838話 神保町で火野葦平に出会う  その6


 関西大学が出している『東アジア文化交渉研究』という論文集の3号に、「火野葦平『中国旅日記』(1955年4月)翻刻」(増田周子)という論文があるのを見つけた。火野の旅のしかたがよくわかる。火野が小さな手帳に克明に書いていた旅日記を活字におこし、注釈をつけた50ページ近い労作だ。これを読むと、火野が「メモ魔」だということがよくわかる。じつに克明にメモし、おそらく原稿では使うことのない情報も書いてある。メモを書いているときは、どういう文章を書くか、まだ考えていないようだ。それにしても、農具をイラストで書き残しているのは、なにか気になったことがあったのだろうか。多方面にわたる詳細なメモを書いているが、書きあげた文章は、いわゆるルポルタージュという文章ではない。メモをあまりとらない私から見ると、過剰メモのように思えてくる。
 増田氏の論文で、インド旅行の帰路、中国に寄ったのでインドのことも少しはわかる。もっと知りたいのでさらに調べると、やはり増田氏の著作が見つかった。『1955年「アジア諸国会議」とその周辺 ―火野葦平インド紀行―』(増田周子、関西大学出版部、2014)が出ているとわかったので、すぐさま手に入れて読んだ。
 戦後の冷戦状態を打破するために、1954年スウェーデンの首都ストックホルムで、「国際緊張緩和のための集まり」が、40か国250人が参加して開催された。その時の日本代表はなんと41人。名簿を見ていくと、総評や日教組など労働組合の幹部の名前が出てきて、そういう人たちの会議かと思いきや、清水幾太郎学習院大学)や山之内一郎(東京大学)、そして政治家の宇都宮徳馬、桜内義堆、桜内義雄。園田直、中曽根康弘や、当時社会党議員だった松前重義の名もある。 
 54年の会議を受けて、アジア諸国だけの会議をやろうということになり、55年4月にインドで開催されることになった。これがアジア諸国会議(Asian Countries Conference)である。日本代表団34名とオブザーバー2名がインドに向かった。団長は政治家で部落解放運動の指導者松本冶一郎。政治問題担当団員で、名前に記憶があるのは、部落解放運動家の朝田善之助、平和運動家であり婦人解放運動家であり日本人女性として最初に博士号を取得した人物といわれる高良とみ。そして、木下順二火野葦平ら。
 このアジア諸国会議に参加した国は、インド、中国、日本、ソ連ビルマパキスタンベトナム民主共和国北ベトナム)、朝鮮人民共和国(表記ママ。朝鮮人民共和国は1945年に日本の敗戦後ごく短期間成立していたと言われる国。一般的には、アジア諸国会議は開催されたころの名称は、朝鮮民主主義人民共和国ということになるが、ここには非常に面倒な国際政治の事情がある)、セイロン、レバノン、ヨルダン、モンゴルなど14か国。ちなみに、バンドン会議の参加国は、29か国もあるから東アジアの諸国だけを紹介してもややこしい。中国が主導権を握っていたから、台湾、韓国、モンゴルは招待されない。当時は北朝鮮とももめていたので、北朝鮮も招待されない。ベトナムベトナム民主共和国の両方が参加しているのも興味深い。この場合のベトナムというのは、フランスから独立しジュネーブ協定によって南北に分断される直前の国で、バンドン会議が終わって間もなく消滅した。分断後の北ベトナムベトナム民主共和国だ。
 どちらかの会議が親共産主義で、もうひとつが反共産主義だというならわかりやすいが、そういう違いはない。さらに調べたくなるが、正直に言えば、興味深いが「あ〜、めんどくせー」という気分もある。わからないことがあるとおざなりにしておけなくて、ついつい調べ始め、調べれば興味深い事実がどんどん出てきて、過去の記憶と結びつく。「インドネシア アジア」というふたつのキーワードで、1962年にジャカルタで開催されたアジア競技大会が、イスラエル中華民国を招待しなかったことで紛糾し、暴動になったといったことなども思い浮かび、話がどんどんそれる。関連資料を読んで、戦後アジア関係史とかアジア政治史のお勉強を始めるとキリがない。そういう主流の学問は、ちょっと手を出す道楽程度にとどめておいた方がいいので、路線を旅行記に絞ろう。