631話 日本統治時代の台湾

 
 台湾の書店で気がついたことはいくつもあるが、そのひとつは「懐かしモノ」がけっこうあるということだ。日本の「懐かしの昭和」と同じように、1960年代あたりを懐かしく思うという本もあるが、台湾らしいのはもうひとつの「懐かしモノ」で、それは日本時代を振り返るというテーマのものだ。その類の本がけっこうあって、豊富な写真や新聞記事の切り抜きなどがあるから、外国人である私でもなんとなく雰囲気がつかめる。
 『日本統治時代の台湾』(陳柔縉著、天野健太郎訳、PHP研究所、2014)も、そういう本の一冊で、「翻訳されればいいが」と思っていた分野の本が、幸運にも翻訳された。日本統治時代(1895~1945)に発行された新聞や雑誌を情報源に物語を構成した本で、日本ならひと昔前の荒俣宏が書きそうな世界だ。日本統治時代に発表された風刺漫画を取り上げた力作『日本統治下の台湾』(坂野徳隆、平凡社新書、2012)は、社会科学系統の内容だったが、こちらは物語である。
 読んでいてまず気がつくのは、著者よりも訳者の方がよく勉強していて、物知りだということだ。本文についているおびただしい訳注は、「よくぞ、調べたり」と称賛に値する内容と分量だ。
 1916年1月、台湾で最初のマラソン大会が開催されたが、これは日本人限定参加だった。台湾人も参加した大会は同年4月に「台湾日日新聞」が主催した「全島マラソン大会」だったらしい。「全島」といっても、島を一周するような大会ではなく、コースは台北の12キロだ。参加者は、日本人限定の1月の大会では「大人」と「子供」に分けていたのだが、4月の大会ではなぜか「日本人の部」と「台湾人の部」に分けて開催された。この分類に関しては、著者も「納得がいかない」と書いている。推察すると、大会には数多くの商品が用意されていて、「日本人選手限定」という賞品もあったということなので、豪華賞品を台湾人に渡したくないというセコイ配慮だったのかもしれない。日本人の部優勝者の藤岡計吉は53分18秒、台湾人の部優勝者林和の優勝タイムは51分41秒。やっぱり。日本人と台湾人を同時に走らせると、日本人が優勝できないとわかっていたから、両者を分けて走らせたのだろう。私がこのエピソードに興味を持ったのは、この二人の優勝者ともに、職業は人力車夫だっただからだ。
 この全島マラソン大会の話は、今から100年ほど前、「全台湾でたった三〇台」しかなかった頃の物語と書いているが、たぶんこれは誤りだ。そんなに少ないわけはないと思う。人力車や三輪車は私の関心分野だが、ここでは深入りしない。優勝者ふたりの職業はどちらも人力車夫だったが、日本では車夫は「走るプロ」とみなされて、マラソン大会への参加は認められていなかったということをすでに知っていたから、このエピソードが印象に残ったのである。
 台北駅裏にあるバスターミナル&ショッピングセンター「Q square」は、かつてはタバコ工場だった。日本時代の女性工員約300人に対するアンケート調査の結果が「専売通信」(昭和6年、3月、4月号)に載っているそうで、その内容を抜粋して紹介している。
 全体的にみるとそれほどおもしろいものではないが、なかには「ほーお」と驚くこともある。「好きな食べ物」という問いに、10人が「牛乳」と答えている。著者はこう解説している。「つまり当時、牛乳はかなり普及していたということで、戦後広まった豆乳よりもずっと早く台湾人の食卓に仲間入りしていたことになる」。そうか、台湾では豆乳の歴史は牛乳よりも浅いのか。
 食べ物の話では、味の素やカゴメのケチャップのことや、駅弁の話もある。さまざまな心中事件を追った「美麗島心中」や、泥棒の記事を集めた「台湾盗賊奇譚」もおもしろい。今なら、テレビのワイドショーの話題になるような事件を集めて紹介している。
 台湾に行くと、「日本時代には、泥棒はいませんでした」という話を何度も聞いたことがある。そのことに関して著者は、「昔はよかった――は幻想だ」として、さまざまな盗難事件を紹介しているが、ここではいちいち紹介しない。
 日本人が書く台湾の話は、当然だが日本人の視点に限られて、「日本時代は素晴らしかった」という賛美で終わってしまいがちだから、あまり読む気がしない。だからと言って、台湾人が書いたらおもしろい本になるというわけでは、もちろんない。
 『日本統治時代の台湾』がおもしろいので、読んでいる途中でアマゾンを開き、同じ著者による『国際広報官 張超英』(まどか出版、2008)を注文した。この本は,台湾、香港、日本で教育を受け、アメリカと日本で台湾の広報活動をした張超英(1933~2007)が語ったものを、陳柔縉が物語風に仕上げ、何人もの日本人が翻訳したものだ。「きっと、おもしろいぞ」と期待して読んだのだが、まったくおもしろくなかった。この人物がおもしろくないのか、文章に問題があるのかわからないが、おもしろい本ではなかった。ただし、この本に登場するおびただしい固有名詞にひっかかりがある人は、参考資料としては大いに役立つかもしれないし、読んでみたいと思うかもしれない。
 香港の高校から日本にやってきた張は、日本語を鍛えなおすため学校に入る。校舎の中にある院長の家庭に居候していたのだが、その学校は神田駿河台文化学院だから、同窓生の岡崎大五氏はきっと立ち読みくらいはしたいと思うかもしれない。その程度の興味は引くだろうが、買うほどのことはない。同じ著者の『台湾をもっと知ってほしい日本の友へ』(中央公論社、1998)は、もっとおもしろくない本だった。政府の広報官が書いたものは、やはりおもしろくない。