433話 アジアの練習問題  ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 次の文章を読んで、誤りがあれば訂正せよ。
①東南アジアの別称は、インドシナである。
②東南アジアの人たちがトイレで紙を使わないのは、インド文化の影響である。
③東南アジアの4月5月は、乾季にあたる。
ビルマのワイロ政治は、アジア特有のずさんさのせいである。
⑤タイでは、肉はそれ自体では料理にならない。タイ人はステーキを料理とは認めていない。
 これは、『アジア極楽旅行』(下川裕治、徳間文庫)からごく一部を取り出し要約したものである。著者はただの旅行者ではない。アジア物を多数出版し、アジアでの生活も長いライターである。経歴や著作リストを見れば、豊富な知識を持った書き手であるはずなのだが・・・。
 要約した部分を考察してみよう。
①「インドシナ」(仏語 Indochina)という呼称は、フランスが言い始めた表現で、元々は東南アジアのフランス領3国(ベトナムラオスカンボジア)をさし、広義にはそれにタイとビルマを加えた地域をさす。決して、東南アジア全域の別名ではない。
②アジアでもアフリカでも、トイレで紙を使わないのは、インドの影響を受けているからだそうですが、信じます? それならば、インドはどこの影響を受けたのか。インド人が独自に開発した技術なのか。
③東南アジア各地の年間降雨量の変化を調べよ。降雨量が少ない時期は、ジャカルタでは7〜9月ごろ、マニラでは1〜4月ごろ。バンコクでは12〜3月ごろだが、タイ南部のソンクラーでは2月から9月ころまで雨が少ない。一律の「東南アジアの気候」などないのだ。
④では、インドのワイロ政治の原因も、アジア特有のずさんさのせい? ナイジェリアのワイロ政治は、アフリカ独特の・・・、メキシコのワイロ政治は、北アメリカ独特の・・・・? イタリアは・・・?
⑤カイ・ヤーン(鳥肉の炭焼き)や、ヌア・ヤーン(牛肉の炭焼き)も、下川理論では当然、料理のうちには入らないことになる。料理でないなら、これらは、いったい何?
 取材もせず、資料も読まずに、思いついたことを、あたかも事実であるように、無知な読者に教えてあげようとするから、いつまでもこういう文章を垂れ流すことになる。この本で唯一情報の出典を明記しているのは次の話。
 「冨田竹二郎編著の『タイ語辞典』には、四十三種のタイの菓子がでているが、そのうち、米を使った菓子は、三十五に及んでいる」
 もっともらしいが、実際にその辞書のページにあたれば、この説明もかなり怪しいことがわかる。
 次は一転して、出来のいい本だ。農民作家山下惣一が、タイの田舎にまたやって来た。『タマネギ畑で涙して』から6年、今度の本は『タイの田舎から日本が見える』(農文協)。たった6年で、あの村もこの村も、すっかり姿が変わってしまった。前作と違い、資料の引用が多いのでやや読みにくいが、筆はいつものように冴えている。日本の百姓作家の本だから、「農村の生活は、のどかで、素朴な人に囲まれていて、すばらしい」などとはもちろん書かない。タイの農村は、かつての日本の農村に似ている。農作業の助け合いやコメや牛馬の貸し借りなど、互いに助け合う共同体のなかで生きている。
「そうしなければ生きていけなかったのだ。選択してやっていたのではなく、やむを得ず、あるいは必要に迫られての暮らし方だった。 そういう暮らしがいやで、うっとうしくてそこから脱出するために努力してきたのがわたしたちの戦後五十年ではなかったのか」。
 この文章は、鋭い。日本人の戦後は、助け合わなくても生きていけるように自立を目指したのだ。隣りから醤油やコメを借りなくてもいいような生活をしたくて、懸命に働いてきたのだ。
 今回のタイ取材の通訳を務めたひとりが、『タイ鉄道旅行』(めこん)を書いた岡本和之さんだから、最高のスタッフだ。6年前の前作が出たときに、「すごい本が出たよ」と岡本さんに話したことなども思いだした。
 いつかヤシの本を書こうかと思っていたのだが、これで書かないで済んだと安心した。『ヤシの実のアジア学』(鶴見良行・宮内泰介編著、コモンズ)が出たからだ。鶴見さんを中心に「ヤシ研究会」ができたそうなので、ヤシの話はそちらにお任せして、私は別のテーマに手をつけよう。
 きょう買ってきた『日本と世界の自動車カタログ九七年版』(成美堂出版)は、ドイツの自動車雑誌の翻訳版だ。中国・韓国・インドの自動車は多少紹介されているが、東南アジア全域で紹介されているのは、マレーシアのプロトンだけなのは物足りない。免許証さえ持っていない私がこういうムックを買う理由は、国による自動車の変容に興味があるからだ。まあ、言ってみれば、自動車民族学か。例えば、インドネシア仕様の車は、どんな特徴があるのかといったことを知りたいのだ。
 今年はあまり手を広げず、テーマを決めてじっくり調べようかと思っているのだが、どうテーマを絞っても、ついつい雑多な資料を買い集めてしまう。      (1997)
記:その後、ヤシ研究会がどういう活動をしているのか知らないが、ヤシ関連の名著が出ているという話は聞いていない。ちなみに、『ヤシの実のアジア学』の発売は96年で、その2年前に鶴見さんは亡くなっている。自動車好きとマンガ好きは、ど〜しようもないというコラムは、いずれ機会をみて。