837話 神保町で火野葦平に出会う  その5


 火野の自殺は、体調不良やうつ病が直接の原因ではあるが、同時に「戦意高揚の協力者」という過去の重圧が、戦後の火野を常に苦しめてきたということもある。だからこそ、戦後は平和運動に力を入れるとともに、遺作として『革命前夜』を書いたのである。ただし、そういうテーマの文章は数多く発表されているはずなので、同じような文章を私も書く気はない。
 日本人の海外旅行黎明期の事情を数々の旅行記で読み取っている私は、火野の中国や北朝鮮旅行記も読んでみたくなった。その本が『赤い国の旅人』(朝日新聞社、1955)だということがわかり、ネット古書店で見つかったが、それほど安くない。内容がまったくわからない本に送料を含め2000円近いカネを使う気はない。ほかに版があるかもしれないと、国会図書館の蔵書リストから探ったら、『新選現代日本文学全集19 火野葦平集』(筑摩書房、1959)に入っているとわかり、古本屋で安く買えることもわかったのですぐさま購入。短編・長編を3段組みにしたお得な全集だ。解説は青野李吉と川上徹太郎。ふたりとも名前だけは知っている人物だが、青野の息子の青野聰は、1966年に日本を出て、世界をさまよい、放浪文学『天地報道』(烏書房、1972)を書いた芥川賞作家(1979年受賞)ということで、私でも知っている。その本は、阿佐ヶ谷の古本屋で買ったことを覚えている。『天地報道』のそばにあったのが、バグワン・シュリ・ラジニーシという時代だ。いかにも、1970年代の中央線沿線の古本屋の品揃えである。この話は、すでに書いた。
 http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/20111217/1324145364
 話が横道にそれた。
 『赤い国の旅人』を読み始めたら、さっそく新事実を見つけた。1955年4月の香港からは話が始まるのだが、このときの中国旅行はおまけだったことがわかった。
「四月六日から十日まで、インドのニュー・デリーでアジア諸国会議が開催されたが、それに出席した日本代表四十名あまりのうち、二十八名が中国政府から招待をうけて、中国に入るのである」
 アメリカに行く前に中国を旅したということがわかったので、中国旅行記を読み始めたというのに、中国の前にインドに行っていたのか。それが戦争以外で初めて出かけた外国旅行なのかと思ったら、違った。1953年に、アイルランドのダブリンで開催されたペンクラブ会議に出席するとともに、エリザベスⅡ世戴冠式見物やヨーロッパ旅行をしばらく楽しんだらしい。まだ日本人が自由に外国旅行ができる時代以前に、火野はかなりの旅行歴があったのだ。
 そこで、時系列通り、火野の海外旅行をヨーロッパ旅行記から読んでみようと思ったのだが、短編小説は書いたらしいがまとまったヨーロッパ旅行記は書いてないらしい。雑誌に書いた短文などを探せば、もしかして旅行エッセイが見つかるかもしれないが、そこまでして読みたいとは思わない。今は、「ヨーロッパのことなど、どうでもいい」と見捨ててしまわないと、アジアの旅に行きつかなくなりそうだ。先を急ぐことにしよう。
 アジアの旅といっても、事は簡単ではない。わからないことが多すぎる。そもそも「アジア諸国会議」がわからない。1955年のアジアの会議といえば、アジア・アフリカ会議、通称バンドン会議は中学か高校の歴史教科書でも取り上げている重要な会議で、インドネシアのバンドンで開催された会議だ。火野が参加した「アジア諸国会議」は、インドのニューデリーで開催された。調べてみれば不可解なことに、ふたつの国際会議は、どちらも1955年4月に開催されている。アジア諸国会議は4月6日から10日まで。バンドン会議は4月18日から24日までだから完全に重なるわけではないが、「なにかあるのか?」という疑惑は湧く。
 この先はかなりややこしくなるので、次回にまわす。