過去を知ることは重要だ。過去を調べる行為に、老いも若さもない。
経済に興味がない。経済書など読んだことがない。それなのに、戦後日本経済史関連書を読んでいたことがある。戦後日本人の海外旅行史を調べていた時だ。
日本で海外旅行が自由化されたのは1964年4月だということは、ちょっとした戦後史年表に出てくるし、旅行史の本でももちろん出てくるのだが、「なぜ、この時に、どういういきさつで自由化されたのか」という疑問に答えてくれる資料は見つからなかった。「国民に海外旅行をさせてやろう」と、政府が考えたのか。同年の東京オリンピックと、何か関係があるのだろうか。どうやら、誰も調べてみようとは思わなかったらしい。JTBの資料や旅行業界専門誌「トラベル・ジャーナル」の刊行物を読んでも、私の疑問に答えてくれる資料は見つからなかった。
日本政府の特別な許可がある者だけが渡航できた時代が終わり、旅行資金さえあれば誰でも自由に、どんな目的であれ渡航できるというのが海外旅行の自由化である。そういう自由化が、なぜ1964年だったのか。自由化というと、牛肉の輸入自由化とかオレンジの輸入自由化とか、経済問題に関係がありそうで、しかも対外圧力にも関係がありそうだというカンを頼りに、戦後経済史を読んでいったのである。
政府が国民の海外旅行を制限していたのは、経済活動で稼いだ貴重な外貨を持ち出すのが海外旅行だからだ。外貨(具体的にはアメリカドル)は、石油や生産に必要な機械や薬品などあらゆる物を外国から買ったり、生産に必要な特許料の支払いなどに充てるのにも不足しているというのに、物見遊山の海外旅行などされてたまるかというのが日本政府の考えだ。
観光で外貨を稼ごうという発想は、1912年創立のジャパン・ツーリスト・ビューロー(Japan Tourist Bureau、略称:JTB。現在のJTBはJapan Travel Bureau)あたりから始まる。旧称の方のJTBは、日本人相手の旅行会社ではなく、外国人を日本観光に誘う機関だった。1930年には鉄道省に国際観光局が設置され、愛知県の蒲郡ホテルなど国際観光ホテルができたが、観光立国の夢は戦争とともに消えた。戦後の日本政府は長らく外国人観光客で外貨を稼ぐという発想はなく、国土交通省に観光庁ができたのは、2008年である。国家の収益は鉄鋼や造船など重厚長大企業が支えるもので、「旅館の客引きのような旅行業者」(政治家も官僚も経済界も、そういう意識で旅行業を見下していた)など取るに足らないと考えていたし、外国人が「フジヤマ、ゲイシャ」以外の日本に興味を持つなどと思えなかったのである。旅行者が魅力を感じるものは欧米にあるが日本にはないと、日本人自身が思っていたのだ・・という話をすると長くなるので、今回はここまでにするが、国際観光ホテルの話をすれば帝冠様式といった建築の話になるし、歴史を調べると興味深い話題がいくらでも出てくる。
自由化以前に海外に行きたいと思う者は、自分の渡航が日本にとっていかに利益のあるものかを証明するさまざまな書類を添えて、申請書を提出する。その申請とは、外貨割り当てを求めるものだ。例えば、アメリカに行き、日本製品輸出の契約をしてくる。これで日本は儲かるというようなことを書いた申請書を委員会が検討して、許可が下りれば初めてパスポート取得を申請できる。「外貨を持ち出していい」という政府の許可を得ることが難しかったのだ。
1990年代に入って初めて海外旅行をした人に、過去のこういう制度を説明していたら、「そんな面倒なことをしないで、日本円のまま持って行って、外国で両替すればいいじゃないですか」と言い出したので、「目が点」とか「開いた口が塞がらない」という経験をした。いや、若い世代の無知を笑ってはいけない。私の説明が足らなかったのだ。
たとえ話だから正確さに欠けるが、1950年代はもちろん60年代に入っても、外国で日本円は自由に両替できなかったのだ。現在で言えば、ベトナムの通貨ドンやバングラデシュの通貨タカを日本国内の銀行に持ち込んで両替しようというようなものだ。1960年代に入ってさえ、日本円は国際的な信用がなかったのだから、日本円を持ち出してフランスで使おうとしても両替できないのだ。
1966年、日本武道館でビートルズのコンサートが開催された。ビートルズ側とプロモーターとの契約では、出演料はアメリカドルで支払うとなっていた。日本円で受け取っても、日本以外では紙クズでしかないのだから、外貨の支払い条件は当然だ。プロモーターは出演料に見合う日本円は持っていたが、そんな巨額のアメリカドルはない。両替できないからだ。
プロモーターは米軍基地周辺に赴き、闇ドルを集めたがまったく足りない。しかたなく、日本円が自由に両替できるほぼ唯一の場所である香港に飛んで、1ドル400円で両替した。日本国内なら1ドル360円の時代だ。それでもまだ足りないので、コンサート主催者の読売新聞社に泣きついた。マスコミは海外取材をしたり特派員を置いたりするので、外貨の制限が緩かったからだ。
香港で1ドルが400円で取引きされていた時代、日本大使館に勤務していた警察官僚の佐々淳行は、その当時の思い出話を、『香港領事 香港マカオ暴動、サイゴン─テト攻勢』で書いている。日本からやって来た官僚だったか国会議員だったかが、香港でかかる食費や買い物などの費用は大使館側に負担させ、支給された旅費の米ドルを1ドル400円で売り、日本円にして持ち帰ったという。1960年代の外貨事情というのはそういうものだったということが、思い出話でわかる。
海外旅行自由化へのいきさつは、次回に。