1678話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その26

 戦後旅券抄史 4

 

 JCBカード、メルカリ、アマゾンなどの「なりすましメール」が続々と、かつ、しつこく着信しています。皆さま、ご注意を。

 というところで、パスポートの話の続きを。

 私が初めてパスポートを取ったのは1973年だった。その当時、どうやったらパスポートを取れるのか、まったく知らなかった。具体的にどのように動いたのか覚えていないが、県の旅券課に行って、申請に必要な書類は何か調べ、写真のサイズなどを知り、申請書類をもらってきたと思う。

 その当時必要とされた書類は、

一般旅券発給申請書 正副2通

写真 (5cm×5cm) 2枚

戸籍抄本 1通

渡航費用の支払い能力を示す書類」

受領時に「身分証明書の提示」が必要だったかもしれない。

料金は一次旅券 1500円、数次旅券 3000円

 写真の大きさは旅券課で聞いた。その当時、すでにインスタント写真のボックスはあったと思うが、パスポートの写真は、「インスタント写真不可」だったから、写真館に行った。いま、あの写真ボックスの歴史を調べてみたのだが、ネット情報ではわからない。その調査に全力を注ぐとパスポートの話が止まるので、今回は深入りしない。どこで読んだか、パスポートの証明写真は「正装でなければいけない」という話があり、服装が原因で撮り直しになるとカネがかかるし、面倒なので、スーツを持っていない私は、父の上着とネクタイを借りて写真館に行ったように思うが、はっきりとは覚えていない。今もそうだが、私は背広を持っていない。

 さて、1973年のパスポート申請に必要な書類のなかに、「渡航費用の支払い能力を示す書類」というものがある。団体旅行の場合は、旅行社が発行する斡旋証明書でいいのだが、個人旅行の場合はどうするのか。下調べのために県の旅券課に行ったとき、「支払い能力」をどう証明すればいいのか、窓口で聞いた。「預金や貯金の残高証明をもらってください」と言われた。「いくらあればいいんですか?」と聞いたら、「旅行するのに必要な額」という返事だったと思う。これも、何度も旅行できる数次旅券の時代には不要な書類だと思うが、お役所仕事だから、その後も存在した。

 『実用世界旅行』のページをめくっていて、「海外渡航のための外国へ向けた支払い承認許可申請書」のコピーがある。銀行でこの書類を出して、「両替させていただく」のだ。私が記入したのがこれと同じ書類だったか思い出せないが、銀行で渡された用紙は小さなわら半紙に印刷したもので、住所氏名などを書くだけだった。大蔵省に提出する書類だが、形だけのやっつけ仕事だということは明らかだった。ただ、両替は簡単ではなかった。パスポートの最終ページが「渡航費用に関する証明」欄になっていて、両替するたびに銀行名と金額が記入される。1973年の外貨持ち出限度額は3000ドルで、限度額がある時代だから、両替するたびにパスポートに両替額が記入され、限度額を超えないように規制されていた。わからないのは、なぜか1973年の両替は記入されていない。1974年の両替記録を見ると、アメリカン・エクスプレスで500ドルのトラベラーチェックを作っている。出発直前に、第一勧業銀行で35ドル分両替している。有り金を集めたのだろうが、35ドルというあたりが、泣けるじゃないか。

 両替記録は74年と75年だけがある。76年からはコック生活に入るので、しばらく出国はしていないから、76年77年の事情はわからないが、2冊目のパスポートは1978年発行で、そこには「渡航費用に関する証明」欄はない。1978年に、外貨持ち出し制限が撤廃され、日本円の持ち出し限度額が300万円になった。観光旅行に関して言えば、外貨両替制限はほとんど意味のないものになった。これが、『地球の歩き方』発刊直前の日本の外貨事情だ。

 1974年8月15日、ソウルで起こった事件が、日本のパスポートに大きな影響を及ぼすことになる。在日韓国人が日本人のパスポートを手に入れて韓国に渡り、朴大統領夫妻の暗殺をくわだて、夫人を殺害した文世光事件だ。犯人の文世光が他人の書類に自分の写真を添えてパスポート発給申請して取得したことを受けて、1975年3月に住民票と自分宛のハガキも旅券発給申請書類に含まれることになった。75年4月から、パスポートの写真に保護シートを張り付けるようになった。これで写真の差し替えが難しくなった。

 1987年に大韓航空機爆破事件が起き、日本の偽造旅券が使われた。その結果、どういう偽造防止策が取られたのか、私は知らない。