問題を頭に入れておかなければ旅行の歴史は語れない。

 1955年のアメリカ・イギリス合作映画「旅情」(Summertime)は、アメリカの地方都市で秘書をしている38歳の独身女性が、コツコツと貯めたカネを使って、「夢のイギリス、フランス、イタリア3か国旅行」の最後の土地ベネチアでのラブロマンスを描いている。世界一豊かな国アメリカでも、ごく普通の会社員にとって、旅行資金と長期休暇という二つの大きな障害を乗り越えないと、「夢のヨーロッパ旅行」は実現できない時代だった。アメリカ人といえども、大学生くらいの若者が気軽に外国旅行ができる時代ではまだなかった。第2次世界大戦が終わって、まだ10年である。私が見たことがある映画の中で、無邪気なアメリカ人観光客が現れるのは、「007 黄金銃を持つ男」(1965)である。

 日本は、1960年代後半に、「まだ貧しい国」から「やや豊かになってきた国」になりつつあった。

 日本がIMF国際通貨基金)に加盟したのは1952年だった。日本の経済力は未熟ということで、加盟国に課せられた義務をしばらくは守らなくてもいいという猶予を与えられた。当時の日本は、貿易で稼いだ貴重な外貨を有効に使うために、日本円の両替を制限してもいいというものだ。日本人の海外旅行が禁止されていたのは、日本円から外貨(おもにアメリカドルなど)への両替が厳しく制限されていた。外国へ行きたいと思う日本人は、自分の渡航が日本にとっていかに有効であるか説明し、政府の許可を得なければいけなかった。その許可とは、外貨の両替許可で、そのあとで、やっとパスポートの申請ができたのだ。

 1960年代に入り、IMFは「日本は経済的に豊かになってきたのだから、そろそろ、IMF8条国となって、普通の加盟国水準に移行しなさい」と勧告された。8条国移行の条件のひとつは、加盟国それぞれの通貨は自由に両替できるというものだ。外貨不足などを理由に、両替を制限しても許されていた国から、制限を撤廃する国への移行だ。

 IMFの勧告を受け入れた日本は、1964年4月に、誰でも外貨との両替を許された。海外旅行を制限していた規則が無くなったので、誰でも政府の許可など受けなくても海外旅行ができるようになったというわけだ。日本の海外旅行の自由化とは、日本政府が「もうそろそろ、国民が自由に外国に行けるようにしてやろう」という慈悲や温情の政策ではなく、欧米からの自由化圧力を受け入れた結果である。

 1964年に海外旅行が自由化された。ただし年に1回だけ許可され、持ち出せる外貨は500ドル、日本円は2万円までだった。66年に「年1回」という制限が撤廃され、69年に外貨持ち出し限度額が500ドルから700ドルになり、1970年には1000ドルに。71年には3000ドルに、日本円の持ち出し限度額が2万円から10万円に増額された。

 1964年の持ち出し外貨限度額が、「たった500ドルじゃ、満足な旅はできないよな」と思うかもしれない。今の感覚だと、500ドルは6万円にも満たないが、1ドルが360円時代の500ドルは18万円だ。大企業の工員の日給が500円、小学校教員の初任給が1万6300円の時代だから、18万円は若き小学校教師の10か月分の給料に等しい。現在の初任給を仮に20万円とすると、10か月分は200万円。1964年の500ドルは、「たかが500ドルぽっち」ではないのだ。ただし、当時の日本で18万円は大金だが、外国での500ドルは現在の200万円ほどの価値があったわけではない。

 旅行が好きな若者に外貨制限の話をしたら、「わざわざドルに両替しないで、日本円のまま持っていけばよかったじゃないですか」と言った。外国のどの銀行ででも、1万円札を出すとすぐさま両替してくれる時代が昔からあったわけではない。1966年のビートルズコンサートのギャラの一部は、1ドル400円で両替した闇ドルで手に入れたものだという時代なのだ。日本で自由にドルが手に入るなら、誰が闇ドルに手を出すか。この時代、米兵との闇ドル両替で商売繁盛だったのが、アメ横だ。

 海外旅行史の研究は、日本経済史やビートルズアメ横についても調べることだ。