1300話 スケッチ バルト三国+ポーランド 19回

 旅行者たち その2

 

メキシコ人 エストニア・タリン

 ときどき世間話をする宿のスタッフが、夜の10時ごろ「そろそろ帰るわ」と言ってリュックを片方の肩にかけた。朝8時前にはすでにウンターにいたのを見ているから、「長い労働時間だったね。今日は何時間の勤務だったの?」と聞いた

 「労働? あたし、ここで働いているっていう気がしてないの。毎日、いろんな人と会って、おしゃべりして、教えてあげたり教えてもらったり、笑ったり、議論したりしているから、労働しているという感覚はないのよ」

 ゲストハウスのスタッフは、自分の旅をひと休みしてしばらく定住している人が多い。資金稼ぎをしたり、旅行計画の立て直しをしたりするのだが、基本的に人間が好きな人が多い。他人と触れ合うのが苦手という人は裏方の仕事はしても、カウンターに座る仕事はあまりしない。人が好きで旅が好きだという人が、安宿にしばらく定住する。給料はあまり良くないだろうから、資金稼ぎと言う意味ではあまりいい仕事ではないが、「労働とは思えない楽しい日々」を過ごすには悪くない。

 私はスマホを持たない旅行者だから、日本で宿を予約したラトビア以外では、いきなり安宿に行き、「部屋かベッド、あります?」と聞く昔ながらのスタイルを取っている。だから、「残念ながら満室で・・・」と言われるのはよくあることだ。「この近くで、どこかいい宿は・・・」と言うと、地図を広げて「ここか、あるいはここに行ったら、もしかして部屋があるかもしれませんよ」などと言いつつ、地図に印をつけて、宿の名前を記入してくれることもある。なかには、「ちょっと待ってくださいね。えーと、あそこは、きょう、部屋があるかなあ・・」などと言いながら、スマホで近所の安宿の空室状況を調べ、「あっ、ありますよ、予約します?」と親切に面倒を見てくれるスタッフもいる。

 だからこそ、リーガのあの“ソビエト”ホステルに腹が立つのだ。

f:id:maekawa_kenichi:20190814092222j:plain

 タリンの街の向こうに港。フィンランドまですぐだ。ただし、港の向こうに見えるのはタリンの半島でフィンランドではない。

中国語人 リトアニア・ビリュニス

 宿のリビングルームで旅のメモを書いていたら、「ええ、ライターです。旅行記を書いているんです」という英語が聞こえてきた。ノートパソコンを広げている40前後くらいの女。明らかに東アジア出身という顔つきの旅行者と、西洋人の顔をした旅行者が話をしている。「いえ、英語じゃないです。原稿は中国語で書いています。旅先から原稿を出版社に送りながら旅行をしています」。

 その顔つきから、「多分、中国語人だろう」という予測はついていたが、台湾人か香港人か中国人(中華人民共和国国民)かの区別はつかなかった。中国系アメリカ人というような英語ではなかった。香港人の英語は、中国系シンガポール人の英語(シングリッシュという)のように早口で語尾が消える英語を話す人が多いので、「香港人説の可能性は低いよな」などと想像していた。旅先で出会った人の背景を、その言動から想像するという遊びを日常的にしている。駅やバスターミナルなどで聞こえてきた言語が、いままで聞いたことのない響きだと好奇心がより強くなり、その人たちに「ねえ、今話しているのは何語ですか?」とたずねたくなる。

 ちょっと離れたテーブルで話をしている中国語人ライターは、いままでの冒険旅行の自慢話を始めたので、話しかける気分が失せた。私は、「〇〇に行った。どうです、すごいでしょ」というだけの旅行体験談にはほとんど興味がない。とはいうものの、日本人以外のアジア人の外国体験記は読みたいという好奇心はある。もう20年以上前になるかもしれないが、台湾人女性のサハラ砂漠旅行記を読んだことがある。その本の著者名もタイトルが思い出せないのだが、ヨーロッパで暮らしている画家が男といっしょにアフリカに行った話だったかもしれない。その本は、希少価値はあると思い買ったのだが、想像通りあまりおもしろくはなかった。

 日本人が書いた旅行記ならその内容に想像はつくが、日本以外のアジア人の旅行記なら、どういうカルチャーショックがあるのか、何に不満があるのかといったことなどを知りたい。昔と違って今はネット上に旅行記が発表されているから、中国語や韓国語がわかればさまざまな体験記を読むことができるのだろうが、翻訳アプリを使ってこまめに読むという作業はまだしていない。まあ、どうせ食べ物の写真と自撮り写真ばかりだろうと思うのだが・・・。

ブラジル人 リトアニアビリニュス

 宿のキッチンで日記を書いていると、向かいの席に男が座った。スーパーで買ってきたトマトソースのパスタを電子レンジで温めたところだ。

 「おいしい?」

 「うん、悪くない。安いしね。レストランでひとりで食べるのはつまらないし、高い。ここなら、こうやって、誰か話し相手がいたりするし」

 「いままで、どういう旅をしてきたんですか」

 「ブラジルから北欧に飛んで、ここまで南下して・・・」

 「ブラジルから、はるばる!」

 日本人にとって南米はたしかに遠いが、ブラジル人にとってヨーロッパは、東アジアに行くよりもずっと近い。

 彼は前回のヨーロッパ旅行でポルトガルに行ったというので、ポルトガルの話をした。私が強く印象に残っているのは、ポルトガルのテレビ番組にブラジル制作のものが数多くあったということだ。連続ドラマもそうだった。音楽番組もあった。

 「そういえば、ガル・コスタのスタジオライブも放送していたし・・・」と思い出を話した。

 「ガル・コスタを知っているんですか。ボク、大好きですよ」

 「彼女は有名歌手だからね。嫌いじゃないけど、『まあ、悪くないな』という程度かな。サンバが好きだから、ブラジルの歌手で一番好きなのは、なんといってもクララ・ヌネスだ」

 「えーと、よく知らない歌手だな。たしか、母が好きだって言っていたような気がするんだけど」

 そこで、はっと気がついた。サンバ歌手クララ・ヌネスは、1983年に40歳で死んだ。麻酔医のミスだった。そのちょっと前に彼女の歌声に出会い、夢中になって聞いているときに、彼女の突然の死を知った。1983年といえば36年前だ。今、私の前でパスタを食べているブラジル人が生まれるずっと前のことだ。

 「どんな歌を歌っていた人なのかも知らないんです」というので、私はいくつかの曲名を上げたが、まるで心当たりがないようだった。試しに超有名歌手の名を挙げてみたが、カルトーラ(1908~1980)も、ネルソン・カバキーニョ(1911~1986)も、彼が生まれる前に死んでいる。ベッチ・カルバーリョは、たまたま今年4月に死んだばかりなので、「名前は知っている」といった。

 サンバはその全盛期をとっくに過ぎた音楽ジャンルであると同時に、下層階級の人たちが好むジャンルなので、中産階級以上の人は初めから興味はない。現在のサンバは、「観光客を相手にしたカーニバルの音楽」でしかない。

 「MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ、ブラジルのポップ音楽のこと)じゃなくて、サンバとかショーロのような古臭い音楽が好きで、そうだ、バイーアの音楽も・・・」などと話していたら、「日本人が、なぜブラジル音楽にそんなに詳しいんですか?」といぶかしげだった。

 「詳しくはないさ。少し知っているだけだよ。日本にも、世界にも、ブラジル音楽ファンは多いよ。キミが想像している以上に、ブラジルの音楽は世界に広まっている。すごい国なんだよ」

 

f:id:maekawa_kenichi:20190814092709j:plain

 ワルシャワから夜行バスでリトアニアビリニュスに着いた。幸運にも、この宿にベッドがあった。「チェックイン時刻までまだだいぶありますから、リビングルームで休んでいてもいいですよ。バスルームは奥にあります。ご自由にお使いください」。そういうやさしい声をかけてくれた。

 ヒッピー時代を思わせるホステル・ジャマイカは、鉄道駅やバスターミナルに比較的近く、1段ベッドだから狭苦しさがない。ベランダがある2階リビングで毎日話をしていた。星条旗を掲げているのは、かつての社会主義時代には、アメリカは自由の象徴だったからだと思う。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190814092811j:plain

 宿のすぐそばにハレス市場がある。建物2階は飲食店街。スーパーマーケットも近くにあり、抜群のロケーションだ。宿に台所があり食器もあるから、長居をしたくなる。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190814092856j:plain

 街を散歩していたらハレス市場の昔の写真があったが、外見に変わりがないのでおもしろくはない。