407話 東京オリンピック聖火リレー

 ついさっき、いつものように自宅で本の捜索をしていたら、アジアの旅行事情の資料として買っておいた本を見つけた。東京オリンピックに関連する本なので、前回の話のおまけとして紹介してみよう。
 その本というのは、『聖火の道ユーラシア』(麻生武治・森西栄一、二見書房、1962)で、3年後にひかえた東京オリンピックのために、ギリシャから日本までの聖火リレーのコース事情調査団の報告書である。「聖火コース踏破隊」という名称がけっして大げさではないほど、その旅は過酷なもので、できるだけ陸路で踏破するという計画を立てていたので、調査に半年以上かかってしまったのである。
「オリンピック聖火リレーコース調査隊」の隊長である安生武治は、オリンピック東京大会組織委員会参事で61歳。早稲田大学時代に、第一回箱根駅伝に出場。その後、スイス、ドイツに留学。日本人としてマッターホルン初登頂。1928年のサンモリッツ冬季オリンピックに日本人選手として初参加(スキー)。森西栄一はオリンピック組織委員会嘱託で運転担当。調査隊のマネージャー役の矢田喜美雄は、ベルリン・オリンピックで走り高跳びに出場し5位入賞した朝日新聞記者。日本の南極探検を企画した人物としても知られる有名記者だ。車両担当は、東南アジアに詳しい日産の元バンコク駐在員である安達教三、ほか2名の計6人。
 予定した調査スケジュールはこうなっていた。
 1961年の6月末に、2台のジープでアテネを出発。イスタンブールアンカラ、ダマスカス(アラブ連合)、バグダッド(イラン)、そして7月末までにイランの砂漠地帯に。
 8月にアフガニスタンのカブールからソ連に入りタシュケントから8月末までにパキスタン。9月から10月にパキスタンからインドに入り、ネパール、インド、ビルマ。11月ごろにはタイから終着地のシンガポール到着の予定。この計画は、政情不安だらけの地域でしかも情報がほとんど入らない時代の机上の空論だった。たとえば、アフガニスタンは、聖火をパキスタンに運ぶことを許さない。「一度ソ連に持ち出して、ソ連からパキスタンに運べ」という。しかし、ソビエトを自由に移動できるかどうか行ってみないとわからない。調査隊は、予定よりひと月ほど遅れて、61年末にシンガポールに到着した。1万7800キロの旅だった。
 私がもっとも気になったのは、ビルマ出入国を陸路でやる計画だ。これが実際どうなったかというと、まったくもって面倒臭い。ビルマは、インパールを経由するインドからの入国を認めているが、インドはこのルートでの出国を認めない。インドが提案してきたのは、アッサム州のレドからビルマのミッチーナーに入るルートだが、これはビルマ側が治安の問題で許可しない。そこで、インドからビルマへの入国を断念して、カルカッタから東パキスタン(現在のバングラデシュ)のダッカを経由してラングーンに入ろうと考えたが、道路はまだ工事中で開通まではあと3年かかるというから、このルートも使えない。
 そういうわけで、車はカルカッタからラングーンに船で運び、隊員はダッカから飛行機でラングーンに入った。ラングーンで車を受け取った踏破隊は、ビルマを走り回る。一度メイミョウまで北上して、そのあとインレー湖まで南下して、なんとタイのメーサイに入った。陸路での出国はできたのだ。ビルマ政府の許可を得て、ラングーンから自分で車を運転して陸路でタイに抜けた。戦後、合法的にこのコースをドライブした外国人は、それほどいないのではないか。
 さて、計画では、聖火はシンガポールから空路で東京に運ばれてリレーは終了となっていたが、現実はどうだったのだろうか。いま紹介した本は、東京オリンピックが開催される2年前に出版された本だから、予定と現実には大きな違いがあったはずだ。東京オリンピックの公式報告書を読むと、「全コースを、できるだけ陸路で」という計画がいかに無謀なものだったかわかる。理想や空想のルートではなく、実際に聖火が移動したルートを紹介してみよう。下に示したJOCのサイトにある資料を読むと、聖火リレーの全体像がだいたいわかるが、一応書きだしておこう。  http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/story/vol01_02.html
 開会式のおよそ2カ月前にあたる8月21日、東京オリンピックのための採火式がギリシャのオリンポスにあるヘラ神殿跡で行なわれ、(中略)翌22日には聖火リレーによりアテネに到着した聖火は、聖火空輸特別機“シティ・オブ・トウキョウ”号(日本航空/コンベア880M型ジャット)により、一路東京を目指すこととなった。
ギリシャから日本までは、イスタンブール(トルコ)−ベイルートレバノン)−テヘラン(イラン)−ラホール(パキスタン)−ニューデリー(インド)−ラングーン(ビルマ)−バンコク(タイ)−クアラルンプール(マレーシア)−マニラ(フィリピン)−ホンコンー台北(台湾)そして、9月7日に沖縄到着。
 海外聖火リレーの空輸総距離は1万5508Km、地上リレー総距離は732Kmだった。(前川注)聖火を飛行機で首都まで運び、その周辺をちょっと走ったというこ
とらしい。
 東京オリンピックの2年前、ジャカルタで開催されたアジア大会は、インドネシアが親中国(だから反台湾)で、当然親イスラム国家だから反イスラエルという政治姿勢を露骨に見せたものだった。日本がどの立場に立つかで2年後の東京オリンピックは中止になるかもしれなかった。イスラエルや台湾を招待しないアジア大会を、IOCは公認の大会とは認めなかった。だから、非公認の大会に出場する国は、IOCから除名すると警告された。日本がジャカルタアジア大会に参加すると、東京オリンピックは消滅するというわけだ。しかし、日本は、インドネシアとも仲良くしたい。さて、困ったという大会だったのだ。 
 1962年のアジア大会のことを知りたくて、図書館で新聞のマイクロフィルムを読んだことがあるが、ジャカルタで暴動(政府主導だ)が起きて、緊迫した政治状況がよくわかる。このアジア大会のことは、『ジャカルタの炎』(新村彰、彩流社、1982)に詳しい。聖火がインドネシアに寄らない理由は、そういうところにあるのだろう。
 マレーシア連邦も、シンガポールとの分離問題で揺れていた。政治的に大揺れの時代だったのだ。先程、さりげなく「アッサム州のレドから・・・」と書いたが、アッサムから雲南省に至る「レド公路」の話だけでも、1冊の本になるほどのトピックである。
この時代、中東も、インド亜大陸も、東南アジアも、東アジアも、大きく激しく揺れていた。だから、この時代の聖火リレーのコースを探るという遊びは、「戦後アジア政治史と東京オリンピック」という博士論文が書けそうなテーマでもある。
 東京オリンピックというのは、日本の小学生など想像もつかない政治状況のなかで開催されたのだった。