1186話 大学講師物語 その15

 私の旅行史研究 (3)


 「若者の旅の歴史」をテーマに、何年か授業をした。その資料をだいぶ集めた。
 講師の給料というのは、時給換算すると1万円ほどだ。90分授業だから、1回の授業で1万5000円ほどになるが、そのカネはほぼ資料代に消えた。「資料代」として特別に支給されるわけではないので、実質的にはほぼ無給で授業をやっていたことになる。まあ、道楽だ。
 資料というのは大きく分けて、書籍とCD&DVDだ。授業で何回か世界の音楽を取り上げたから、その資料として買い集めた。大学の図書館にもCDやDVDはあるが、劇映画が中心だから、私が使いたくなるような作品はない。音楽CDはほとんどが西洋古典音楽、いわゆるクラシックだから、やはり授業では使えない。ユーチューブでも探し出せることはあるが、「よりいい音で」と考えると、どうしてもCDを買うことになった。CDを山ほど買ったのは、「資料」を名目に、さまざまな音楽を聞いてみたかったせいでもある。
 ある音楽を聞いて旅をしたくなることがある。インド音楽を聞いて、現地で生の音を聞いてみたくなる人がいる。旅先の街で流れていた音楽が耳に残り、レコードやカセットテープを買う若者がいる。あるいは大量に買い込んでレコードを店で売ったり、買い付け専門の輸入業者になる人もいる。コンサートを見るために外国に行く人もいる。音楽好きの旅行者がライターやディレクターなどとして、音楽業界に入っていた若者もいる。音楽と旅は密接に結びついている。音楽が未知の世界に案内してくれることもある。だから、授業で音楽も扱ったのだ。授業という偶然で、いままで耳にしたことがないジャンルの音楽に出会えれば、それが新しい世界への渡し船になることもある。
 CDは箱に詰めてあちこちの床に積んである。本はとっくに棚には入らず、床に積んである。講師を始めてから買ったCDは数百枚、本は数百冊。十数年間に買ったものだから、1年にしてみれば大した量ではないが、チリも積もれば山となり(チリではないが宝というほどではない)、その処理に困っている。
 今も机の上に買い集めた旅行記の類が山と積んである。半世紀以上前に出版された本は、すでに棚に収まっているから、今机に積んであるのは行き場所を失っている比較的新しい本だ。ざっと見まわすと、こんな本がある。
 1925年の95日間空の旅の記録『朝日新聞訪欧米大飛行』上下(前間孝則講談社、2004)がある。韓国人の中国旅行記中国東北部の「昭和」を歩く』(鄭銀淑東洋経済新報社、2011)がある。『開高健オーパを歩く』(菊池治男、河出書房新社、2011)もある。『青年・渋沢栄一の欧米体験』(泉三郎、祥伝社新書、2011)や『地図のない場所で眠りたい』(高野秀行角幡唯介講談社文庫、2016)もある。ほかに、『新伊和辞典』(白水社、1964)、『須賀敦子全集第3巻』(河出書房新社、2007),『記者ふたり 世界の街角から』(深代惇郎、柴田俊治、朝日新聞社、1985)、『羽田の空 100年物語』(近藤晃、交通新聞社、2017)、『水野あきら/あちこちスケッチ集1 三輪車』(水野あきら、2010)、『天の涯に生くるとも』(金素雲講談社、1989)、『バーナード・リーチの日本絵日記』(バーナード・リーチ講談社、2002)、『日本文化の形成』(宮本常一講談社、2005)などなど多数。いずれも、広い意味で異文化体験を考える資料である。数十冊が机にのっているから、地震注意である。
 私が本を買うのは、買うのが趣味だからではなく、集めるためでもない。私には買い物癖も収集癖もない。読んでみたい本を買うだけだ。インターネット古書店をよく利用するが、「おもしろい」とか「豊富な資料が詰まっている」とすでにわかっていて注文した本はあまりない。図書館にはない類の本だから、買うしかないのだ。わざわざ国会図書館に行ってコピーするなら、買ったほうが安い。例えば、やはり机にのっている『外国航路石炭夫日記』(広野八郎、石風社、2009)は、1930年前後の4年間、外国航路で石炭夫だった男の日記だ。この本をアマゾンで見つけて、ちょっとためらいもあったが、手に入りにくい本だから注文した。本が届いたら、「やはり」であった。だから、ためらったのだ。以前にこのブログの265話(2009年8月)で紹介した『華氏140度の船底から』上下(広野八郎、太平出版社、1978)と基本的に同じ本で、用語解説をつけるなど多少手を加えてある。
 この本について言及したのは、262話から始まる「マドロスの基礎研究ノート」全4回のなかでだが、このときに船員の外国体験の資料をいくつか紹介した。最近手に入れたのは、『蔵出し船長日誌』(赤尾陽彦、文芸社、2015 )。文芸社の本に倉本聰が序文を書いているのは、著者と国民学校時代からの付き合いがあるかららしい。
 広い意味の旅行記、あるいは異文化体験記と言ってもいいのだが、その手の本を買い集めるのは、有名な作家やジャーナリストのもの以外、すぐに消えていくからだ。旅行史研究ではあまり触れない個人旅行を調べるなら、さまざまな資料を集めるしかない。旅行記研究というのは、文学研究の範疇で扱われることが多く、いつまでたっても漱石や鴎外、林芙美子を取り上げておしまいというのが多い。だから私は『旅行記でめぐる世界』(前川健一、文春新書、2003)では、有名作家の旅行記は極力さけたのであるが、それは旅行記研究の分野では異端である。澁澤龍彦三島由紀夫や、司馬遼太郎檀一雄村上春樹が、外国ではゲーテランボーヘミングウェイが出てこないと、読者の関心を呼び起こさないのは明らかだ。しかし、私は柳の下のどじょうの群れに入りたいとは思わなかった。今まで数多く書かれた有名作家の紀行文研究の焼き直しをする気はなかった。だから、せっせと無名人、あるいは文豪ではない人たちの旅行記を買い集めて読んできたのである。そして、著名人がほとんどでてこない『旅行記でめぐる世界』は、やはりほとんど売れなかった。