630話 読書範囲は狭いのだが・・・

 このコラムでも、「好奇心をいっきに広げて、さまざまな視点で考えている本を読みたい」などと書いているが、じつは私の読書好奇心は非常に狭い。
 本の分類は、図書館で採用されている「総記」「哲学」といった分類は一般的にはわかりにくいので、丸善ジュンク堂のネットストアの分類を紹介してみよう。
 文芸書、文庫・新書、実用書、コミック、社会・経済、人文・教育、理工書、PC,芸術・音楽、児童書、語学・学参、医学・福祉
 このなかで、まったく読まないのが、実用書、理工書、PC,児童書、医学・福祉。コミックも、ほとんど読まない。ミステリーであれ、時代物であれ、翻訳であれ、小説を読まないから、文庫の多くも読まないことになる。エッセイは読むから、「文芸書」を全く読まないというわけではない。いわゆるビジネス書は実用書なのか経済書に入るのかわからないが、このジャンルの本も基本的に読まない。「基本的に」というのは、1964年の日本の海外旅行自由化は経済問題によるものだったとわかって、戦後の日本経済史をまとめて読んだことはあるという意味で、旅行業界、航空業界、観光業界といった分野で、調査上どうしても読まなければいけないという事態になれば仕方なく経済書だろうがどの分野だろうが、何でも読むが、通常はまったく手を出さない分野だという意味だ。「語学・学参」は、学習参考書は読まないが、言語学の本はある程度は読む。
 こういう私だから、かつて新書には読みたくなる本がいくらでもあったのだが、粗製乱造が激しい昨今、読みたくなる新書は少なく、新刊はほとんど買わなくなった。比較的多く買う新書は、平凡社新書だろうか。
 このように、読まない分野の本を外していくと、私が読みたくなる本は実に少ないことがわかる。小説を読まない、健康法の本も自己啓発本も読まない、資格取得のための参考書も読まない。フィクション&ノンフィクションの両部門の売上ベストテンに入る本を読むことはまずない。過去のベストセラーを何冊か読んだことはあるが、その多くは参考資料として読む必要があったから読んだのであって、読みたくて読んだのではない。どんなジャンルであれ、ベストセラーのリストに上がるような本を読むことはない。ベストセラー本は読まないと決めているわけではない。読みたくなる本が、ベストセラー本にないだけだ。人との付き合いで、ベストセラー本にも一応目を通しておかなければいけないサラリーマンではないから、好きな本だけ読んでいるだけだ。
 好奇心が狭いから、読みたい本を探すにはどうしても大書店に行くことになり、インターネット書店での買い物が多くなるのだ。ネット書店を否定したがる人は、こんなことを言う。
 「インターネット書店での買い物は、ピンポイントの発注だから、世界が狭くなる。書店で本を選べば、棚を眺めて買うことになるので、知らない著者の本や、いままで興味のなかった分野の本に出会うことになる。だから、街の本屋に行け」
 私は、ネット書店でも、ピンポイントで本を探さないことも多い。ある本を読んでいて、ある人物についての記述が興味深いと、その人が書いた本や関連書が気になって探す。あるいは、台湾関連書をすべてチェックするというような、テーマ別検索もよくやる。国会図書館で検索した結果わかった文献リストをもとに、おもしろそうな本をネット古書店で検索することもある。例えば旅行記なら、「海外旅行 1950〜1960年代までの出版」などと年代を区切って検索し、おもしろそうな本が見つかったらネット古書店で探す。高くなければ買い、高いと図書館で探す。だから、「旅行記」を調べるという点では狭い範囲の検索だが、「旅行記なら何でも」ということでは広いともいえる。今はもうやらないが、かつてはタイ関係の資料なら何でも読んでいた時代があった。日本語や英語に翻訳されたタイの小説や、学術論文や、アジア経済研究所やバンコク日本人商工会議所の報告書なども読んでいた。タイ在住のアメリカ人の団体が発行している雑誌も、バックナンバーを買い集めて読んでいた。だから、読書範囲は広いともいえるし、狭いともいえる。
 一般的には関心分野の狭い私だから、蔵前仁一さんや田中真知さんのように、文理両道の読書家に出会うと、教養の底力の差を感じるのである。基礎学力の差や強い知的好奇心の差を感じるのである。そういえば、宮田タマキング珠己さんも、私にはちんぷんかんぷんで、ややこしく難しい本を読むのが好きな人らしく、やはり教養の差を実感する。よくわからない内容の本でも、我慢して読み続ける忍耐力が蔵前・真知、宮田3氏にはある。そこが、昔から好きな本しか読まない私との大きな違いである。「退屈な読書」を楽しめるような、心の余裕はない。
 読んでみて、内容が理解できない本は無理して最後まで読む必要はない。私はそう思っている。専門書ではなく、一般の読者を相手にした本で、私が読んで理解できない文章なら、それは書き手の日本語能力に問題があり、私の読解力には問題がないと思っている。私の日本語力は、特に優れてはいないが、特に劣っているとも思わない。だから、私が読んで内容を理解できない一般書は、私に問題があるのではなく、書き手と編集者に問題があると思うことにしている。
 専門書でも、私にある程度の知識がある分野なのによく理解できない本は、その本を書いた学者の稚拙な日本語のせいだと思うことにしている。翻訳者の日本語力が問題ということもある。無理して最後まで読む苦痛を喜びにはできないので、つまらないと、「はい、さようなら」と、その本を閉じる。私は、少年時代から「根気と努力」とは縁遠い。
難解と言われる本を「読んだ」と自慢したい性癖は、私にはない。そういえば、1960年代末から70年代に、「難解」と言われる本をむき出しで片手に持って街を歩いている大学生がいたなあ。本棚にさしておいて、友人が遊びに来た時に「こういう本も読んでいるんだぞ」と見せびらかすためだけの本があったが、私はそういう見栄の本を手にすることはなかった。
 最近は、あまり本の話を書いていないので、次回から何回かにわたって本の話を書くことにしよう。